第44話
疲労困憊のフィニットとノーティの、それぞれの欠けた身体に処置を施したあと、リテラに到着するまでの間は安静にするよう言い渡して、船室に押し込めた。
このあとに備え、ふたりには万全な状態に回復してもらう必要がある。ところが、船に乗り込んでからのふたりは、それすら忘れる勢いで語り合いを始めてしまった。
気持ちはわかる。わかるが、シンは監督者という立場として、安静を厳命せねばならなかった。
あれだけの過酷を越えてなお、彼等の「純粋さ」は真っ直ぐにまばゆい。その事実はシンにとって深い安堵をもたらし、同時に、後ろ暗さを抱えた己には、直視をためらわれるものでもあった。
今、シンはただひとり、船の操舵室にいる。
だが、リテラに着いてしまえば己の出る幕はないのだ。ならばこの身など如何ようにも使えばいい。
今のシンにとって、それ以上に汲汲たるもの。それこそ、
細黒縁の奥、疲れ切った面差しに、ほとりと
リテラからの一報を受けたあと、シンが思念粒でふたりに伝えたのは、「事の次第」と「タイムリミットに間に合う正確な時間」、それだけだ。
だが同時に、ふたりがこれをどう判断し、どう行動するのか、其処まで見越した上での「それだけ」でもある。結果、ふたりの「判断」と「行動」は、シンの見越しをまたく裏切ることなく行われ、そして、成功した。
だからこそ、心苦しくもある。
ふたりの純粋な思いを利用する形で「脱走」を決行させ、そして、最後の最後までふたりに過酷を強いた。その申し訳なさと後ろめたさが、シンの愁眉をより深める。
そして、同じく利用という意味でなら、ふたりの特訓を頼んだ「彼等」にも少々悪いことをした。
聞き耳をたてて窺っていた限りでは、この「脱出行」で彼等にもなかなかの被害が及んでいるはず。更に言えば、この船とて半ば詐術まがいの手で奪取したようなものである。
遠からぬ後日、そのことで彼等はシンに盛大な恨み言を入れてくるだろう。
とはいえ、あちらの損害についての取り決めは、彼等と交わした「契約」には含まれていない。
あくまでも「ふたりの特訓にかけた時間と同じ時間を己が提供する」というのが今回の契約の本旨であり、そしてその内容に何ら反していない以上、「こちらにその責は及ばない」ということになる。
加えて、わざわざ「証人」を立ててまで内容を確認したのは、むしろ彼等の方だ。であれば、それについてはあくまでも彼等の裁量と判断であった、と納得してもらうよりないだろう。
其処まで考えたところで、シンは困り眉のそれにも似た僅かなゆがみを、眉間に寄せた。
納得、か。そもそも己とて、納得している暇などなかったではないか。
活動員の最古参であり、ゾハール直属の立場で行動することが多いシンは、他の活動員にない一種特殊な「符牒」を持っている。
令達を受ける際、「ある条件」でのみ機能する、特殊な決め事。そして、シンの持つそれは「己の名を呼ぶ」という条件下で機能する。ゆえに、ゾハールは通常、己の名を呼ぶことはない。
だから、己の言い募ろうとした言葉を遮り、叱咤する形でゾハールがシンの名を呼んだ、あのとき。言葉にされたものとは別の「意図」があることを、シンは察した。
シンの符牒に与えられた意は、「逸せず、しかし反せよ」。
答え合わせをするならば、これは危急の案件として伝えられた状況事実以外の部分、己に言い渡された「ふたりの監督」という厳命の部分に掛けられている。すなわち、「監督者という立場は逸脱せず、ふたりが脱出を決行するよう誘導し、それに乗じて帰還せよ」という明言されない形の命令として。
体面は保ちつつ、「こちら」に責の及ばぬよう、「契約」を反故にしてこい、ということだ。シン自身、詭弁ぎりぎりを突くような任務には慣れてもいるが、それも現場で承ける側となれば、無茶振り以外の何ものでもない。
とまれ、「符牒」は発された。リテラへの帰還命令であることを気取られぬよう、表情と感情を出さぬよう、顔を伏せ口を引き結んで「こらえた」のはそういう理由である。
