第2話

「ふあーあ。……ねみぃ」

 くわっと、大口を広げて欠伸を一つ。そこに在るものすべてを吸い込んでしまいそうなほどの欠伸だ。四本の鋭い牙が、開いた口腔から白く覗いた。

 実にだらけきった態度で、のそのそと廊下を歩く。まるで寝起きの熊そのもの。向かう先は自身の執務室だが、その道のりが果てしなく遠い。

 先ほどまで出席していた会議では、幾度となく微睡まどろみに落ち込みそうになったものの、なんとかすんでのところで踏みとどまった。……危なかった。

 お偉方の蟀谷こめかみに青筋が立っていたような気もするが、気のせいだったということにしておこう。

 蒼い絨毯の上には、窓から差し込む陽光が等間隔に日だまりを作っている。眩しさに紅蓮の両目を細めながら、イーサンは歩みを進めた。初夏の温もりを、ゆっくりと踏みしめる。

 と、少し前方に、非常に馴染み深い背中を見つけた。

 華奢ではないが、細身のラインにしなやかな体躯。肩まで伸びた銀髪が揺れるたび、きらきらと光が躍った。

 思わず足の速度を上げる。

 背後から近づく野獣の気配を感じたのか。は、イーサンが肩を叩くより前に、くるりと振り向いた。

「よっ、お疲れさん」

「お疲れ様です、オランド少将」

 イーサンに対し、軽く頭を下げる程度に挨拶を交わした、眉目秀麗な竜人の青年。

 史上最年少で要職へと就任した、中佐ジーク・フレイムである。

「忙しくしてるみてぇだな」

「ええ、まあ。少将ほどではありませんが」

 形の良い口角を上げ、ジークはにこりと微笑んだ。彼は、そのファミリーネームで察しがつくとおり、元帥であり侯爵でもあるゼクス・フレイムの実子だ。

 だが、親の七光りなどではけっしてなく、自身の実力でもって今の地位を掴み取るに至った。そのことは、誰もが周知の事実である。

 将来有望な若芽は、現在二十歳。大佐に昇進する日も、そう遠くはないだろう。

「お前、また彼女と別れたんだって?」

「……は?」

 唐突な上官の物言いに、つい口をついて出てしまった疑問符。無礼と言えば無礼だが、言われた本人はまったくもって気にしていない。これが二人の日常なのだ。

 ジークとイーサンは、ジークが士官学校に在籍している頃からの仲。よって、もうかれこれ五年の付き合いになる。そのせいもあってか、『上司と部下』という堅苦しい関係よりは、『先輩と後輩』というほうが、しっくりくる間柄なのだ。

「いつも思うんですけど、そういう情報どこから仕入れてくるんです?」

「内緒。ほんっと長続きしねぇよな。でもって別れたってのに全然凹まねぇとかどんな神経してんのよ?」

「余計なお世話です。……そういう少将はどうなんですか? 例の一目惚れした方と」

「ん? ああ。取り合ってもくれねぇな」

 相変わらずのイーサン節。慣れているはずなのに、ジークは脱力してしまった。落ち込む素振りなど微塵も見せることなくカラカラと笑う先輩に、『さっきの言葉、そっくりそのままお返しします』と呆れ顔で宣ってやる。

 約一月前。ジークは、この大男から、とある報告を受けていた。

 ——俺、一目惚れしたわ。

 これを聞き、数分前と同じように疑問符を飛ばしたことは言うまでもない。遠征から戻ってきた第一声が『一目惚れした』だなんて、予想の斜め上を行くにもほどがある。

 それまでも、何度かイーサンの浮いた話を聞いたことはあった。この熊、意外とモテるのだ。面倒見がいいからなのか、はたまた地位や名誉があるからなのか、ただ単に珍獣扱いされているだけなのか……いずれにせよ、とにかくモテるのだ。

「取り合ってもくれないのに諦めないんですか?」

「うーん……なんつーか、とにかく気になんだよなー」

「……好き、なんですよね?」

「好き……あー、うん……好き、なんだけどよ。なんつーか……」

「はっきりしてくださいよ」

 歯切れの悪いイーサンにジークのイライラが募る。しかもなんだか微妙にもじもじしている。若干気持ちが悪い。

「気になんだよ。の真意が」

「あの言葉?」

「っそ。何があそこまで彼女を突き動かしてるのか……ってな」

「はあ」

 なんとも意味深長な口振りに、ジークは眉を顰めて生返事した。せざるを得なかった。当然のことながら、彼にはさっぱり意味がわからない。

 そんな後輩の心中などお構いなしのイーサンは、いつものようにニッと笑うと、後輩の肩にポンと手を乗せてこう言った。

「お前も早く見つかるといいな。本気になれる子」

「だから余計なお世話ですってば」

 自身の母——ルナリアを彷彿とさせるイーサンの言動に、ジークは盛大にガクンと肩を落とした。乙女度二百パーセントの母の笑顔が脳内で再生される。見事なパステルカラーだ。

