34:映画・映像史A
初めてメイクをして大学に行こうとした日の朝――あたしは盛大に、寝坊した。
(やばい!眉やら頬やら絶対に無理っ!)
とにかく下地とアイシャドウだけでもちゃんと塗ろう、とあたしはポーチをひっかきまわす。LLOのキャラメイクなら、一瞬で目の色や形まで変えられるのに。いくらVR技術が進んだとはいえ、現実の見た目を変えるスピードは早くできないようだ。
あのサンダルを履いて行きたかったが、駅まで走ることを考えいつものスニーカーにする。電車に駆け込むと、汗だくで髪はボサボサ。大学に着いてから、整える必要がある。
(せっかく変わろうって決意したのに……)
結局中途半端な自分にがっかりする。何もかも一気に劇的にとはいかないようだ。まあ、服だけは、明るい色味のものを着てみた。薄いピンク色のカットソーと、細身のデニム。買った時より足が太ったのか、ぱっつんぱっつんになっているが、いつものダボっとしたやつで隠すよりもマシに見える。
大学のトイレで髪をとかし、映画・映像史Aの授業に向かう。これは一般教養の科目で、あたしの所属する経商学部だけでなく、法学部や工学部の生徒も受講している。そんなわけで、受講者数はかなり多く、あたしのことに気づく人はいない。いつもよりまともな恰好をしているのに、誰も反応してくれない。……友達がいないから、当然なんだけど。それに、あたしなんかが多少頑張ってみたところで、周りに座っている女の子たちには太刀打ちできなさそうだ。今までのあたしがコケだとしたら、やっと雑草になったくらいで、バラやユリには到底及ばないのだ。
「じゃあ、今日も早速映像を見てもらうぞ。今回はSF映画だ!」
教授が入ってくるなり、部屋の照明が落とされる。断片的にとはいえ、こうして色んな映画が観られるので、この授業は人気科目である。睡眠や宿題に使う生徒もいるのだが、あたしは至って真面目に映画を観て、レポートを書いている。
「さて、どうだったかな?これが公開されたのは50年前。原作の小説が書かれたのは、さらにその50年前だ。冒頭の説明でわかるとおり、この映画に描かれている未来はあと数年で到来する。けれど、車は当分宙を浮きそうにないし、あんな風に接客してくる服屋はない……」
授業の構成としては、教授が映画の背景を説明し、生徒にレポートを書かせるという流れなのだが、回を追うごとに「教授が映画愛を熱弁するだけ」の時間になっている。監督の私生活の小ネタなど、本当にどうでもいい話も出てくるので、あたしはレポートの内容をまとめはじめることにする。
(あの服屋は何か残念だったなあ。顧客の嗜好や購入品を記憶して、来店時に話しかけるだけじゃなくて、個別のスクリーンブースに案内してコーディネートでもしてあげたらいいのに。まあ、そこが映画の主じゃないから、突っ込んでも仕方ないけど……)
昨夜、服の組み合わせに悩んだばかりなので、映画のそういうところが気になってしまう。ただ、この感想をレポートにするのは難しそうだ。これをビジネスにできないか、なんて経商学部生ぶったことも考えたが、残念ながらあたしにそれを書く技量は無い。
教授が映画の原作者の小ネタ(五回離婚したとか)を話し終えたところで、授業が終わる。無駄話をする友達もいないので、あたしはさっさと教室を出る。
「あっ!雪奈ちゃんだ!」
向かいから、見覚えのある男女が歩いてくる。同じグループだった白崎くんと、前にも彼の隣にいた、リカちゃんというショートヘアーの女の子だ。
「あれ?なんか雰囲気変わったよね?」
リカちゃんとは一度しか会っていないのだが、わかってくれたらしい。彼女はほとんど他人だけれど、そう言ってもらえるとやっぱり嬉しくなる。
「ホントだ!その服すっげえ似合ってるよ!」
「そ、そんなことないよ……」
でも、面と向かって褒められるのは苦手です!授業の打ち合わせのときといい、彼らはあたしのことを何のためらいもなく褒めてくる。あまりストレートに言われても反応に困るのだ。やめてほしい。
「雪奈ちゃん、何かあったの~?」
「え?え、えっと、その……」
「もう、貴弘ったら。女の子にそんな野暮な質問するもんじゃないよ」
リカちゃんは白崎くんの頭を軽く叩く。やっぱりこの二人は付き合っているのだろうか。
「そうだ!雪奈ちゃん、相沢くんが劇団サークルに入ってるって知ってる?劇団乱詩譚(らんしたん)っていう、この大学では大規模サークルにあたるところなんだけど」
「い、いえ」
相沢くんといえば、メガネをかけていることと、パソコンに詳しそうなことくらいしか知らない。どちらかというとインドア派に見えるし、劇団サークルだなんて少し意外だ。
「この土日に、大学の講堂で講演があるんだ。相沢くん、一年生だけど役貰ってて、少しだけ出演するんだって。チケット販売のノルマもあるし、知り合いに宣伝しといてくれって頼まれてるんだけど……雪奈ちゃんも、どうかな?アタシと貴弘は土曜日に行くんだ」
それって、槙田くんも来るのだろうか。聞きたいのだが、あたしにそんな勇気はない。もし、槙田くんが来ないと言われた後、断るなんてことをしたら、あたしが槙田くん目当てだということが丸わかりだ。
(ん?槙田くん目当て?)
あたしは一体何を考えているのだろう。グループ発表が終わったとはいえ、経営学演習の授業は続くし、彼にはまだ何回か会える。だから、その時に顔を合わせればよいわけで、えっと……。
「とりあえず、チラシだけ渡しとくね!雪奈ちゃんも予定あるだろうしさ」
「もし行けることになったら、おれにメールしてよ!」
教室移動をしなくてはいけないので、そう長く話していられない。リカちゃんは急いであたしにチラシを手渡す。
「そうそう、槙田くんもアタシたちと一緒に行く予定だから!」
リカちゃんはそう言ってにっこりとほほ笑む。あたしの心情を知られていたみたいで、その笑顔が何だか怖い。
(演劇、かあ)
正直言って、そんなに興味はない。チラシには「新訳・白雪姫」のタイトルと、やたらセクシーな白雪姫らしき女性の絵が描かれている。煽り文句を読む限り、コメディのようだ。
(チケット販売のノルマに協力すると思って、行こうかな)
うん、決して槙田くんが来るから行く気になったわけではない。土曜日はアルバイトも休みだし、リカちゃんみたいな明るい子がいれば、当日会話に困らなくて済むだろう。
その日は白崎くんとリカちゃん以外、知り合いに会うことはなかった。高校の同級生とか、経営学演習のギャルたちとかには一切。普段なら、知った顔が見えると即座に物陰に隠れるのだが、今日は誰かとすれ違ってみたかった。
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