06: Sharing information
わたしが、ミルクパズル症候群に罹患していることが分かったのは三年前のことだった。
教員免許を手に入れたというものの、定職に就くことはなく、のんびりと毎日を過ごしていた。
兆候なんて無かった。ただ忘れっぽいな、と思っていただけで、友人からミルクパズル症候群の疑いがあるから病院で検査をしてもらうように助言を受けたことで漸く病院に行ったくらいだ。
それまでは自分がまさかミルクパズル症候群に罹患しているなど思いもしなかった。
それからはあっという間だった。BMI端子を埋設する手術を受け、早急にバックアップを取り、大事を取って数日間入院した。
恩師に出会ったのは、ちょうどそのときだった。彼はその病院で脳外科医を務めていた。
恩師はわたしに向かってこう言った。
これからの人生、君の記憶には常にリセットの恐怖が襲いかかってきている。しかも、そのリセットをすると記憶を誰も教えてくれない。だから、悔いの無い人生を送りなさい。
それはわたしにとって神様のようにも思えた。
だからわたしはそれから脳科学の研究に傾倒するようになった。理由は簡単だ。ミルクパズル症候群の治療法を見つけたい――そう思ったから。自分が罹患しているから、ちょうどよかったのかもしれない。
恩師はわたしがそれを実施することについて一切止めることはなかった。「それが君の人生だから、わたしがとやかく言う話ではない」と言ってくれた。わたしにとってそれはとても有り難かった。
そして研究を続けた結果――そもそもまともに研究している学者が少ないからか――論文を学会にて発表し、そのまま教授の地位を手に入れることが出来た。
そのままわたしは出身大学に新設された『記憶科学』の授業を受け持つこととなり、わたしは今の日常を過ごしている――ということだ。
「……以上が、わたしの昔話だ」
研究室が沈黙に包まれた。当然だろう、わたしは今までこんな昔話を他人にしたことがない。家族などとうに死んでいるし、結婚もしていない。要するにわたしは天涯孤独の身ということになる。
彼女はわたしの言葉を聞いて、よく噛み砕いているのか、何回か頷いて俯いている。
「申し訳なかった。このような重い話をするつもりは無かったのだが」
「いえ。別に問題ありません。寧ろ、有益な話を聞くことが出来ました。実際、ミルクパズル症候群の罹患者に出会うことはあっても話を聞くことは出来ませんから……」
そう。
本来なら、病気に罹患した場合は仮に同じ病気の罹患者と出会ったら情報を共有することが普通かも知れない。それが直接話をするか、インターネットの掲示板などで共有するかは別として、手段は問わず、様々な方法で情報共有が可能となっている。
しかし、ミルクパズル症候群は別だ。ミルクパズル症候群に罹患した患者はバックアップ取得後に経験談を話すことは出来ても、それを聞くことは出来ない。それが、さっき言った『ウェイト=ダグラス宣言』に抵触してしまう――ということに繋がる。
では、罹患者はどうやって情報を仕入れるのか――ということになるが、それは医者から情報を得るしかない。医者は罹患者からの情報を仕入れることは出来るし、ミルクパズル症候群に罹患していないからそれを別の罹患者へ提供することが出来る。医者からの情報提供はウェイト=ダグラス宣言に抵触していないこともまた、要因といえるだろう。
「……確かにそうだな。わたしも最初は随分と苦労した。どうやって情報を仕入れれば良いか、と考えていた。でも、君くらいの年齢なら、インターネットから情報を仕入れることも可能だろう」
「あれは
そう言って彼女は笑みを浮かべる。
インターネットには非公式ではあるが、罹患者同士が情報を共有する掲示板が多数設立されている。当然ながら先ほど言ったウェイト=ダグラス宣言に違反するため、政府やWHOに見つかってしまえば直ぐに潰されてしまうだろう。
しかしながら、政府やWHOも常にインターネットを監視出来るほど暇ではない。それに仮に一つの掲示板を潰したところでまた別の掲示板がいつの間にか誕生している。
要するにいたちごっこ。
今のインターネットはそういった状態が起きているから、政府もそう簡単に止めることが出来ていないらしい。
まあ、恩師からの受け売りではあるが。
「では、君もほかの患者と同じように、医者から情報を仕入れているのかね」
こくりと頷く彼女。
「ええ。でも医者が伝える情報は、ほかの罹患者から聞いた『伝聞』によるものです。はっきり言ってしまえば、医者はミルクパズル症候群の罹患者ではない。だから他人行儀な話し方になってしまう。そんな人間から仕入れた情報には、価値などありません。そうは思いませんか」
話者によって情報の価値が変化する。確かそんな研究をしている学者が居たはずだ。研究論文も残っている。でも、今はそういった科学的根拠に基づいた話をしているわけではない――ということは今のわたしにも理解できていた。
しかしながら、彼女にわたしから話をしたくても、浮かび上がる言葉はすべて科学的根拠に基づいた話ばかり。これではわたしが彼女の意見を科学的根拠に基づいた話でねじ伏せようとしているとしか思えない。わたしが客観的にわたしを見てもそう考えられるのだから、きっと彼女もそう考えているに違いなかった。
「……一つ、聞かせてくれないか」
「何でしょうか」
「どうして君はここにやってきた。それを教えてくれ」
「わたしは、仲間がほしかったんです」
「仲間、か」
彼女が言いたいことが、なんとなく分かるような気がする。
ミルクパズル症候群はその制約の多さから、閉鎖的な病気だと揶揄されることがある。とどのつまり、彼女もわたしも――ミルクパズル症候群に罹患してから独りなのだ。
「仲間がほしい。では、仲間を手に入れて何がしたかったんだ」
今思い返せば尋問のようになっていたのかもしれない。
彼女はしばらく考えていたようだが――やがてゆっくりと口を開いた。
「一緒に、記憶を伝え合いたいんです」
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