とある親友の約束

 妖精を殺すのは簡単だ。彼らの愛する者を、目の前で傷つければいい。彼らは自分の痛みには鈍感で、愛する者への痛みにはひどく敏感だ。たとえば彼らの前で愛する者が殴られ刺され血を流したなら、それを目にした瞬間、妖精の心臓は止まる。



 珍しく空から涙が零れない日だったが、空は不機嫌そうに曇っている。夕方か、日暮れの頃には雨が降り始めるだろう。エディが日課のようにアルフレドの作業場を訪ねると、騒々しい声が聞こえてきた。

「これはこれは! 素晴らしい! これほど素晴らしい箱庭は見たことがない!」

 無遠慮なその声に眉を顰めたのはエディだけではなかった。空と同じように不機嫌を隠すことなく、アルフレドがその招かれざる客から箱庭を守るように間に立った。

「……いらっしゃるとは聞いておりませんでしたが、ダブレイ様」

 ヒュー・ダブレイは、アルフレドの得意客である。彼の才能を評価している点ではエディも認めているが、ダブレイには嫌な印象が強い。よくいる客だ。箱庭を、美術品としてしか見ない。

「なぁに、君が近頃心血を注いでひとつの箱庭を作っているようだから様子を見に来たのだよ。それにしてもこの 妖精の箱庭は素晴らしい! 大金を積んで欲しがる人間が山ほど出るぞ」

 箱庭のなかは妖精の棲む森。深い緑と鮮やかな花が満ちている。見知らぬ人間に驚いたティターニアは木の陰に身を潜めてしまった。

「これは、売るつもりはありません」

 ティターニアがダブレイの人柄を知らないとしても、自分に向けれる視線がただうつくしいものを愛でる類のものとは違うとわかったのだろう。ダブレイは箱庭を購入したあとたっぷりと自慢してまわり、そのあとですぐに転売する。自分が買ったときよりもさらに高値で。彼なりのビジネスなのだろう。

 アルフレドがはっきりと拒絶を露わにするとダブレイは顔を顰めた。アルフレドは自分の主義主張を曲げることはない。彼が売らないといったらたとえ太陽が西から昇ることがあっても、ひっくり返ることはないだろう。

「ダブレイ様、このとおりアルフレドは偏屈な人間でして。彼の作品については私が仲介いたしますので、このように作業場までいらっしゃる必要はございませんが」

 エディが険悪な雰囲気となったふたりに割って入る。

「それにこの妖精は、まだ環境に慣れておりませんから。お客様がご購入されてすぐに……というのはこちらとしても本意ではありませんので」

 にっこりと微笑みながらアルフレドの意向同様に、販売の意思はないことを告げる。妖精は繊細な生き物だ。些細なことで弱り、死んでしまう。

「かまわんだろう、妖精は箱庭のなかで死ねばうつくしいままなんだ。充分売れる」

「――それは!」

 思わず耐えかね、エディは声を荒げてダブレイの言葉を強引に遮った。

「……それは、アルフレド・ハーヴェイの箱庭ではありません。そのような箱庭をお求めならどうぞおかえりください。彼にも箱庭職人としての矜持があります」

 微笑みだけは絶やさず、エディはきっぱりと言い切った。ひやりと冷えたダブレイの目がエディを睨めつけた。

 妖精は死してもそのままでは朽ちない。彼らは神秘の森で、土に還る。箱庭のなかではそれも叶わず、うつくしい死体が出来上がる。天使は灰となって空に、人魚は泡となって海に還る。ゆえに彼らは箱庭のなかにいる限り、死したまま美術品となる。

「……今日のところは帰るとしよう。そちらがそう言うのなら、私としても対応を変えねばならないな」

 それは紛れもなく脅しととれる発言だったが、エディは微笑んだまま何も答えなかった。その態度にダブレイはますます眉間の皺を深めて、大きな足音を立てながら去って行った。

 騒音の原因がいなくなると、途端に静かになる。

「悪い……うまく誤魔化すつもりだったんだが、むしろ悪化したな」

 苦笑しながらエディが振り返りアルフレドを見ると、親友は気にした様子もなく笑っていた。

「いいさ。正直、昔からあの人には売りたくなかったんだ」

「そうだな。ま、俺がしっかり他の買い手見つけてやるからおまえは気にしなくていい」

 もともとアルフレドは箱庭を作る才能はあるのに、商売する才能はまったくと言っていいほどなかった。見かねたエディが口を出し手を出し、彼の作品を売り込むようになってもう四年以上になる。

