第二試合 その4
前夜から続いた雨は少しずつその速さを落として、今はまばらに降り注いでいる。
岸壁で崩れかけた小屋の僅かな隙間から、彼はその一日の間、ずっと波の引いては寄せる様子だけを眺めていた。
「おい」
腐った壁板の割れ目を持ち上げて、あの顔が現れた。
名前。そういえば
なんと言っていたか。
「ハルゲント」
「他所でその名前を出すんじゃないぞ」
後ろを忙しなく見回す。この小屋に村の誰かが近寄らないかどうか、
「
「……。そうなんだ……じゃあ、気を……つけるよ」
「そうだ。お前の責任だぞ。なんで翼なんか折ったんだ」
ハルゲントは、添え木の当てられた左の翼を見る。
細く空洞である
「……? ぶつかったから……」
「だから、なんでぶつかったんだよ。普通の
「おれは……普通じゃないから……?」
少年は頭を掻く。学のない彼にも、その理由はある程度察しがついていた。
他の
それが飛翔の安定を崩して、普通はぶつからないはずの岸壁に衝突して、翼を折った。恐らくはそういうことだった。
「上手く飛べないなら、治ったって同じことになるだけだろ」
「…………。そうかも……」
「そうかもじゃないんだよ。本当、何考えてんのか、訳分かんねえ」
ハルゲントは常に不機嫌そうだったが、その時の彼はそれを理解してもいなかった。
「もうちょっとなぁ……このままじゃダメだって、危機感を持てよ。原因を考えて、そいつに対策すんだよ」
「でも……できないから……それは、できないんじゃないの……? 仕方ないよ」
「できるようになれっての! お前、卵から出てきたその日から飛べたのか?
彼は、ハルゲントの意図を測りかねている。
最初にこの小屋の中に匿われた時から、ずっと分からなかった。
少年は座り込んで、乾燥した木の実の、粗末な間食を頬張っていた。
「誰だって、できないことができるようになる日が来るってことだ。成長だよ。そうだ、成長。な。お前も成長しろや」
「……それで……どうするの?」
「え」
「何か……できるようになって……どうする……?」
「そりゃ、おい……飛べるようになれば、色んなもんが手に入るだろ。美味い餌だって取れるし、メスだって飛ぶのが上手いやつのほうがいいんじゃないのか。分かんねえけど……それに、群れで偉くもなれるだろ……!」
「ふーん……ハルゲントは……そういうの、欲しいんだね……」
「あ、当たり前だ!」
ハルゲントはますます険しい顔で、近くの壁板を蹴った。
大きな音に彼は驚いたが、激しい感情を表すのは生まれつきどうも不得手だ。
その驚きは、ハルゲントには伝わらなかったかもしれない。
「できない奴だと思われて、見下されて、悔しいと思ったことはないか!? 貴族の連中は俺たち下働きを、使えない馬の仔かなんかみたいに足蹴にしやがるッ! 父さんも母さんも……気持ち悪く笑って、ヘコヘコしてばかりだ! 俺は違う。絶対に偉くなってやる……成長して、偉そうな奴らは全部見返してやる……!」
「それって……」
彼は首を傾げた。
「それって、ハルゲントのことじゃないか……おれのことじゃないし……」
「同じだ! 全部同じだ……! 生きてるんだろ! じゃあお前も欲しがれよ! お前だって飛べるって見せてやれよ!」
群れから落伍した
たとえそれが理解できていなくとも、自分とは正反対の、初めて目の当たりにした激しい感情に、彼が純粋な興味を抱いたのも事実だった。
――自分にはない情熱を、彼は持っているのだ。
「…………わかった。そうしてみる……どうすれば、成長できる?」
「……できることから、やるしかないだろ……。手で何か掴んだことあるか? 指を別々に動かしたり。翼を怪我してる今だってそれくらいできるだろ。少しずつ、できることを増やしていくんだ」
「……じゃあハルゲントは? 偉くなるには……どうすればいいの……」
「俺か?」
その問いに、ハルゲントは初めて笑った。
「俺は、へへ……! 俺は同い年の奴らの中で、一番最初に
せいぜいが、傷ついた
少年は小さな弓を持っている。大人の弓と比べて、威力も遥かに弱い。
それでも――彼の技量となんら関係のない幸運の成果だったのだとしても、それは彼が最初に
「将軍になったら、英雄にもなりてえ! 歴史に名前を刻むんだよ……!
