10:勇気

 土曜日の夕方。夕美からわざわざ「メッシュ」という一文が送られてきたのは、彼女なりのハッキリした意思表示だ、と思った。

 バーの名前を送ってこられなくても、僕はそこへ行くつもりだったし、夕美もそれを知っていただろう。

 今回、夕美があえてそうしなかったのは、今までとは違う、と言いたいのだろう。


「待った?」

「ん、三十分ほど」


 夕美は先に来ており、既に一杯か二杯飲んでいたようだったが、どこか違和感があった。


「あれ、タバコは?」

「今日は吸わない。っていうか、やめようかなって」


 僕はウイスキーを注文した。店はそこそこ混んでいて、若いカップルの姿もあった。

 夕美はシンプルなカットソーに細身のデニムを履いていて、飾り気の無い姿がむしろ女性らしく見えた。

 珍しく夕美は自分の仕事の話を始めた。転勤はないが、部署の異動はあるらしく、年度末で彼女も配置換えになりそうだとのことだった。


「後輩も増えていくし、いつまでも新入社員気分でいられないよね」

「僕もそうだよ。あ、そういえばさ……」


 僕は門木の話をする。夕美は手が早すぎる、と笑う。

 ゆったりとした時間が流れる。夕美もきっと、こういう時間を望んでいたのだと信じて、僕は会話を進めていく。

 高校生の時、コーヒー・チェーンでも。今日と似た日があった。問題集を解きながら、他愛もない話を、二人で。


「陽奈のことだけどさ」


 唐突に夕美が陽奈の名前を出すので、僕は身構える。


「久しぶりに二人で会ったとき、思ったんだ。あたしはずっと陽奈を頼ってたんだなって」

「陽奈は、夕美に頼ってばっかりだったって言ってたけど?」

「まあ、あの子はそう思ってるかもしれないけどさ。あたしだって、陽奈の存在に助けられた事は何度もあった」


 ふぅ、っと夕美が息をつく。


「あたしって、どうも女の子ってやつが苦手でさ。陽奈みたいなタイプも、まさに天敵の筈だった」

「というと?」

「ああいう可愛くて品行方正で、女友達が多いような子。なんだか、眩しかったんだよ。あたしは絶対にああなれないって、妬んでた」


 そういえば、この二人が仲良くなったきっかけを知らない、と僕は思った。


「何で一緒にいるようになったの?」

「一番初めの体育の時。背の順でペア組まされて、柔軟体操やったんだけど、陽奈がバカみたいに固くてね」

「ああ……ひどい運動音痴だからな」

「こんなに可愛い子でも欠点くらいあるよな、なんて妙に安心して。あたしが笑ったら、陽奈がむくれて」


 僕はその時の陽奈の顔を容易に想像できた。


「そこからじゃれあってたら、陽奈がやたらあたしに話しかけてくれるようになって。そんな、些細なことだよ」


 夕美はウイスキーを注文する。僕と同じ、モレンジのロックだ。


「陽奈があたしの何に惹かれたのかはわからない。ただ言えるのは、あたしたちは対照的だった。だから喧嘩もした。言いたいことも言った」


 口の渇きを癒そうと、僕もグラスに唇をつける。甘い香りが鼻孔をくすぐる。夕美の話を最後まで聞くのは、少しこわい。それでも僕は、聞かなければならない。


「だけど、志貴のことだけは、ハッキリ言わなかった。お互いに。それが、ダメだったんだろう」


 本当に悪いのは僕だ、と言いかけて、やめる。夕美はそんな言葉を望んではいないだろうから。


「志貴と波流のお陰で、陽奈と再会できたことは、感謝してる。ありがとう」

「……なんで、泣きそうな顔で言うんだよ」


 夕美は、やっぱりダメだ、と呟いてタバコを取り出す。


「なあ、志貴」

「ん?」

「陽奈を連れて行ってやれ。あいつなら、いい嫁になるよ。高校時代の約束を、ちゃんと叶えてやれよ」


 陽奈との、高校時代の約束。沢山の約束があった。そのいくつかを、陽奈は夕美にも話していたのだろう。

 レンタカーで沖縄に行く。スーパーにジャージで買い物に行く。それからもっと先、結婚、子供……。高校生の思いつく限りの、可愛らしい約束の数々。

 夕美の言う通り、今からでも叶えてやれる。今の僕なら、そうすることができる。


「もう、出ようか。一人で考えたいんだ」


 明日は日曜日。

 陽奈に、僕の考え、いや、僕の気持ちを、しっかりと伝えなくてはならない。

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