結局のところ、一刻も早く戻りたいと願ったのは、確かに誰より己だ。そして、それを見透かされてゾハールに利用されたのもまた、誰より己である。
──あのひとはいつもそうだ。
こうなるように仕向けてくれたことへの感謝は、勿論している。しているが、あの怜悧と慧悟の浮かぶ顔貌の一枚向こう側に、いつもどおりの「度を超した面白がりたがり」がいるなど、誰が思うというのか。
シンの浮かべた眉根のゆがみは、そんな己の上司に向けた、些細にして複雑な困却の感情による。
溜息をつく如くに大きく肩を落としながら、シンはゆるゆると首を仰のかせ、己の周りに意識を戻した。
既に船は巡航速度に入り、内部は至って静かである。ただし、出せる最大とはいえ、所詮は小舟の船足。はたして間に合ってくれるものかどうかは、未だ瀬戸際の域だ。
もっとも。運良く間に合ったとて、おそらくまた己は何もさせてもらえないだろう。そも、この一連の禍の根たる己が出たところで、巻き込んだものたちに対し、いったいどう顔向けできるというのか。
深く座した艦長席の背に、くったりと上身を委ねる。けれど、シンの浮かべる表情に、安らぐ色は
結局、己がどれほどの
たとえそれが、起こり得る「最悪」に至る形になってしまったとしても。
それはまたしても、リテラの上空に現れた。
空を大きく割るような赤黒い毀裂。その端から、毀裂と色を同じくする巨大な不定形の柱の群れが、
ウィンドチャイムみたい。その光景から、ひかりはぼんやり連想した。棒状の音色棒が何本もぶら下がる、風鈴の一種みたいなやつ。
もっとも、これにそんな風情などあるわけがない。何故なら今、高い上空にぶら下がるその巨大な柱の一本に、ひかり自身がぐるぐると縛りつけられているのだから。
身体を拘束しているのは、先の襲撃に使われたスライムにも似た、ぶよぶよ、びよびよした何か。柱から直接生えるように出ているそれは、けれど見かけからは想像できないくらい、がっちりとひかりを縛りつけていて、抜け出すのはどう見ても無理だろう。
バラトシャーデに捕まって「檻」に放り込まれたときの傷は、きれいさっぱりいつの間にやら治っていたから痛くはない。でも、この拘束に抵抗して暴れれば、また新たなあざや傷をこしらえるのも目に見えていた。
そもそも、もし抜け出せたとしても、こんな高さから落ちたらそれこそ無事でいられるはずもないだろう。
うっかりそんな想像して、ひかりは思わず、ひゅ、と息を呑んだ。
極力見ないようにしていた眼下に、ちらりと視線を下げる。
其処に広がるのは、きらきらと波打つような風紋を無尽に描く、だだっ広い砂原のような景色。
今までに案内されたリテラのどの風景ともまた違う、見たことのない場所で、こんな状況でさえなければ、それこそゆっくり見て回りたいくらい、きれいで素敵な景色の──
「奴等にとって、この娘はこれ以上ない大事な客人だからな。助けようと血眼になって右往左往する様は、実に滑稽で気分がいい。」
「どうせ殺すんだから、もっと派手な仕掛けでもしとけばよかったんじゃないかい?」
「今はまだ、助ける手立てがありそうだと思わせておくのが上策だ。希望の目にすがればその分、絶望との落差が大きくなる。」
ほんのいっとき、景色に目が奪われたひかりの耳に、全く無遠慮に入ってきた声。居丈高と横柄の、聞くだけで
目をキッと険しくして睨みつけたのは、自分が拘束されているのとは別の、少し低い位置の柱。
「……何好き勝手言ってくれてんのよあんたたち……!」
思わず叫んだひかりの声に、その会話が止んだ。剣呑な目が二組、ギロリとこちらを向く。
赤茶けた節足動物のような異様の怪物と、下衆な白いマフィアもどき。不定形の柱に生えた、枝のような棚のような場所で、ふんぞり返るように立つバラトシャーデとアンティアヴィラタの姿だった。
そのそれぞれの視線が、不愉快と陰湿の視線でひかりを見上げている。