 この八年後、彼はと結婚することになるのだが、それはまた別の話である。

「じゃあな。いろいろ頑張れよ後輩。なんかあったらいつでも話聞くぞ」

「お言葉だけありがたく頂戴しておきますよ。……少将も、休めるときにちゃんと休んでください」

「サンキュ。……あ。今度また飯食いに行こうぜ。お前も晴れて二十歳になったことだし、美味い酒奢ってやるよ」

「楽しみにしています」

 互いに抱くは、尊敬の念と全幅の信頼。この関係は、これから先もずっと変わることはないだろう。

 とくに口に出したりはしないけれど、ジークは常にイーサンの味方でありたいと思っていた。尊敬する彼の想いが成就するよう心から願っているし、全力で応援している。……口に出したりはしないけれど。

 しだいに日が傾いていく中。男同士さらりと笑みを交わすと、彼らはそれぞれの道へと戻っていった。




 ◆ ◆ ◆




 緑に囲まれた小高い丘の上。郊外に位置するこの街は、おしゃれで清潔感溢れる街並みを誇っている。けっして大きな街ではないけれど、古い歴史と文化の香りが漂う街だ。主要な道路は色鮮やかな石畳で舗装され、建築物の間隔にまで配慮が施されている。

 中でもとくに美しく整備された高級住宅地。その一角に、クイン邸は建っていた。

 広大な土地に佇む、とんがり屋根が特徴的な煉瓦造りの大邸宅。風に撫でられた緑の芝生が波打ち、手入れの行き届いた植木が静かに揺れる。

 たった今、一人の女性が、芝生を渡って門から玄関へと歩いていった。

「ただいまー」

 澄んだ声で帰省の挨拶をしたのは、この家の長女で休暇中のイザベラ。その右手には、少し小さめのキャリーケースが握られている。この日一泊する予定で用意してきたものだ。

「おかえり、姉ちゃん」

 そんな彼女を出迎えたのは、彼女の弟——アルド・クイン。

 栗色の短髪に淡褐色ヘーゼルの瞳をした、柔らかな印象をもつ青年だ。一見すれば未成年のようであるが、今年二十二歳になる、れっきとした成人男性である。

「二日も休み取れるとか珍しいじゃん」

「今は特別よ。またすぐに忙しくなるわ。……お母さんは?」

「会社。夕方には戻るって言ってた」

「そう」

 弟と一言二言交わし、荷物を置くために二階の自室へと向かう。玄関の側に設置された螺旋階段をぐるりと上り、廊下を南へと進んだ先が彼女の自室だ。

 五歳の時、この家に引き取られて以来ずっと過ごしていた部屋。日当たりは良好で、よくバルコニーに出ては、眼下に広がる街並みを眺めていた。

 太陽の匂いと、温かな思い出が、たくさん詰まった場所だ。

 ベッドもチェストもテーブルも……何もかもが子どもの頃のまま。だが、テーブルの上に置いてあった家族写真だけは、今住んでいる官舎へと持っていった。

 ベッド脇に荷物を置き、そのままベッドにトスンと腰を下ろす。久々に帰省する娘のために、母はきちんとベッドメイキングを済ませてくれていた。

 ここに初めて来た日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 優しく手を差し伸べてくれた父。美味しい手料理を振る舞ってくれた母。施設の職員はおろか、生みの親でさえも十分に与えてくれなかった愛情を、二人は十分過ぎるくらいに与えてくれた。

 今でもそれは、現在進行形だ。

 あの日。両親が自分をあの日。二人のために、家族のために、生きてゆこうと決めた。これからも、その決意は変わらない。

 ほんの少し色褪せた壁紙を萌葱色の双眸に映しながら。イザベラは、シーツをきゅっと握り締めた。

 コンコン——

 と、不意にドアをノックする音が聞こえた。その主に該当する人物は、今この家に一人しかいないため、『どうぞ』と一言だけ軽く返事をする。

「紅茶飲む? 姉ちゃんの好きなベルガモットあるけど」

「ありがと。頂くわ」

 ひょこっと顔を覗かせたアルドからの嬉しいお誘い。少々感傷に浸っていたイザベラだったが、すぐに気を取り直し、その整った顔に笑みを浮かべた。そうしてベッドから勢いよく立ち上がると、弟に続いて階下のダイニングルームへと向かう。

