約束の星
零
第1話
街を見渡せる丘の上の、大きな大きな洋館に、チロは住んでいた。真っ白な毛並みの、左右違う目の色の綺麗な綺麗なメスの白猫だった。彼女は窓辺に座って外を見るのが好きだった。
ルルの最初の記憶は一人佇む野原の中だ。きょうだいねこや母猫の記憶はほとんどなかった。微かに甘いお乳の香りと、仄かなぬくもりを覚えていた。
二匹が出会ったのは、夏の初めの満月の夜だった。
ルルは大きなお屋敷に餌を探しに入った。その、窓辺に白い明かりのように光るもの見た。何かに導かれるように近づくと、光は猫の形をしていた。
「あなたはだあれ?」
光の猫はゆっくりとルルの方を向いて声を出した。
ガラス越しでも分かる、綺麗な綺麗な声。
チロにはルルの瞳が星のように見えた。
暗闇に輝く、二つのアレキサンドライト。ルルは真っ黒な毛並みの、緑の瞳のメス猫だった。
「あなたこそ、だあれ?」
ルルはそう、答えた。チロに届いたのは、よく通る、力強い、命の響き。
そうして二匹は顔を見合わせて、
「ふふふ」
と、笑った。
二匹が別れたのは冬の初めのことだった。出会ってからずっと、窓辺で逢瀬を重ねていた。いつもガラス越しに言葉を交わすだけ。それでも。直に触れ合う事はできなくても、二匹は親友だった。
別れを切り出したのはルルの方だった。
「もっと、南の方へ行こうと思う。寒くなるから、暖かいところへ。」
「…もう、会えない?」
「かもね。」
ルルは寂しそうに笑った。
本来、野良猫のルルは毎日が命の危険と隣り合わせだった。そんなルルにとってチロは安らげるたったひとつの場所だった。
チロにとってルルは外の世界の夢を見せてくれる窓だった。
「いつか、会おうよ。あの、星の下で。」
そう言って、ルルが見上げた先にあるのは輝き始めたシリウスがあった。
「あの星は、冬に光るのよ?また、寒い時期に会うの?」
チロが言った。
「だからこそ、だよ。冬になっても暖かい場所で、会おう。」
「でも、私はここから出られない。」
チロは俯いてしまった。
「だから、いつか。」
「いつか?」
ルルの瞳は不思議な光を宿していた。
「信じていれば、きっと。身体は朽ちても、魂は覚えてるよ。」
「魂?」
「そう。」
ルルはチロには理解できないことを言う。それも外の世界を知っているからだろうかと、チロは思った。
「私は信じてる。だから、どうかチロも信じていてね?」
ルルはそう言ってガラスに額をつけた。
チロも頷いて額をつける。ガラス越しに、仄かなぬくもりが伝わった。
これでいい。
これでいいのだと、二匹は心で思った。チロはルルを寒い場所へ留めない為に。ルルはチロを悲しませないために。
それから、長い長い時が過ぎた。
チロもルルも何度もの終わりと始まりを体験した。時には家猫として、時には野良猫として、生きた。たくさんの猫と出会い、別れ、様々な経験をした。
それでもずっと、二匹は約束を覚えていた。だからこそ、普通は感じられない始まりと終わりを感じる事が出来た。それが、良い事か、悪い事かは、分からないけれど。
それから、更にどれほどの時が過ぎただろうか。
冬の終わりの新月の夜、一匹の若いオスの靴下模様の黒猫が、海の見える野原で空を見上げていた。月の無い晴れた夜空にシリウスが一際強く輝いていた。
ふと気配を感じて振り向くと、そこには白に黒の斑模様の若いオス猫が居た。片目に大きく傷が入り、耳も一部が欠けていた。若いオス猫らしく、喧嘩でもしたのだろうか。それにしても厳つい面構えである。
その猫は一瞬、笑みのようなものを口元に浮かべ、つい、と、シリウスを見上げた。
それだけで、十分だった。
靴下猫が何も言わずに腰を上げ、片目猫に近付いた。
そして、二匹はどちらからともなく額をつけた。ゆるやかに首を絡める。初めて感じる、お互いの体温。二匹はため息交じりにお互いの名を囁いた。
「ルル、」
そう呼ばれたのは靴下猫である。
「チロ、」
そう呼ばれたのは片目猫である。
「約束、覚えていたんだ。ルル。」
「君こそ、覚えていたんだ。チロ。」
二匹は共に野良猫だった。二匹とも一人で生き抜いてきた。危険の中を、小さな命を精一杯輝かせて生きてきた。今までの生がそうであったように。そうして、やっと出会った。
「話したい事が、」
「うん。たくさん、あるよ。」
「数え切れないほどの」
「始まりと、終わり。」
そうして二匹は目を見合わせた。
「忘れなかったよ。」
君の事を。
あなたのことを。
あの日、交わした約束を。
そうして二匹は、輝くシリウスの、約束の場所で、
「ふふふ」
と、笑った。
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