他の、あの黒い英国紳士っぽいのはいないようだ。もっとも、
「これがか弱い地球人相手にすること? やることが陰険すぎてドン引きよねホント!」
動かせる範囲の手足をじたじたと動かし、噛みつくように文句を言う。逆恨みの私怨で処刑などという理不尽極まりない状況で、それでも理不尽に対して刃向かうことで、ひかりは今も気丈を保っていた。
殺されるのが怖くないわけはない。むしろ怖くてしかたない。でも怖いからこそ、「怖い」だけで済ませるなんてできない。
「相変わらずキャンキャンとうるさいお嬢チャンだ。か弱い地球人だからこそ〝囚われのお姫様〟の役をあてがってあげたんだよ。せめてもう少しそれらしく、怖がったり怯えたりして欲しいところかな。それか、その良く響くキャンキャン声で、キミを守れなかった
そんなひかりを、アンティアヴィラタが
「あんたたちの思いどおりになんてなるわけな……ぎゃんっ!」
ふつふつと沸き立つ怒りに勢い任せ、向かっ腹の立つまま更に文句を続けようとしたひかりの言葉は、しかし、短く甲高い悲鳴に変わってしまった。
声を出した途端に身体に奔った、電気でも流されたような痛みとしびれ。瞬間的なものとはいえ、痛いものは痛い。
「奴等に聞かせる悲鳴なら幾らでもあげてもらおう。だが、
不快を極めたようにひかりを睨むバラトシャーデの顔は、本来の身体の持ち主である蝦名のものだ。だが、その行動や言動は、蝦名自身のものでは、勿論「ない」。
「
あくまでも反抗するひかりの言葉は、しかしまたしても悲鳴に終わる。
何らかの仕掛けを操作しているのだろう。さっきよりもひどい痛みがひかりの身体に奔り、黙らざるをえなくなった。
もう何よ、何なのよ! 何でこんな目に遭わなきゃなんないの。誰でもいいから何とかしてよ!
いくら跳ねっ返り精神を発揮しようと、身体的苦痛はどうしようもない。じんじんと身体に残る痛みをこらえながら、こんな悪趣味な目に何度も遭うなんてまっぴらなんだけど! と、ひかりは内心で悪態をついた。
復讐とか処刑とか、わけわかんないこと一方的に勝手に決めてくれちゃってさ。目尻にぽつぽつと涙が浮かんでくる中で、ますますつのる腹立たしさと悔しさ。
警護員のソーエンを殺して生命鉱石を奪い、フィニットをひどい目に遭わせたやつ。蝦名を乗っ取り、その存在を消滅させようとしているやつ。
──だいたい、シンさんがおじいちゃんを「殺さねばならなかった」って話だって、元はといえば全部こいつのせいじゃないの!
確かに、此処に来てからのシンのあれこれは、ひかりにとって理不尽なものだったと思う。それでも、その理不尽を生んだのも結局、過去のバラトシャーデの身勝手な欲望と行動に端を発しているわけで。
考えれば考えるほど、ひかりの腹の虫は治まらない。
頭にくる、むかつく、はらわたが煮えくり返る、その他もろもろエトセトラ。
思いつく限りの、あらゆる怒りの表現を脳裏に並べてみても、それでもまだ怒り足りない気持ちがむくむくと湧いてくる。
ひかりとあいつらのいる柱の群れの更に下方に、取り囲むような形で多数の警護員たちが集まっている。
バラトシャーデが切った刻限、というか、勝手に早めた「処刑時間」には、しかし今少し猶予があった。おそらくは、それまでにひかりを救出すべく、策を講じているところなのだろう。
けれど、自分が囚われてしまっているばかりに、その手をこまねかせる状況になってしまっている。
ひかりが抱く怒りの度合いに反比例するような、圧倒的な何もできなさ。
助けようと必死になってくれているものたちの、懸命の動きすら止めさせてしまっている自分の存在、その事実。
自分がどれほどちっぽけで無力であるかなど、十分に知っているし、わかっている。それでも、いや、だからこそ、ひかりにとってこんなに悔しいことはなかった。
──私、何のために、
はふ、とかろうじて出せた溜息と、ことん、と力なくうなだれる頭。リテラに来て果たすべき「親善大使」という役目も、「おじいちゃんの伝言」も、全然途中なのに。
