夜伽奇譚 〜よとぎばなし〜
藤原祐
ゆうぐれ
帰り道、同じクラスの吉良さんに話し掛けられた。
「ねえ」
彼女と話すのは初めてだった。僕だけじゃない、多分クラス全員を含め、吉良さんと話をしたのは僕が初めてだろう。大人しくて綺麗な人だけど、誰とも口をきかない。大学生の彼氏がいるとか、その彼氏に捨てられたとか、捨てられた彼氏の仲間に輪姦されたとかされていないとか、そんな大げさで厭な噂が絶えることはなかったけれど、とにかく綺麗なのに誰とも喋らない、そんな特殊な種類の女の子だった。
「なに?」僕が戸惑いながら返事をすると、
「あなた、わたしが好き?」吉良さんは唐突に尋ねた。
「……どうしてそんなことを尋くの?」
「答えて」
「わからないよ。第一、僕は君のことをよく知らない」
吉良さんの瞳は、淀んだ輝きを放っている。
「じゃあ、何かして欲しいこと、ある?」
「……え?」
「答えて」
吉良さんの黒い髪は風に揺れることもなく、肩にもたれたまま光を吸い込んでいる。
「何かしたいこと、ある? あなたの願望を教えて」
吉良さんは突っ立ったまま問う。僕は何も言わなかった。
「わたしとキスしたい?」
吉良さんの口から舌が覗く。僕は答えなかった。
「わたしの裸が見たい?」
吉良さんの足が僅かに動く。僕は答えなかった。
「わたしとセックスしたい?」
僕は彼女の身体を見ていた。
紺のセーラー服は彼女の肌を塗り潰している。首が、足が、手が、指が、それを免れたようにただ、白い。
「……僕は」
彼女の手首に傷痕があるという、噂のひとつを思い出していた。
「僕は、死にたいよ」そして、正直に、いつも思っていることを、答えた。
「わかったわ」吉良さんの濡れた唇が笑った。
突然痛みとともに、目の前が暗くなった。
痛みは頭の奥の方からやってくる。鈍くて鋭い。真っ暗になった視界は平衡感覚を消失させ、僕はその場に倒れ込んだ。
手足の感覚はもうどこにもなかった。宙に浮いているような、沈んでいくような、川に流されるような、そんな気分とともに僕の身体は意識だけになり解放される。
意識だけが、脳だけがゆるゆらと。
ああ。
僕は思った。これが、死か。
吉良さんはそれを叶えてくれたのか。
脳の中で、少しずつ何かが切れていくのが分かる。それは僕の記憶だ。無駄な記憶だ。つまらない友人達やくだらない学校生活や厄介な両親の存在や子供の頃の思い出や、そういった不必要なものが切れていく。僕の記憶は解放されていく。それは心地良かった。頭が境界線を失っていく。心地よい流れに身を任せている間にも僕の記憶はぷちぷち切れていく。
やがて僕は自分の名前を忘れた。
名前があることを忘れた。
名前の概念を忘れた。
顔を忘れた。
視覚があったことを忘れた。
触覚も味覚も聴覚も忘れ----
自分がそれを望んでいた、という感情を忘れたその時。
僕は、自分の力ではどうしようもない流れの中で、自分を形成していたものがどうしてかはわからないけれど次々に切れていっていることを理解していた。
かつて確かに覚えていたのにそれはなくなっていく。理由がわからない。理解できない。僕は恐くなる。これは止められないのだろうか。どうやれば止まるのだろうか。僕は消えてしまうのではないか。消えてしまう。それは恐いことだった。消えてしまいたい、とずっと思っていたことはもう忘れていたから。剥がれていく外殻と縮んでいく意識。助けを求めることも忘れてしまって、ただ不安だけが僕を苛んで、恐怖だけが、僕の存在になって、その恐怖さえも消えてしまうことを理解し気が狂えばいいのに狂うという概念なんてとうに消失していてもうただどうしようもなくなって。
視界が、開けた。
僕は夕暮れ時の帰路、川沿いの土手に立っていた。
動悸がこの上なく速かった。激しく息を吐く音が耳に響いていた。足が痙攣していた。握り締めた拳が汗で濡れていた。
目の前に、吉良さんが立っていた。
「どう?」吉良さんは笑いもせず、無表情で、僕に尋ねた。
まるで興味のないものを凝視するかのように。
「これが、死よ」
汗が、背中から吹き出るのを感じた。
吉良さんは僕の目を見る。
「まだ、死にたい?」
一気に、身体中の神経全てから力が抜ける。助かった。安堵する。
僕は大きな溜め息を吐いた。
「……最初、は、心地よかった……んだ。だけど最後は……酷く恐かった」
吉良さんも手首を切ったとき、こんな気分だったのだろうか。
それを僕に教えてくれたのだろうか。
薄ぼんやりと、そんなことを思っていた。
「すごく恐かった。陳腐だけど、それしか思い浮かばない。恐かったよ」
「まだ死にたい?」吉良さんは目を伏せる。
「いいや」僕は笑んだ。吉良さんの表情に暖かさを感じた。
「もう、死にたくない。絶対にそんなこと、思わない」
吉良さんも、笑った。
初めて見る彼女の笑顔は優しく、濡れた唇と黒い瞳が僕の内部に柔らかく広がるようだった。
「そう」吉良さんは、静かな楽器のような声をあげた。
「うん」僕は、誰にも見せたことのない顔を見せる。
吉良さんは、また笑った。
「でも、駄目」
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