朝焼 extra
side波流 どうしようもない恋話
波、流れる、と書いて波流と読む。
サーフィン好きな両親が、私につけた名前。
今ではもう、二人とも波乗りは引退しているけれど、私が幼い頃は、よく海に連れて行ってもらった。
そんな名をつけられた私だが、特に激しい人生を送ってきたわけではない。
ほぼ毎晩、同じカウンターに立ち、お酒を作りながら、人々の話に相槌を打っている。
大学二年生の時だった。
お酒を飲めるようになって、カクテルの作り方なんかに興味を覚えて、私はバーへ通うようになった。
そういうのに詳しい男友達が居たから、何軒か連れて行ってもらい、やがて一人でも行くようになった。
とある路地裏に佇む昭和っぽい古いビル、そこに書かれた「メテオライト」という文字に私は惹かれ、そこのマスター、秀さんのことも気に入った。
人手が足りないという秀さんの一言に、冗談っぽく私が返したところ、本当に雇ってもらえることになって。
私はそのまま、メテオライトに居つくことになった。
「いらっしゃい。あれ、今日は一人?」
「うん。ビール飲みたい」
「はーい」
本日最初のお客様は、高校の同級生でもある夕美。
ショートカットの黒髪にパンツスーツが似合うが、案外背は低く、どちらかというと小動物のような女の子だ。
彼女はかつて、多種多様な男性と適当に付き合っていたような子だったが、一年ほど前、きちんとした彼氏ができた。
「志貴と来る予定だったんだけどね。あいつ、会社抜けれないって」
「ああ、相変わらず大変なんだね」
「ったく、あたしは必死に仕事終わらせたのにさ」
夕美にはもう、灰皿を出す必要はない。すっかり禁煙には成功した様子だ。これも彼氏のお陰だろう。
私はビールを夕美に差し出す。彼女の飲みっぷりは見ていて気持ちが良く、バーテンダーとして嬉しい限りだ。
「マスターの調子、どう?」
「あんまり良くないね」
秀さんは腰を痛め、あまり店に立てなくなってしまった。それで私はほぼ毎日入っているのだが、それ相応のお給料は頂いているし、何よりまだまだ健康だから問題ない。
けれど、ちょっとした不安はある。このまま水商売を続けていくべきか、という。
「まだ子供さんも小さいんだっけ? 大変だね」
「うん。幸い、うちの店の売り上げは悪くないからね。何とかなってるよ」
それから夕美は、仕事の愚痴を話し出す。私は元来、人の話を聞くのが好きだ。そうでないと、この仕事はできないだろう。
しかし、安定した会社に勤める夕美のことを、羨ましく思うことはある。今の私には、何の保証もない。
秀さんがこの店を閉めると言ってしまえばそれまで、他の就職先なんて上手く探せる気なんかしない。
「ところでさ。波流はあの人とどうなったわけ?」
「あー、その話?」
「進展してなさそうだな」
「うん、全くね」
実は最近、とある男性に付き合わないかと持ちかけられた。同い年の同業者だ。
酒の席だったし、私はてんで相手にしていなかったのだが、どうやら本気らしいと解って頭を悩ませている。
別に、悪い人ではない。同じバーテンダーだから、気も合うし、話も合う。
「このまま放置しようかな、と」
「まあ、波流がいいならそうすれば?」
夕美は空いたビールグラスを私に差し出す。もう一杯、ということだ。
「夕美は順調そうだね」
「一応は。付き合った当初は、陽奈への罪悪感も無いことも無かったけど……あの子も新しい彼氏できたから、まあいいかなって」
「え、陽奈ちゃん彼氏できたの?」
「地元の幼馴染だって。あたしたちと高校は違うから、知らない人だけど。まあ、地元に戻って良かったってことじゃないの?」
もう、二年前になるか。私は夕美の彼氏――志貴くんの相談をずっと受けていた。
彼は、ひょんなことから、夕美と陽奈という二人の女性のどちらかを選ぶという立場に立たされていた。
どちらも選ばない、といった選択肢もあっただろう。けれども彼は、夕美を選んだ。
私は正直、もう片方の女の子を推していたのだけれど。夕美の変わりようを見た今では、それで良かったんじゃないかと思えるようになった。