「ふーん……凄いな……」
彼の相槌はまるで生返事のようだったが、心の底からそう思った。
だからその時に、彼も少年の真似をしてみようと思った。
それがきっと、生きるということなのだろうから。
「……ハルゲントは、凄いやつだ……」
――――――――――――――――――――――――――――――
失敗するとは思っていなかったが、あるいはこのような結末になることも、どこかで予感していたのかもしれない。
誰よりも強敵に挑み続けてきた。幸運も不運も、自身の身の丈を遥か越える強者と対峙した場合に起こる、無数の可能性をその身に味わってきた。
そうでなければ、チックロラックの永久機械を起動してはいなかったはずだ。
キリキリと、アルスの体内で金属の摩擦音が響く。それは不快な感触だった。
朦朧とした視界で、まずは右の
凍えて失われていたはずのその部位は、既に歯車とクランクが組み合わさった、奇異なる金属機械へと置き換わっている。
チックロラックの永久機械。それは
体内を歯車が回る感触は、粉砕された背骨の内にも伝播している。左大腿、肋骨。そして左翼。それらは体内で増殖し、生体を模倣し、無理矢理に駆動させる。
――なんで翼なんか折ったんだ。
「仕方ないだろ……」
入り交じる過去の残影に向けて、ぼんやりと返す。
偶然の結果とはいえ、酷く的確に反撃を受けてしまった。
ならば死者の巨盾で防ぐこともできない。それは敵の攻撃に対応して発動すべきもので、使用に伴う侵食と激痛のある限り、飛翔の姿勢制御とは両立不可能の盾でもある。
真空の爆発に押し流されている最中であったことも、いけなかった。
常時のアルスであれば豪速で迫る竜尾の一撃すらも、その寸前で回避し得たかもしれない。しかし自分自身が押し流されている最中では、軌道を中途で変更することは不可能だった。
他ならぬ敵の攻撃に、逆転の一打を委ねた。それが敗因だ。
「…………原因を考えて、対策する。原因を考えて、対策する……原因を考えて、対策する……原因を考えて、対策する――」
星馳せアルスは、今でもそうすることができる。
最初から全てができたわけではなかった。いつでも、できることを増やしてきた。
まずは、自身の群れの中で最強だった
隣の森林に現れる、恐ろしい
ルクノカの一撃に叩き落されたが、それでもヒレンジンゲンの光の魔剣を取り落としてはいなかった。死線の際までも宝を手離すことのない強欲が、最後の勝利の手段を彼に残していた。
(……ハルゲント。おれは、ハルゲントに勝つよ……)
全ての手段を尽くす。どんな宝を投げ打っても勝ってみせる。
それがただ一人の友との約束だからだ。
「……ああ、ああ……星馳せアルス……生きているでしょう? 私の爪をも耐えたのだもの。この程度で、壊れてしまうはずがないわ。だから、もっと……」
冬のルクノカは嘆いていた。
言葉とは裏腹に――死んだ、と考えていた。かつてのあらゆる戦士に、彼女は失望させられてきた。
故に意表を突かれた。
「……!」
長い笛のような音。
風を切り、甲高く鳴き続ける刃が、ルクノカの周囲を飛んで暴れた。
慄き鳥という名の魔剣の一つであったが、無論それは攻撃の手段ではない。
「【
魔剣に意識が逸れた咄嗟、彼女の真下より飛来する影があった。彼女は腐土太陽の能力を知らぬ。視界の端のそれを、当然に星馳せアルスであると認識した。
特段の意識を動かさぬままに爪が撃墜した。彼女は歓喜の声を上げた。
「ああ!」
――生きていたのね、と言おうとした。
