リリーベルの鳴る頃に

那月 結音

プロローグ

 辺り一面に広がる紅蓮と灼熱。まさに業火だった。悲痛な叫び声は轟音に掻き消され、灰になって舞い散った。

 容赦なく。跡形もなく。

 その中で、彼女は諦めることなく戦った。救うために戦った。

 水色の髪はすすまみれとなり、白い肌には血が滲んだ。傷を負った兵士たちを、ときに励まし、ときに叱りながら、彼女は戦場を駆け回った。

 そんな彼女に、彼は恋をした。一瞬にして心を奪われてしまった。


 あの日。あの瞬間。

 緋色の鬼神は、戦の地に凛と咲いた一輪の花に、恋をした——





 ◆ ◆ ◆





 荘厳な空気漂う二色の空間。

 果てしなく続く真白い壁と、それに沿って敷き詰められた真っ青な絨毯。天井には、小さなシャンデリアが等間隔にぶら下がり、白熱灯が清らかな光を放っている。

 このサファイアブルーの廊下を、一人の女性が歩いていた。至極優美に、軽やかに。

 絨毯に吸収されたヒールの音が、一定間隔で鈍く響く。彼女とすれ違うたび、人々は短く立ち止まって頭を下げた。

 白いブラウスに黒のタイトスカート。一つに束ねた水色の髪は、滑らかな曲線を描きながら背中へと流れている。萌葱色の双眸は光を反射して煌めき、薄紅色の唇は挨拶を交わすたび艶やかに笑みを象った。

 周囲の目を一瞬にして惹きつけてしまうほどの美貌。それを何よりも引き立てているのは、彼女が羽織っている白衣だった。

 若き優秀な軍医少佐——イザベラ・オランドだ。

 ここは、軍本部の本館。彼女が所属してるのは附属の病院だが、月に一、二度、出張でここを訪れることになっている。会議や研修等その目的は様々だが、内科と外科を専門とする彼女の職業生活は実に忙しい。……充実している、というべきか。

 先ほど業務を終え、現在、館内のとある場所へと移動している最中だ。

 今日はこのまま退勤しても良いことになっている。いわゆる直帰。その前に、この建物内にいるであろうに会おうとしているのだ。

 相手はまだ仕事中。よって、会えるかどうか定かではないが、とりあえず通い慣れたルートを辿る。

 壁の白と床の青。この二色だけをとってみれば、冷たい印象が強いだろう。だが、ところどころに観葉植物が配置されているおかげで、視覚的に暖かさを感じることができた。

 くぐもったヒールの音がやってきた先は、この建物……もとい、組織の中で、主要な地位に就いている者たちが多く集まるブロック。

「……さて。熊さんは在室中かしら?」

 目的地に辿り着いたイザベラは、こう独りごちると、短く溜息を吐いて呼吸を整えた。広大な施設ゆえ、いくら慣れているとはいっても、やはり疲労感には苛まれる。

 威厳すらひしひしと感じられる、オークでできた立派な扉。その前に立ち、ノックをしようと手を構えた。

 そのとき。

「おー、お疲れさん」

 不意に、野太い声がイザベラの鼓膜を揺らした。男性のものだ。その主のほうへと振り向き、彼女も同じように言葉を返す。

「あら、お疲れ様」

 萌葱色の瞳に映ったのは、身長百九十センチを優に超える竜人の大男。

 アッシュグレイのオールバックに、めらめらと滾る緋色の虹彩。もみあげから繋がった顎鬚は、彼のトレードマークだ。

 まるで少年のような笑みを浮かべた彼だが、着用しているサファイアブルーのロングコートの襟元には『中将』を意味する二つ星が輝いている。

 今まさに彼女が会おうとしていた人物だ。

「こっちで仕事だったのか」

「ええ。もう終わったけどね」

「そっか。これから病院戻んのか?」

「ううん。今日は直帰。子どもたち迎えに行かなきゃ」

「あー、今日お袋さんが見てくれてんだっけ。悪ぃな」

 まるで夫婦の会話。それもベテランの。

 そう。何を隠そうこの二人は、紛うことなき夫婦なのである。

 二人の関係を知った人々の頭には、十中八九この言葉が浮かぶことだろう。


 ——美女と野獣。


「貴方まだ仕事中なんでしょう? 早く帰れそう?」

 イザベラが、夫——イーサンを見上げて問いかける。身長差約三十センチ。体格差は例の魔法の言葉で形容可能だ。

「ああ。今日はとくに立て込んだ案件もねぇしな。あと一時間もすりゃ帰れると思う。……なんか急用でもあんのか?」

 イザベラが本部に出張してきた際、夫の顔を見るために彼の執務室へ寄ることは珍しくない。ともすれば、ほぼ毎回こうして訪ねている。

 だが、なんとなく今日は様子が違っていた。夫である彼にしかわからないほどの違和感。思わず首を傾いでしまう。

 これに対し、イザベラは少々眉を顰めると、形の良い唇を軽くすぼめてから回答した。

「うーん、急用ってわけでもないんだけど……さっき母から連絡があってね。『今日は夕飯みんなで食べましょ』って言うのよ。だから、貴方も仕事終わりしだい実家に寄ってほしいなって思って」

 顰めた眉はそのままだったが、彼女の口角は緩やかに上がっていた。母からのせっかくの提案を無下にはしたくない。そんな娘としての恩愛に満ちた表情だった。

 イザベラの母シルビア・クインは、現在六十二歳。息子(イザベラの弟)夫婦と同居しているのだが、数年前に仕事の第一線を退き、昼間はほとんど一人で過ごしている。よって、今日のように、たびたび孫の面倒を買って出てくれているのだ。

 オランド夫妻に子どもは三人。今年七歳になる一卵性双生児の息子——ディランとコールに、先日五歳になったばかりの娘——エリザだ。

 ディランとコールは、この春から国立教育機関の初等部に就学しており、エリザもそこの附属幼稚園に通っている。三人ともすでに下校・退園を済ませ、今はシルビアと一緒に両親が来るのを待っているらしい。

「わかった。なるべく早く帰れるようにする」

「ありがと。お願いね」

 互いに多忙を極める身だが、できるかぎり家族を、とりわけ子どもたちを優先しようと決めている。軍人という立場ゆえ、なかなか思うようにはいかないけれど、それでも常に念頭に置いてあるのは子どもたちのことだ。

「じゃあ、私は先に行ってるから。あと少し頑張ってね」

「サンキュ。またあとでな」


 家族——それは、イザベラにとって、何より特別な存在だった。


 愛する夫と笑みを交わし、本部を後にする。

 外に出たとたん、爽やかな風がイザベラの頬をふわりと撫でていった。かすかに鼻孔をくすぐる初夏の匂い。敷地に植わっている樹々は皆、光を浴びてきらきらと輝いている。

 萌葱色の瞳に映じたのは梢に揺れる青葉。この季節が来ると、イザベラは決まってあの頃のことを思い出す。

 八年前、初めてイーサンと出会った、あの翠緑の季節のことを。

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