その夜、夕美はビール二杯で帰って行き、それから数組の常連さんたちがやってきた。
分かり辛い場所にあるこの店は、一見さんがほとんど来ないので、そういう意味では楽だったりする。
「ありがとうございました! おやすみなさい」
最後のお客さんを見送り、後片付けを始める。今日は単価の高いお酒を入れてくれる人が多かったから、売り上げは上々だ。
「波流ちゃん、お疲れ」
「……司くん」
同い年のバーテンダーが、やってきた。
私と司くんは、中華料理屋へ行った。こういう人種のために深夜まで開いている店は、この街には山ほどある。
「波流ちゃん、髪切った?」
「うん。この位の長さが丁度いいんだ」
私はバーテンダーになってから、金髪のショートカット、という髪型を貫いている。特に高尚な信条があるわけじゃない。髪型で、悩みたくないのだ。
それと、恋愛にも、もう悩みたくはなかったのだが。悩ませられている相手が、目の前にいる。
「オレもそろそろ切ろうかな。前髪、うっとおしくなってきたから」
「オールバックにしちゃえば?」
「それやると、一気に老けて見えるからパス」
白々しい話をしながら、餃子をつまむ。
彼に告白されてから、もう一ヶ月ほど経つのだが、私はハッキリとした返事をしていない。
それでもこうやって、食事に誘ってくる。私は夕美に言った通り、放置する気しかないのに。
「波流ちゃんってさ、高校生の時、教師と付き合ってたんだって?」
「え、なんでそれ知ってるの?」
「この前自分で言ってたよ」
「そうだっけ……」
まるで記憶になかったが、そんな話を知っているのは同業者じゃ秀さんくらいだから、確かに私が言ったのだろう。
「それって、波流ちゃんから告白したの?」
「違うよ。少なくとも最初は、そんなに乗り気じゃなかったし」
仕方がないので、私は語りだす。
村木先生は、担任でもなければ、部活の顧問でもなかった。
当時、あの高校で最も若い男性だったから、女子生徒の中ではそこそこ人気があった。
私はバスケに夢中なだけの普通の女子高生で、背が高いから多少は目立ってしまう、ということくらいが個性だった。
それなのに、なぜ接点を持ったかというと、村木先生がパチンコ屋から出てきたときにバッタリ会ってしまったからだった。
「先生でも、パチンコするんっすね」
「そりゃあ、教師でも人間だからな。香取、学校で言うんじゃねぇぞ?」
「さあ、どうだか」
別に、教師がパチンコをする位何とも思っていなかったし、言いふらす気などなかったのだが、意地悪くそんなセリフを吐いたせいで、口止めという名目で喫茶店へ連れて行かされた。
そこは、純喫茶と呼ばれる類の店で、こんな機会でもなければ当時の私が足を運ばないところだ。
私は大して美味しくもないショートケーキを食べ、村木先生と他愛もない話をした。
「香取は彼氏とか作らないのか?」
「いや、そういうの全然要らないっす。好きな人もできたことないし」
「俺が高校の時は、これでも結構モテたんだ。何人か彼女もいた」
「ああ、そんな感じですよね。先生、今でも普通にカッコいいって、友達もよく言ってます」
「普通にカッコいい、って、普通なのかカッコいいかどっちだよ」
それから何となく、連絡先を交換してしまったのだが、今思うとそれが間違いだった。
数か月後、村木先生は付き合わないか、とメールをしてきた。
どうしてそれを受けてしまったのか、当時の私のことはよく分からない。
彼氏が要らないとは言っておきながら、結局は私も周りを気にするただの女子高生、彼氏がいる女の子たちが羨ましかったのか。
始まりこそそんな適当さではあったが、二人きりで会う回数が増える度、私は本当に村木先生のことを好きになってしまっていた。
中華料理屋がさすがに閉店時間になってしまったので、私と司くんは二十四時間営業のファミレスに場所を移した。
話題はまだ、私と村木先生のことだ。
「じゃあ、波流ちゃんの初体験ってその先生?」
「そうだよ。ロクなもんじゃなかったね」
「ハッキリ言うなあ。その先生、今頃クシャミでもしてるぞ」
「さあ? 寝てるんじゃない。教師は続けているらしいから」