此処までへこんだ気持ちになったのは、もしかして生まれて初めてかもしれない。
「さて。そろそろお待ちかねの
「……まだだ。奴がいない。奴がいなければ意味がない! 他の有象無象など二の次だ。奴にこそこれを見せつけ、絶望と悔恨に叩き落としてやらねばならない……!」
へこみの真っ只中にあるひかりのことなど視野にもない様子で、あいつらの会話は続いていた。楽しいイベントを待ちかねるような口調で、処刑執行を促すアンティアヴィラタ。しかし、バラトシャーデはしきりに周囲を気にした様子で、ひどくイラついた空気を振りまきながら答える。
その言葉の中にある「奴」というのは、シンのことに違いない。
実際、ひかりの視界が届く範囲に、シンの顔はなかった気がする。この処刑がシンへの当てつけなら、当てつけたい当人がいない状況は不本意でしかないだろう。
ただし、アンティアヴィラタの方に、それを考慮する気はないらしい。
「アー、もしもしバラトシャーデくゥん? 改めて言っておくけど、ボクたちは善意でキミを手伝ってるわけじゃないんだよね。そもそもこのスケジュール変更だって、言いだしたのはそっちだろう?」
辟易と呆れかえるような物言いと、あからさまに見下した態度で、バラトシャーデの言葉を一蹴する。
こいつら仲間なんじゃないの? ナマートリュに恨みを持つもの同士で結託している、というのは間違いないと思う。が、両者の会話を聞く限り、良好な関係にあるわけではない、のかもしれない。
「……貴様等には十分に利を供してやっているはずだ。余計な口出しはしないでもらおう。」
「そうは言っても、未だに乗っ取った地球人を制御できてないとか、正直ちょっと期待ハズレ感あるんだよね、キミ。せめて自分が言ったことくらいは実行してくれないと、こっちとしてもそれなりに対応することになるよ。」
「俺に指図をするな! こいつの処刑は間違いなく執行する。まだその刻限ではない……それだけだ。」
「ならいいけどさ。約束は守ってこそだよ、バラトシャーデくん。ま、キミに協力を持ち掛けたのはこっちだ。どうせ時間をかけるなら、見栄えがするようショーアップしてもらうことで妥協してあげよう。ナマートリュどもにこの地球人が苦しむ様をたっぷり見せつけるってのも、存外悪くなさそうだしね。」
こいつってば、ほんっと悪趣味よね、知ってたけど!
人を馬鹿にしきったようなニヤニヤ笑いで、こちらを見上げているアンティアヴィラタの顔。それを見た途端、ついさっきまで人生最大にへこんでいた気分すら吹っ飛んで、ムカムカと怒りが湧いてきた。
歯ぎしりするほどの勢いでイーッと口をゆがめ、不快感を思いっきり露わにする。一瞬あとに「あっまずい」と思ったが、声は出さずにいたからか、幸いにしてあの痛いのを味わうことはなかった。
赤黒い柱の下、周りを取り囲む警護員たちが、この情景にハラハラとした表情を浮かべている。ひかりは心の中で、心配させてごめんなさい、と謝り倒した。
逃げられるような状況では勿論ない。でも、死ぬのはイヤだし、こいつらの思いどおりになるのはもっとイヤだ。
ふいとひかりの脳裏をよぎる、今此処にいないふたつの顔。
多分、今一番見たい顔だと思う。その顔を見ないで死ぬとかありえない。
だから。
「……信じるしかないでしょ。」
あきらめたくない。何もできないとしても、何もできない自分だとしても、「自分と自分に繋がるものを信じること」まであきらめるつもりなんて、ひかりの中にはこれっぽっちもない。
その思いは何故か、どうしてか、ひかりの中で強く確固と揺るぎなく、青く鳴り響くようにある。
「お、時間だね。」
アンティアヴィラタの軽薄な声が、
周囲の空気が重たくよどむ。この瞬間、全ての時間が酷情に進み始めた。
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