「頼りにしてるよ」

 箱庭のほうを見れば、彼女はダブレイに怯えて隠れていたのだろう、そろそろと木の陰から顔を出してこちらを見ていた。まるで大丈夫だよ、と告げるようにアルフレドが手を振る。

「……一目惚れだったんだ」

 ――ぽつり、と小さくアルフレドが零した。

「彼女を買ったときか?」

「いや、五年くらい前かな。師匠と一緒に、箱庭の材料を採取するために神秘の森に行ったことがある。そのとき、彼女を見たんだ」

 防毒マスクで視界が遮られることが煩わしいくらいだった。息をするのも忘れて、気づけばマスクを脱ぎ去っていて、慌てた師匠がすぐに被り直させ森を出た。ほんの、一瞬だけの出会いだった。

 木漏れ日の下で、金緑の瞳がこちらを見つめていた。そよ風に白銀のような髪が揺れて、言葉も出なかった。

マスクを外したのがほんの一瞬であったこと、呼吸すら忘れていたことで命には別状なかったが、もちろん街に戻るやいなや病院に放り込まれた。

 脳裏にはうつくしい妖精の姿が焼き付いて離れなかった。その妖精と、まさか人の街で再び見えるなどど誰が思うだろう。気がつけば彼女を買い取り連れて帰っていた。

「……いつか」

 アルフレドが彼女をやさしく見つめながら口を開いた。

「いつか、彼女を森へ帰したいんだ」

 神秘の森へ。妖精たちの棲む森へ。

 正気か、と反射的に答えようとしたエディは、何も言わずに口を噤んだ。

「森へ帰ればもう誰かに捕まることもないし、あの箱庭のなかより安全だろうから」

 アルフレドははじめから、彼女を守りたかったのだろう。ティターニアを見つめる横顔は恋をする少年のようだった。



 激しい雨音が街を支配する。そのうち雷鳴も聞こえ始めるだろう。こんな嵐の夜に出歩く奇特な人間はいない。アルフレドも近くにある自分のアパートメントに帰るのを諦め、作業場に泊まることにした。彼女ティターニアがやって来てからこちらに寝泊まることのほうが多くなった。

「おやすみ、ティターニア」

 ガラス越しに話しかけても、向こうに声は届かない。けれど何かを言っているとわかると、ティターニアは応えるように微笑んだ。

 その夜だった。アルフレドが作業場の古びたソファに横になり、毛布を被って寝入り始めた頃、激しい雨音に混じって戸を叩く音がした。それはこちらの応答を求めるようなものではなく、意図的に戸を壊そうとしているようだ。残念なことにアルフレドの聖域とも言うべきここは、もとは倉庫である。頑丈な戸が付いているわけではない。

 誰だ、と叫ぶ前に戸は壊された。内側に倒れていた戸が悲鳴をあげるように音を立てる。さきほどより大きくなった雨音がアルフレドの耳に届いた。

「――盗っ人か」

 アルフレドが問うと同時に、外で稲光があった。盗っ人はふたり、小太りな男と、ひょろりと背の高い男だった。

「あんたがアルフレド・ハーヴェイか」

 背の高い男がアルフレドの姿に驚く様子もなく問いかけてきた。アルフレドが眉間に皺を寄せる。

「わかっていてここに来たんじゃないのか?」

 おおかた近頃騒がれていた箱庭泥棒だろう。だとすればここが箱庭職人の工房であることは下調べしているはずだし、その工房の主の名前くらいは知っているはずだ。だがここにあるのは、およそ男ふたりでは運び出せないようなティターニアと、主役のいない空の箱庭ばかりだ。とても彼らの目的が達成できるとは思えなかった。

「ちっ、金目のものがねぇな」

「なんでもいい、いくつか持って行くぞ」

 アルフレドは抵抗もなく好きにさせた。現金はここにない。家探しして大したものがないとわかれば出て行くだろう。そのあとで彼らの通報して彼らの風貌を伝えればいい。クロイズの優秀な警官が彼らを捕まえてくれるだろう。

