終章

終わり


 御影が大阪城を発ってから、半年が過ぎた。

 秋の清涼な風が、城内から城下まで吹き抜け、秋の訪れを知らせる。

 清々しい風を受け、山は実り始める。その実りの恩恵を受け、町も潤ってゆく。

 にもかかわらず、大阪城でふんぞり返る秀吉の胸に募るのは、不安ばかりなのであった。

 この頃、秀吉は同じく信長の配下にいた徳川家康を上洛させ、自らに臣従を誓わせている。四国九州を制圧し、全国統一は、九州と関東さえ制圧すれば、すでに手の届く場所にあった。

 一度は年末の大地震により、城も町も失った秀吉であったが、その地震の爪痕も今や消えつつある。

 夏の終わりには、秀吉は朝廷の正親町天皇より“豊臣”の姓を賜り、晴れて『羽柴秀吉』から『豊臣秀吉』となった。それまで百姓の一人や二人など小石も同然ととらえていた朝廷の連中も、秀吉を見ればその態度を変えた。

 信長の時と同じように、朝廷の者どもは、武士というものの上に立っているような顔をしているが、その実、おびえ切っている。

 秀吉には、それが手に取るようにわかるのである。

 表面上こそ、貴族は武士より格が高いとされているが、今や、朝廷の者どもは、秀吉が命令をすればすぐにでも動く。もう朝廷そのものを、我がものにしたといっても過言ではない。

 秀吉の天下統一への道は、順調であった。

 ―――信長の首が手に入らないことを、除いては。

 どこにいても、秀吉の自信の裏に、信長の影がついてくるのである。

 信長の手段が苛烈を極め、残忍であることは、秀吉のみならず、いまやどの国の武将も知っている。しかし秀吉には、信長の残忍さよりも、恐ろしく感じることがある。

 秀吉の姓が木下であったころから、信長という男は、瞳の奥に本心を隠した男のように見えた。

 甲高い声で怒鳴っていても、声高に笑っていても、信長の瞳は、怒っても、笑ってもいない。秀吉にはあたかも、信長が百の面を持つ芸者のような―――あの、瞳の奥では何事にも関心であり続けた、信長が恐ろしいのだった。

 あの男は、何者にも興味がない。

 家臣にも、女にも、息子にも。

 まるで計算をして喜怒哀楽をしているようだった。残忍の例えではなく、本当の意味で、心のこもらないあの瞳で、幾万の命を平気で奪ってゆく信長は、魔王というよりも、死そのものであるように、秀吉には感じられたのである。

 だからこそ、秀吉は誰よりも早く、信長を消したかったのだった。

 光秀に術をかけてけしかけ、そのあとに光秀を死に追いやったが、光秀が信長を襲撃した本能寺からは、一向に信長の死体が見つからない。

 ほかの端武者の死体は見つかったというのに、信長と蘭丸の死体が見つからぬのは、あまりに不自然なことだった。信長が生きている―――そんな考えは、もちろん、秀吉の脳裏に、すでに浮かんでいる。

 すぐに隠密を遣わしたが、四年もかかってやっと手に入れることができたのは、蘭丸の首だけであった。

 蘭丸の生存が分かったことで、信長が生きている可能性は、より一層濃厚になる。

「草の根を分けてでも探し出し、殺せ」

 最も重く用いていた隠密の御影に、伊賀より引き抜いた隠密衆を率いらせ、信長討伐に出したのが、いまより半年前であった。

 絢爛な装飾と、雅な襖絵に囲まれた寝間に、秀吉は一人でいる。

 秀吉は城内のみならず、城下にも選りすぐりの美しい女を住まわせ、毎晩のように寝間に呼びつけている。僧でもせねば、いつ蘇るともわからぬ信長への恐怖と、言い知れぬ不安で、押しつぶされてしまいそうだった。

 が、この日の晩だけは、秀吉は珍しく、女に夜伽を命じることはなかった。

 秀吉の回想の中で蘇るのは、御影の貌である。

 いつだったか、このような平穏な晩に、みすぼらしい忍びが現れて、

「猿のような顔」

 と、眠りかけていた秀吉の顔を見て、いたずらっぽく笑ったのだった。

 秀吉の抱える隠密や、家臣たちに見つかることもなく、秀吉もとまでやってくる忍びであれば、腕も経つに違いない。秀吉はすぐに、銭をちらつかせて、抱きこもうとした。

 いくらで、わしの下につく。

 銭か、それとも女か、何が欲しい。

 それとも、わしの首を狙って、ここまで来たか。

 どのような言葉をかけられても、顔に布を巻いた忍びは答えることはない。

 商人と忍びほど、金に目のない連中はいない―――それは、秀吉も十分に知っている。

 それでも、忍びはこれと言って、手ごたえを見せなかった。

「―――別に、誰の命もとろうなんて思わないさ」

 忍びの口からこぼれたその声は、男のものだった。

 しかし、男が顔に巻いていた布を取ると、その下から現れたのは、輝かんばかりの美女の面であった。秀吉が見初めたどの女も色褪せる絶世の美貌が、眼前で涼やかに笑っている。

