第33話 一時のお別れ
血。
血だ。
血が、ぽたぽたと、あたしの頬を伝っている。
(…………)
しかしこれは、あたしの血ではない。
あたしの眼前で「爪」を押さえる、逞しい手の平から滴る、血だ。
「大丈夫か? 早川素真穂」
――若菜ちゃんだった。
あたしたちとメロンパンを食べ合った、牛文字若菜ちゃんの、太い腕。
独房にいるはずの若菜ちゃんが、廊下の奥から駆けつけてきていたのだ。
「わ、若菜ちゃん……。どうしてここに……?」
血に溢れた手の甲を目の前に、あたしは聞いた。
「鹿忍に牢屋の鍵を盗んでもらったんだ。お前らの計画に加担するためにな」
囁くように、若菜ちゃんは答えた。
「午前中に言っただろ? お前がピンチになったときは、必ず助けてやるって」
(若菜ちゃん……!)
若菜ちゃんは、手の平から沢山の血を出しながら、龍華ちゃんが振り下ろした爪の刃先を握り込んでいる。
「離セ……! 離セ……!」
爪を握られた龍華ちゃんは、抵抗の素振りを見せている。
だけどその細い右腕は、若菜ちゃんの腕力の前では無力と化していた。
日に一回の食事では、大食らいの若菜ちゃんの身体に敵うはずもない。
「いったん落ちろ、奈落峰。お前の出番はここで終わりだ」
若菜ちゃんはそう言うと、空いている左手で、龍華ちゃんの喉元を「がっ」っと掴んだ。
「グエッ!?」
一瞬だった。
龍華ちゃんは目の玉を回転させ、がっくりと首を下ろした。
「……」
表情を失い、動かなくなっている。
若菜ちゃんの腕先で、人形のように吊り下がっている。
目を開けたまま、気絶してしまったようだ。
「今の
悲しい目をした、若菜ちゃんが言った。
あたしのほうを向き、静かに続ける。
「だけど、ここに閉じ込められている限り、
「…………」
「もしも外に出られたら、責任をもって俺がこいつを立て直す。時間は掛かるだろうが、それが、今の俺にできる唯一の
(若菜ちゃん……?)
「走れ。早川素真穂」
「え?」
「外へ走って、「だつごく」を成功させてくれ」
真剣なお顔で若菜ちゃんは言った。
「そして、俺や鹿忍、奈落峰を、全員シャバに出してくれ」
(……!)
「俺たち凶悪犯一同は、社会のルールに乗っ取ってもう一度やり直す。約束する」
その言葉は、あたしの背中の看守さんにも、言っているようなふうだった。
「受刑番号29番……」
若菜ちゃんは、龍華ちゃんの身体を背負ってあたしに続けた。
「こうしてお前との約束だって守れたんだ。社会のルールがどんなものであっても、今度はきっと守ってみせるさ」
あらたまって、あたしに言う。
「信じてくれ」
若菜ちゃんのその瞳は、鉄のように固い意志を、たしかに纏っていた。
やはり女の子らしくはない。
女の子らしくはないが、これがきっと「若菜ちゃん」なんだ。
「…………」
あたしが入った『しらゆり刑務所』には、本当にいろんな女の子がいた。
社会のルールに溶け込んでいけないような、変わった女の子もいっぱいいた。
でもそれはきっと、あんまり悪いことじゃないんだって、あたしは思う。
当たり前のように存在している「社会のルール」だって、どこかの誰かがつくったものだ。あたしたちと同じ、「人間」がつくったものだ。
何をしちゃいけないかなんて、その人たちだけで全部を決めるなんてずるい。
でもだからって、それをあたしたちが、決めるべきでもない。
答えなんかないんだ。
たしかな「ルール」は、みんながそれぞれ持っている。
あたしたちは同じようで、全然違う生き物なんだ。
だから少しずつ、わかり合っていけばいい。
この刑務所にいる、あたしたちのように。
(すくっ)
あたしは立ち上がった。
その瞳を、信じることにしたのだ。
「ありがとう、早川素真穂」
立ち上がったあたしに、若菜ちゃんは言った。
「シャバで会ったら、またメシでも食おうぜ」
「うん……!」
あたしはぐぐっとお顔を上げた。
T字路の中央に立ち、進むべき方向を見定める。
「早川……!」
「素真穂ちゃん……!」
右側から耳慣れた声が聞こえる。
食堂側の廊下を見ると、倒れ込んだ二人が、床に這いつくばっている。
二人はすっかり腰を抜かし、動けなくなってしまっているようだ。
這いずる二人の奥からは、看守さんたちが迫って来ている――。
「エリカ先輩……! なのらちゃん……!」
あたしはそちらに行こうとしたが、血だらけの太い腕が、それを阻んだ。
「今のお前が行くべきは、そっちじゃないだろう?」
遮った若菜ちゃんが、あたしに横顔を見せる。
「看守の相手は俺がする。お前は、お前にできることをやれ」
「……!」
「誰か一人でも外に出れば、それでゴールなんだろ?」
若菜ちゃんはそう言って、最後に笑顔を見せた。
龍華ちゃんを背負い、二人のほうへと向かう。
あたしが進むべき道は、もうひとつしかない。
「早く行け、早川!! ここでもじもじしてはだめだ!!!!」
エリカ先輩が、あたしに言った。
「素真穂ちゃあああん!! なのらのぶんまで、走っておくれのらああああっーーーー!!!!」
なのらちゃんも、あたしに言った。
(エリカ先輩……! なのらちゃん……!)
あたしは身体を出口に向けた。
残念だけど、みんなとはここでお別れだ。
――でもこれは、一時のお別れである。
「次に会うときは、お外で!!!!」
あたしは前へと駆け出した。
今の自分の表情が、笑っているのか、泣いているのか、自分でもわからない。
きっと真剣なお顔をしていることだろう。
だってその結末は、今はまだわからないのだから。
みんなの結末は、あたしの頑張り次第なのだから。
ここからあたしは、一人でお外を目指します。
「あたしがこの刑務所を終わらせますっ!」
あたしは声を振り絞った。
廊下いっぱいに響くような勢いで。
刑務所のみんなに、聞こえるように。
「みんなで一緒にお外に出て、みんなで一緒にやり直そうっ!」
あたしは確信した。
この感情こそが、本当のあたしなんだ。
「あっ、待て!! 49番!!」
背中を掴むようなお姉さんの声を振り切り、あたしは前へと逃げ込んだ。
ごめんね、お姉さん。
あたしは、お外に出ます。
「――――」
目の前には、薄暗い一本道が、果てしないように伸びている。
あたしが最初に通った道だ。
お姉さんに怒鳴られながら、あたしが最初に歩いた道だ。
ここを真っすぐ抜ければ、あたしはお外へ出れる。
みんなが自由になるための、最後の一本道!
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