 ちらりとアルフレドがティターニアを見ると、彼女は男たちに気づき箱庭から怯えるように様子を伺っていた。

「なんだよ、えらい別嬪さんじゃねぇか。くそ、これが運び出せりゃ一攫千金といけんだけどな」

 じっとりと舐め回すような視線に、ティターニアが顔を顰めた。

「それに近づくな――……ぅぐっ」

 小太りの男がにやにやとティターニアを見て、アルフレドが止めようと意識をそちらに向けた。その瞬間、頭に重い衝撃があった。

「いいから、さっさとしろよ」

 男たちの声が遠く感じる。後頭部が焼けるように熱くなった。ガラスの向こうのティターニアが悲鳴をあげるように口を覆った。

「へいよ」

 頭から流れてきた血が、じわりじわりと視界を汚していく。ティターニアは足元の紫蘭を踏みつけ、届かないとわかっていながらもこちらへ手を伸ばす。金緑の瞳から涙が零れた。白い手が拳を作り何度も何度もガラスケースを叩くが、か弱い妖精の力ではヒビひとつ入らない。

「おい、まだ息があるぞ」

「どうせ虫の息だろ」

 しかし小太りの男が念のためだよと、アルフレドの頭を蹴り上げる。視界がぐらりと歪んで、意識が朦朧とした。

 ティターニアが泣いている。

 ガラスに縋りつくように、傷ついたアルフレドを見て、ただ泣いている。




 稲光のあとに、けたたましい音が街に落ちる。エディは激しい雨を見つめながらため息を吐き出した。雷が鳴り始めてから、妙な胸騒ぎがしている。こうなると確かめるまで落ち着くわけもない。まだ夜も明けない時間だというのにエディは起き上がり、手早く着替えて外套を着る。すると眠っていた妻が目を開けた。

「……どうしたの?」

「なんだか嫌な予感がする。アルフレドのとこに行ってくるから、おまえはまだ寝てなさい」

 妻は苦笑して、貴方は本当にアルフレドに夢中ね、なんて呟いた。これで機嫌を損ねるような女ではないが、エディは額にひとつキスをして頬を撫でた。

 外は外套が意味もなさないほどの雨だ。クロイズの外れにある倉庫街までは道が入り組んでいる。

 激しい雨で視界を邪魔されながら、毎日のように通うアルフレドの作業場へ辿り着く。こんな雨の日は、アルフレドならばアパートメントではなくここに泊まるに違いない。アルフレドはびっくりするほど面倒くさがりだ。

 ――もし面倒でも、アルフレドがアパートメントへ帰っていたら。エディの胸騒ぎは胸騒ぎのまま終わっただろう。

 エディが真っ先に目にしたのは、壊された戸だった。そこから雨が吹き込んだのだろう、戸のそばには水溜りが出来ている。

「……アルフレド……?」

 嫌な予感がした。

 背筋を得体の知れない何かが這う。雨に濡れた身体が、寒さではなく震えた。

 広い作業場の、大きな箱庭の傍ら。

 そこに、アルフレドは倒れていた。広がっている赤い色は、彼から流れ落ちた血だ。

「アルフレド……!」

 エディが駆け寄ると、アルフレドはまだかすかに息をしていた。しかし彼の目は、目の前にいるエディすらも見えていないようだった。

「……ぃ、に……ぁ」

 かすれた声で、彼女を呼ぶ。たとえどんなに大きな声も、ガラス越しでは届くこともないのに。

 ふぅ、と細く息を吐き出して、アルフレドは静かに目を閉じた。

 クロイズに降る雨が何もかもを洗い流す。エディの涙も、犯人の足跡さえも。残酷なほど公平に。


 夜が明けると、昨晩の雨は嘘のように晴れ渡った。雨の街クロイズで見る久方ぶりの青空だった。

 アルフレドの作業場からはいくつかの箱庭が消えており、強盗殺人であると結論付けられた。ティターニアは、ガラスケースに縋りつくようにしてぴくりとも動かなかった。瞬きひとつなく、その金緑の瞳は涙の名残を感じさせる。アルフレドの死を前にして、彼女の心臓は動かなくなってしまったのだ。皮肉にもその姿はうつくしく、調査のために足を踏み入れる警官も目を奪われていた。

「これは! なんということだ!」

 場違いな声が響いた瞬間、エディは眉間に皺を寄せた。アルフレドの遺体は運び出されたものの、床には赤い血の跡が残っている。そんな状況にはとても相応しいとは言えない大きな声だった。