 テーブルの上には、姉が首を縦に振ると見越した弟によって、もうすでに一式が揃えられていた。

「今淹れるから、座って待ってて。……あっ、そのクッキーの箱開けてもいいよ。一緒に食べようと思って、さっき買ってきたやつだから」

 ダイニングと併設されたキッチン。その間を行ったり来たりしながら、アルドは手際よくお茶の用意を進めていった。なんとも気の利く言葉を姉に投げかけて。

 姉は、弟から発せられたその言葉に全力で甘えることにした。このクッキーは、イザベラが愛してやまないブランドのそれである。

 お馴染みの箱の中身。その全貌が明らかとなり、否応なしに心は躍る。

「ねえねえ、食べてもいい?」

 断られる可能性などないと思いつつも、イザベラは一応伺いを立ててみる。立ててはみるが、指はもうすぐそこまで伸びていた。

「いいよ、そんな聞かなくても。食べなって」

「わーい、いただきまーす。……ん~~っ、美味しい!!」

 ぱくりと頬張ると、口の中に上品な甘さが広がった。まろやかな口どけとバターの香りが極上の一品。まさに至福の一時だ。

 姉の幸せそうな顔に、弟も嬉しくなった。……というより、安心した。姉の姿を横目にそっと微笑を零すと、二人分のカップにゆっくりと紅茶を注ぐ。

「おまちどおさま」

「ありがと。……あー、いい香り」

 自身の大好きな組み合わせに、イザベラはたいそうご満悦の様子だ。弟が設けてくれたティータイムを、存分に満喫する。

 四人掛けのテーブル。アルドは、いつものようにイザベラの対面に腰掛けた。幼い頃からの定位置だ。

「今日は学校休みだったの?」

 紅茶を口に含み、こくりと喉を鳴らす弟に向かって、姉はこんな質問をした。

 この日は平日。弟が在宅中だとは思わなかったがゆえの質問である。

「いや、行ってたよ。午前中だけだけど」

「ちゃんと卒業できそう?」

「馬鹿にすんなって。姉ちゃんよか頭悪いけど、これでも成績良いんだぞ」

 アルドは薬学を専攻する学生で、卒業すれば、姉と同じく『博士ドクター』の称号を得ることができる。彼が薬学に身を投じている理由は自明のこと。

 家業を——父の後を、継ぐためだ。

 アルドがクイン家の長男として引き取られたのは、彼が二歳のとき。もちろん、自身が養子であることは知っている。両親は包み隠すことなくすべてを姉弟に話していたし、聡明な彼らはそのすべてをはっきりと理解していた。

 結婚後まもなく罹患し、子どもを授かることができなくなってしまった母のこと。そんな母や会社を守るため、懸命に働いてきた父のこと。

 家柄が家柄であるため、姉弟は常に奇異な目で見られてきた。他人からだけではなく、身内からも。両親が折に触れて、親族連中に嫌味を吐かれていたことも、二人は知っている。


 ——どこの馬の骨とも知れない、それもヒトの子を、二人もクイン家に入れるなんて。


 そのたび、イザベラは怒りをエネルギーへと変えていた。

 両親を、家族を、必ず守る。そのためには、自分が強くいなければ——そう、ずっと心に刻み込んできたのだ。

「あんたが会社に入ったら、お父さんとお母さん喜ぶわね」

「んー、そうだといいけど」

「きっとそうよ」

 弟が淹れてくれた紅茶に顔を映し込みながら、イザベラがぽつりと言葉を落とす。ある意味、自分よりも重い責任を背負っている彼のほうが、常に精神的な背伸びを強要されてきたのかもしれない。

 しかし、そんなふうに労った弟に、イザベラは予想外の変化球を投げられることとなった。

「……それ以上に喜びそうなこと、オレ心当たりあるんだけど」

「なに?」

「姉ちゃんの結婚」

「……は?」

 すさまじい速度とコースの変化球。姉はそれを打ち返すことができなかった。不覚にも、一瞬たじろいでしまう。

 けれど弟は、初球に続き、さらなる変化球をバンバン投げつけてきたのだ。

「彼氏とかいないの?」

「いないわよ」

「マジで? 二十代もっと謳歌しろよなー」

「うるっさいわね。そういうあんたは彼女いるわけ?」

「いるよ」

「はっ? いつから?」

「えっと……三ヶ月くらい前から」

「聞いてないわよ」

「言ってないからな」

 しれっと言ってのけるアルドに向けて、イザベラが不服げな眼差しを浮かべる。弟にこんなことを言われるだなんて、姉としては実に面白くない。

 恋愛云々に関して微塵も興味がないため、弟のことを羨ましいと思う気持ちはこれっぽっちもないけれど、それでもとにかく面白くない。瞬間的に、なんだかもやもやとした感情に苛まれた。

 このとき、イザベラの脳裏には、なぜかあの人物が浮かんでいたのである。

 唐突に現れては、自身のペースと心を搔き乱す、大熊のようなあかい彼の姿が。

「早くいい人見つかるといいな」

「大きなお世話!」

 にやりと笑った弟の憎らしい顔に、盛大に毒をぶつけてやる。それでも、弟が怯む様子などまったくなかった。

 なぜ、イザベラが機嫌を損ねるとわかっていて、アルドはこのタイミングでこの話題を持ち出したのか。

 それは、彼が幼い時分よりずっと、彼女に対して抱いている、ある強い想いからだった。

 アルドは、イザベラと姉弟になって以来、彼女の涙を一度も見たことがない。この二十年間、一度も。

 イザベラが精神的にタフだということは重々承知している。けれど、父にもしものことがあった場合、人一倍家族のために生きてきた姉が壊れてしまうのではないかと懸念していた。

 優しくて繊細な姉。そんな姉を支えてくれる誰かが現れてくれればいいのに。

 そう、願わずにはいられなかった。

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