「百姓から天下に上り詰めた男が、どんな人か、知りたかっただけ」

 そう微笑んで、男は秀吉の誘いに乗ったのが、今より四年前の出来事である。

 秀吉はその、美しく強い忍びに『御影』と名付けた。

 御影は、居場所とほどほどの金さえあれば、あとはどうでもいいようで、女や名声にはさして興味も示さなかった。

 男色など目もくれなかった秀吉であるが、御影の美貌はまるで宝玉のようである。御影は秀吉への忠義も、好意も、まして関心も示さぬが、銭が出る故、言うことだけは訊く。

 秀吉は常に自分のそばに御影を仕えさせ、それまで秀吉に仕えていた隠密の誰よりも重宝した。

 最も価値のある宝を常に身に着けている―――御影を傍に置くと、秀吉はそんな満足を感じるのだ。

 何もかも自分のものにしておきながら、この秀吉という男の欲は底を尽きぬのであった。

 しかし、半年前に信長討伐に遣わしたきり、御影は帰ってきていない。

 御影がどこにいるかなど、知りもしない秀吉は、ただ待つだけである。空虚と不安は積もって山になり、とうとう女も抱けぬまま、この日の晩に至った。

 すると、

「む」

 秀吉が垂れた首を上げたのと同じ瞬間、音もなく、虎の描かれた豪奢な襖があけられる。

 その奥の闇から姿を現したのは、まさしく、秀吉の待ちわびていた男であった。

「御影」

 秀吉の寝間に現れたのは、その御影本人である。

 ようやく帰還した隠密に、秀吉は嬉々として腰を持ちあげる。

 ―――が、立ち上がって、御影の妙な風体に息をのむ。

 艶のあった髪は乱れた蓬髪となり、服のそこかしこが泥土で汚れている。さらに、御影の右腕は二の腕の節から先がなく、一の腕が生えているであろう場所には布が巻かれている。

「御影……?」

 そのあまりに異様なたたずまいに、秀吉は思わず、後ずさりをする。

 まるで亡霊のように力なく佇むその姿は、普段の御影とはあまりにかけ離れている。

 絢爛な外見もさることながら、常に自信に満ち溢れていたのが御影である。それがどうしたことか。目の前にいる男の髪から覗く顔は、確かに御影そのものだった。しかし、その美貌に生気はなく、死人の如き面差しである。