味の薄い紅茶を飲みながら、司くんはふぅん、とため息を吐く。
「それって、周りにバレなかったの?」
「多分バレてなかった。少なくとも、同級生にはね。私は誰にも言わなかったから、先生と付き合ってること」
「辛かったな」
「そうでも、なかったかな」
司くんと視線がぶつかる。
嘘を吐いたのがバレたかな、と思う。
私たちは、なるべく村木先生の家で会うようにしていた。
だから、他の女子高生がするような、可愛らしい外へのデートなんぞ、したことがない。
でも、私自身がそれを望まなかった。
彼の部屋で簡単な料理を作って、テレビを見て、たまにゲームをして。
浮かれていた。教師であっても、私にとって初めての彼氏。スリルもあった。それは、否めない。
ある日の夕方、私の短い髪を軽く撫でながら、村木先生はこう言った。
「波流、部活やめたら髪伸ばせば?」
「なんで?」
「きっと似合う。波流はもっと可愛くなるよ」
私は村木先生の言葉をそのまま受け止めた。何の疑いも持たず、真っ直ぐに。
「先生さ、私が卒業したらどうするの?」
「どうもしないさ。こんなコソコソ会う必要がなくなるってだけだ」
「じゃあ、私が成人したら?」
「その時は、旨い酒を飲みに行こう。色々、知ってるから」
「あと、パチンコでしょ」
「ははは、そうだな」
村木先生との日々は、幸せなことが多かった。何年も経った今ならそう思える。
けれど、彼と付き合ったせいで、私は自分に足かせをはめた気がしていた。
実際、彼と別れてから、全く別な男性と付き合うことがなかったのだから。
「波流ちゃんが男と付き合うのを嫌がるのって、そいつのせいかよ」
「全てを先生のせいにしてしまうのは、少し違うかな」
自分のことを好いてくれている男性に、過去の恋愛について話すのは、心苦しい。
興味があるのはわかるけれど、だからといって、私にどうしろというのだろう。
とにかく、司くんにここまで話してしまった以上、最後まで打ち明けてしまわないといけない。私は話を続ける。
私が村木先生を振ったのは、彼の部屋で、昔の写真を見つけてしまったせいだった。
大学生頃の、村木先生の写真。
その隣に写っていたのは、自分の将来の姿と見まごうほど、私とそっくりな女性だった。
そう、結局彼は、昔の恋人の面影を私に重ねていただけだった。
髪を伸ばせと言ったのも、つまりはそういうことだった。
「いいよ、別れようか」
村木先生は、ひどくあっさりと、そう言った。
私たちは、元通り、あまり接点のない教師と生徒に戻っただけだった。
誰にも言っていなかったから、誰にも気持ちを言えなかった。
一人で泣いた気はする。その日の夜に。
そうして私は卒業して、村木先生も丁度転勤になって。
同窓会は何度もあって、先生を呼ぼうとした年もあったらしいけど、遂に彼とまた会うことは無かった。
「それだけの、話。あまり面白い物でもなかったでしょ?」
「いや、波流ちゃんのことが知れて、オレは良かった」
「そっか」
気付くと外は少しずつ明るんできており、周りの客もぐっと少なくなっていた。
司くんのことは、嫌いではない。だからこそ、ここまで長い話をしたのだろう。何を言っても今さらだもの、そんな諦めもある。
話し疲れて喉も乾いた私は、ドリンクバーへウーロン茶を取りに行く。
戻ってくるなり、司くんが口を開いた。
「それで、この前の話だけどさ」
「うん」
「とりあえず付き合って、徐々にオレのことを好きになってくれれば、なんて甘いことを思ってたんだ」
「……そう」
「決めたよ。波流ちゃんがその気になるまで、何度でも飯誘うから」
こんなに真剣な瞳をする人だったのか、と私は驚く。思えば、しっかりと彼に向き合ったことなど、無かったのではないか。
「わかった。そのうち、その気になるかもしれないけど、ならないかもしれない」
「それでいいよ」
私たちは外に出る。日の光に眩みながら、歩んでいく。
さあ、また今日も仕事だ。早くシャワーを浴びて、一眠りしよう。
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