「あのアルフレド・ハーヴェイが……! このような……! いやいやしかし、私の箱庭が無事でなによりだ!」

 ずかずかと遠慮なくやってきたダブレイは、迷いなくティターニアへ目を向ける。永遠に動くことのないそのうつくしい屍に、満足げに笑った。

「あなたの、箱庭……?」

 エディが訝しげに呟いた。エディは仲介した覚えはないし、アルフレドから何も聞いていない。タブレイは勝ち誇るように笑った。

「この箱庭は、私が買い取ったのですよ。今日のうちに納品される予定でした」

 エディは耳を疑った。

「そんなわけがない! アルフレドはこの箱庭を売るつもりなんて――」

 アルフレドは、彼女を故郷の森へ帰そうとしていた。どんなに大金を積まれたところで、彼が彼女を売るわけがないのだ。

「これが契約書、さらには領収書です。売買契約は成立している。盗っ人にこの箱庭が盗まれずにすんだのは不幸中の幸いでした」

 そう言いながらダブレイが提示してきた書類には、確かにアルフレド・ハーヴェイのサインがある。しかしエディは信じなかった。信じられるわけがなかった。アルフレドの、ティターニアを見つめる横顔も、その思いも、エディは覚えていた。

「ふざ――ふざけるな! そんなもの偽造したに決まっている、だいたいなんだ、アルフレドが死んだっていうのにどかどかと無遠慮に――」

「これが偽物の証書だと証明できるかね?」

 アルフレドが死んだ今、明確にそれを偽物だとすぐに断じることができる人間はいない。ダブレイの勝利を確信した顔は、つまりはそういうことだった。いくらエディが偽物だと訴えたところで警察が相手にすることもなく、アルフレドが心血を注いだティターニアはダブレイの手に渡った。思えばあの男はあの場にいた警察に金を渡していたのかもしれない。

 あの場でもっと冷静な判断が出来ていたら。だが冷静になんてなれるわけがなかった。親友が死んだ。殺された。彼はまだまだこれから、生きていくひとであったのに。



 墓石に刻まれた親友の名前を、エディはただ無言のまま見下ろした。アルフレドには親類がいない。葬儀はさみしいものだった。

 優秀なクロイズの警官は、その後アルフレドを殺害した犯人を絞り込んだが、彼らは街の片隅で物言わぬ骸になっていた。仲間割れか、はたまた何かの闘争に巻き込まれたのか、口封じか――真実は闇に葬られた。

「エディ・バートンさん?」

「……はい?」

 アルフレドの墓を見つめいたエディに、声がかけられた。エディの名を呼ぶ壮年の男性に、見覚えはない。これでも商売人である。人の顔を覚えるのは得意だった。

「失礼、私はリチャード・グレイスと申します。ハーヴェイ氏に依頼された、弁護士でして。遺言状をお預かりしていました」

「……遺言状?」

 アルフレドは、そんなものをきちんと用意していたのか、とエディは驚いた。彼の作業場には警察が鑑識に入ってそのままだし、アパートメントもまだ引き払っていない。

「アルフレド・ハーヴェイ氏の遺した作品は、全て貴方に譲渡されます」

 滑舌のいいリチャードの声は、エディが空耳ではないかと考える余地もなかった。言葉を失い、目を見開くエディに、リチャードがさらに口を開いた。

「……そう、遺言に記されています」

 リチャードはそうして、アルフレドの遺言状を見せた。そこには確かにエディに作品を譲ると書かれている。

眦が熱くなる。リチャードはそんなエディの様子を察したのだろう、詳しい手続きは後日に、とやさしい声音で告げて去って行った。

 膝をつき、雨で湿った芝生を握りしめる。唇を噛み締めるとわずかに血の味がした。

「おまえ、そういう面倒なこと苦手だったくせに、どうしてこんなことだけはしっかりやってんだよ……」

 アルフレドは箱庭を作る以外はてんで不器用で、彼が面倒だと投げ出したことはほとんどエディがやっていた。

 手のひらで顔を覆う。堪えようにも涙が次々と零れ落ちて、嗚咽が止まらなくなった。

 小さな墓地にはエディしかいない。彼は蹲って恥も捨てて泣き崩れた。

 ぽつり、ぽつりと、曇った空からも涙が落ちた。

 洪水のような涙が止まり、エディは深く呼吸する。肺に染み渡る酸素をゆっくりと吐き出すと、決意に満ちた目で墓石に誓った。


「――約束しよう、アルフレド」


 エディは手のひらで墓石を撫でる。


「おまえのティターニアを取り戻す。俺が必ず、おまえのもとに取り戻してやる……!」


 死した妖精は、神秘の森に戻ることは叶わない。ならば、彼女を愛した彼のもとに、彼に恋した彼女を。

 もう永久に、ふたりがわかたれることのないように。


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