第13話 「ダメ男、泣き崩れる」

4月も終わりに向かっているというのに、今日はとても寒い。頭上に広がる灰色の雲がそうさせているのか。いや、もしかしたら気持ちがここまで落ち込む事によって体温を下げているのかもしれない。なんにせよ、大輝と平良はまるで暖をとるかの様にお互いの体を支えあいながら病院のロビーに戻った。


小さな足音が騒がしく感じる程に静まり返ったロビーは、様々な感情が交差した時に生まれる重々しい空気に満たされていた。これから五時間、この薄汚れた粘着質の空気の中に身を置かなければならないのかと思うと平良はゾッとした。


ロビーには壁に面したソファーや、四人掛けのテーブルと椅子のセットが四組設置されている。壁側のソファーに二人、ソファーに程近いテーブルの椅子に三人が座る。平良と大輝はテーブル側の方だ。


この静寂を破ったのは大輝だった。「改めて、皆さんお忙しい中駆け付けてくれて本当にありがとうございます」その言葉を受けても誰一人として反応はしなかった。「さっきお婆ちゃんが言っていた一徳の事だけど、一徳は自分以外に代わりのいない仕事をしているんだ。だから、昨日すぐに来れなかったのは無理もないと思うのね」


平良は驚いた。まさか先程まで泣き崩れていた大輝が自分の事を擁護してくれるとは。話をしている大輝の声は震えていて、きっと勇気を出して自分の事をかばってくれたのだろうと平良は心の中で感謝した。


すると、祖母が意見をし始めた。「一徳がどんな事をしているのかお婆ちゃんは知らないけど、なんであなたはいつもそんな変な格好をしているの?16歳の頃にあんたがバイクで大事故を起こした時、お婆ちゃんはあんたの金色の長髪を見てびっくりしたんだから。そんな見た目の人がね、社会で真面目に生きている人間だなんてお婆ちゃんは思えないんだよ。お母さんが可哀想だと思わないの?そんな変な格好の息子がいたらきっと不安で仕方ないはずよ」


祖母は、怒っているというより一生懸命に平良を正してあげようと思っているに違いない。だがしかし、平良は祖母の事を今すぐぶん殴ってやりたかった。もちろんそんな事は出来ないが、悔しくて堪らなかったのだ。


何も言えずにいる平良を擁護する様に、大輝がまたも話をしてくれた。「母さんもね、一徳の事を応援しているし、一徳のこれからをいつも楽しみにしていたんだよ」そうだったのかと平良は思うと、同時に母が背中を擦りながら「嫌な婆さんでごめんね」と謝っている様な気がした。


背中に感じる温もりを盾にして、平良は今自分がやっている事、そしてこれからの展望を話してみせた。少しは理解を示してくれるのではという淡い期待もあったが、それは大きな間違いだった。「お前は生きていくという事を舐めている」「それで一生食っていけると思っているのか」叔父も叔母も祖母と似た意見で平良を叩きのめした。


こうやって夢を諦めていく人は世の中に沢山いるのだろう。自分もここで終わるのかも知れないと平良は感じた。屈辱的でボロボロな精神状態ではあったが、今はどうしても母の事だけを考えていたかった平良は、不本意ではあるものの、今予定されている仕事が全て片付いたらその時には外で働き始めると伝えた。


もちろん、場をまるく収めたいがための発言だった。その時、叔父の口から出たとんでもない一言が平良の胸をズタズタに切り刻んだ。「一徳は卑怯な奴だな」この言葉の真意は解らない。だがしかし、弱っている平良には「そうなのかもしれない」と思う事しか出来なかった。誰も叔父の発言に対して意見をしなかった為、その意味は解らないままに平良の胸の中にずっと残る事となる。


それにしても、この様な空気で五時間待つというのは想像以上に過酷だった。話しの矛先が平良に向けられていた為に皆の意識から薄れていたのかもしれないが、今行われている手術が失敗すれば母は死んでしまう。失敗と言っても、それは医療ミスの事でなく、お腹を開いた結果、手の施しようが無いと判断された時の事だ。


まるで綱渡りをしながら待っている様で、それに耐えられず平良は大輝を外に誘い出した。缶コーヒーを二本買い、少し冷静になった二人が話し出した。「お兄ちゃん、さっきは擁護してくれて本当にありがとう」「いや、あれは悔しいよ。俺だって悔しかったんだ」大輝はそういうと少し興奮気味な声で続けた。


「俺はさ、やりたい仕事がしたくても今は出来ない体になっちゃったんだ。それが本当に情けなくて。だから、一生懸命にやりたい事を頑張っている平良が俺は眩しいんだよ。母さんもね、よく一徳の話をするんだ。あの子はたいしたもんだね。これからが楽しみだよって」ここまで言い終わると、大輝はまた涙をボロボロと落としながら、一生懸命に続きを話してくれた。


「俺はさ、母さんに将来を心配させる事しか出来なかったんだよ。だから一徳の事が羨ましかった。俺も母さんの生き甲斐になりたいって。だから、そんな母さんの生き甲斐を否定されてしまった様で悔しくて堪らなかったんだ」


30過ぎの男がボロボロと泣きながら一生懸命に話してくれたその言葉と姿は、平良の事を無条件に泣き崩れさせた。端から見れば、大の大人が二人して号泣しているこの様が滑稽に映るかもしれない。それでも、平良は何かしらの我慢が吹っ飛んだのだろう。中々、泣き止む事が出来なかった。


そうこうしている内に四時間半という時間が経過していた。あんなに時間の経過が遅く感じていたのに、過ぎてみればあっという間だった気もする。後30分もすれば母さんは手術室から出てくるのだ。


最悪なシナリオは“手の施しようの無い状況”が訪れる事だったので、五時間の手術が行われたという事は、なんとかそれを逃れたという事だと思った。


しかし、そんな安心したのも束の間、五時間、五時間半と経過をしても手術は終わらなかった。その時、大輝は皆の不安を煽る驚愕の事実を口にした。「今朝、主治医の方が言ってたんだ……。手術が長引く可能性があるって。その場合、もしかしたら母さんの体力が持たなくて…最悪は……」


その時、何やら騒がしく音を立て、主治医と思わしき男性がこちらに向かって歩いてきてこう言った。「平良由里子さんのご家族ですか?」

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