 魂の宿らぬ眼が、秀吉を見た。

 以前の黒曜石を嵌め込んだような煌めく黒目は、そこにはない。淀みに淀んだ沼の底と見紛う眼に、秀吉は背筋が粟立った。

「―――ほかの隠密衆は、どうした?信長の首は?」

 恐怖を感じながらも、秀吉は虚勢を張って御影の前に躍り出る。

 御影は暫時、口を閉ざしていた。

 ただ眼前にいる君主を睨みつけ、殺気ばかりを放っている。

「―――信長の首なら、ない」

 ようやっと、御影が口にした第一声が、それであった。

「なに」

「信長を殺せなかった」

 とっさに聞き返した秀吉にも、御影は淡々と返した。

「彼は生きていたよ。秀吉さまが、隠密を遣わしたことも知っている」

「なん、じゃと」

 信長が生きている。そして秀吉が織田家を裏切ったことにも気づかれている。

 それが分かった瞬間、秀吉の肝が凍てついた。

 信長が、裏切者に対してどのように非情な手段をとるかは、知らぬわけはない。

「よもやあの男は―――いつでも蘇り、わしを殺すことができると申すか」

 秀吉の声が、無意識のうちに震えた。

 信長への恐怖は、もちろん、ある。しかしそれ以上に、信長の生存まで突き止めたにもかかわらず、本人に手を下さず帰ってきた隠密への怒りが湧いていた。

「己らは、信長の居場所を突き止めていながら何をしていた」

 御影にだけは甘い秀吉も、この時ばかりは怒っていた。

 秀吉の抱える隠密衆の中でも、御影の才覚は逸脱している。だからこそ、年若い御影に隠密衆を率いらせたのだ。

 それなのに、御影の後ろには隠密衆がおらず、その上、御影自身も右腕を切り落とされている。

 どれほどの猛者を相手にすれば、ここまで手酷く負かされるというのか。

 怒る秀吉を前にしても、御影は何の感情も見せない。

 ただ、生気のない御影の眼から、涙が一筋流れた。

「……僕がここへ戻ってきたのは、あんたに、一矢報いるためだ」

 秀吉の頭上で、御影は小さく、そう口にする。

「なに」

「あんたは、何も悪くない。悪いのは、信長のほうだって、僕は分かっている」

「何を言っている」

「けれどこんな悲しい目に合った今では、僕を―――信長を討つ旅に出させたあんたを、恨むしかない。悪く思わないでほしい」

「何を言っている」

 秀吉には、御影の言っていることの意味が、微塵も理解できない。

 秀吉に対して何か言っている、というよりも、それはまるでうわごとのようであった。

「―――僕は、ここを出ていく。もう二度と、ここへは戻らない」

 御影が静々と言い放ったその言葉だけは、年老いた秀吉の耳にも鮮明に届く。

 長らく重宝した隠密の口から出た言葉に、秀吉は我が耳を疑った。

「なぜじゃ。わしは出て行けなどとは、一言も」

「あんたの言葉なんか、聞いちゃいない。僕の意思だ」

「ここを出て行ったとして、次はどこに行くつもりじゃ。右腕のない忍びなぞ、誰も雇わぬぞ」

 秀吉はとうとう、脅しつけんばかりの口調で言った。

 しかし、御影はさらに蔑んだ眼で秀吉を見る以外には、何の動揺も見せない。

 深夜の寝間の中で、ぼうぼうと揺れる燭台の焔の音だけが、沈黙の空間にこだましている。

「―――所詮、あんたたちにとって、僕は武器や宝石と一緒なのだね」

 御影は静寂を破り、襤褸になった羽織を脱ぎ捨てる。

 その羽織は、隠密頭である御影のために拵えた、秀吉の寵愛の証であった。

 脱いだ羽織を踏みつけ、御影は秀吉に背を向ける。

「人にしたことは、必ず自分にも帰ってくるという―――。この豊臣家もいづれは、誰かの手でつぶされ、裏切られ、乗っ取られるだろう」

 御影の口から流れ出る言葉は、不穏そのものであった。

 そんなはずはない。もはや豊臣の名は、この国の全土に広まった。天下を手にしたも同然である。この豊臣政権の力は、秀吉の死後も永劫、残り続けるであろう。だから、滅ぶはずなどないのだ。

 ―――そう言い返そうとしても、秀吉は二の句を継げなかった。

 振り返った御影が、なんとも力なく、悲しげな顔で笑ったからである。

「―――まあ、頑張ってね―――……」

 すべてを放棄し、一切の責任も負わぬ一言である。

 御影の言うことなど、なんの確証もない。ただの忍びの妄言にすぎぬ。そう考えれば楽なものであろうが、秀吉の心の臓に、その言葉はあまりにも滑らかに刺さるのだった。

 自分は一生、自分の築き上げた地位の崩落と、信長の復活の影におびえて、生きてゆかねばならぬというのか。

 あまりにも大きな不安に、傲慢になりきっていた猿は到底、耐えられなかった。

「行くな、御影!」

 秀吉は御影の背中を追い、叫ぶ。

「わしのそばにおれ」

 そう命じても、御影の背中は止まらない。

 最後には振り向くこともなく、襖の奥の闇へと身を投じた。襖の奥には、燭台の明かりも届かない。闇の奥から、秀吉を招く手が伸びているようだった。

「さようなら」

 闇の奥から、御影の囁く声だけが、笹の音のように響き渡った。

 御影の歩いた場所には、汚泥に汚れた足跡ばかりが残っているのである。




 その後、幾度もの大戦を重ねた末に天下統一の栄華を勝ち取った秀吉であったが、のちの朝鮮出兵において膨大な兵力を費やし、多くの兵を失うこととなる。

 それからは秀吉自身も見る見るうちに衰え、一五九八年の春、醍醐三宝院の花見を催して間もなく、病床に伏したのであった。

「干からび、衰弱したその様は、人間には見えない。まるで悪霊の如しである」

 秀吉を見舞った宣教師は、晩年の秀吉の状態をそう記述したという。

 豊臣家の衰弱を目の当たりにした家臣や、各国で息をひそめていた武将らが、みな雁首をそろえて豊臣政権の後釜を狙う姿は、秀吉からしても、さぞ恐ろしかったに違いない。

 やせ細った老猿のようになった秀吉は、

「豊臣家を、秀頼を頼む」

 そう、泣いて懇願したという。

 のちに徳川家康らをはじめとする豊臣従属の大名が、手のひらを返して豊臣政権を乗っ取ろうと動いたことは、病床で最期を迎えた秀吉は知るはずもない。

 それから二十七年後の一六一五年の夏、豊臣の五大老に託された秀頼は、その五大老の一人にあたる徳川家康によって討ち滅ぼされている。かつて豊臣が織田を乗っ取ったように、豊臣政権は徳川に飲まれる形で、幕を閉じた。 

 




【終】

 

 

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