腐土太陽の射出は、アルスに似せた擬態の一射のみではない。アルスはその体積に隠して、もう一つの小さな泥の弾丸を飛ばしていた。囮が弾け飛んだ先で溢れた光に、ルクノカの目は眩んだ。
それは泥の射出の加速に乗せた、ヒレンジンゲンの光の魔剣。
先の泥塊を撃ち落とした爪が射線を守っている。だが、光の刃は難なく貫通した。
誰よりも歴戦の戦闘本能で、白竜は首を曲げ、飛来する斬撃を回避した。
「【
魔剣は、空中で追尾した。
歴史の内で一度たりとも受けたことがない、それは最大の負傷であった。
――それで終わりではなかった。
尾を切り裂き、爪を奪い、そして真に直下からの攻撃であれば、
「アルス――」
ルクノカがそう発した時には、既に爪の間合いの内側にいた。
右の
神経から先に弾ける、摩天樹塔の毒の魔弾。それを直に掴んでいたとしても、鉄に置換した肉体は侵食される神経を持たない。
地平のどの弾丸よりも速い、今は彼自体が魔弾である。
それは竜鱗の剥がれた首へと、最強の
「――」
――越えることはなかった。
アルスの胴体の体積は、縦の半分になった。
左の翼ごと、喪失していた。
それは、冬のルクノカ自身すら思いもよらなかった反射速度である。
……彼女は呆然と呟いた。
「……ああ。困ったわ」
そしてたった今食い千切った、英雄の半身を吐き出した。
「まさか、私。……こんな、はしたないことを」
足りなかった。その先には牙があった。
悠久の歴史で初めて本物の死に瀕した
星馳せアルスがそうであったような、極限の状況下における成長ですらない。
それは最強の生命体の持つ、野生の本能である。冬のルクノカに最初から備わっていた、潜在能力の一つに過ぎなかった。
「私、こんなに速かったのね」
ただ単に、誰も全力を見たことがなかったのだ。
冬のルクノカ自身すら、自分自身の限界を理解していなかった。
彼女をそこまで追い詰めた者など――この広大な世界のどこにも、一つたりとて存在しなかったのだから。
「……」
遍く地平を攻略した
慄き鳥が。腐土太陽が。ヒレンジンゲンの光の魔剣が。
財宝と共に、きらめく世界の輝きと共に、裂けた大地の奈落へと落ちていく。
――もしも冬のルクノカの尾撃が、彼を偶然に捉えることがなかったなら。
その一撃の負傷がなかったなら。冷気に筋肉が凍えていなければ。銃を捨て、僅かに荷袋が軽かったとしたら。……彼に、三本の腕がなかったとしたら。
ただ一羽、彼こそが最もルクノカの命に迫った英雄であった。
(……やっぱり)
落ちゆく意識の最後に、それを思う。
(…………ハルゲントは、凄いやつだ……)
――――――――――――――――――――――――――――――
「ま、まだだ……」
ハルゲントは立ち上がって、よろよろと進んだ。
星馳せアルスが落ちていった。あの暗闇の淵へ。冷えた大地の奥底へ。
まるで極点の如き峭寒であったが、もはや毛布を纏う余裕すらなかった。
縋り付くものすらなく、ハルゲントは涙と鼻水に塗れて叫んだ。
「まだだ!」
まだ、きっと立ち上がってくる。まだアルスは負けてはいない。まだハルゲントは勝ってはいない。
星馳せアルスは英雄だからだ。どんな困難にも屈することなく全てを掴んだ、彼にとっての星だった。
それが冬のルクノカであろうが、きっと。
「……そうだろう、アルス……! まだだ、まだなんだ……! ああああ……」
静寂のまま変わらぬ地平を前に、膝が折れた。
そこに残っているのは、絶望と諦観の温度だけだった。
アルスがいる。あそこに彼の最大の敵がいるのだ。ハルゲントは叫んだ。
「誰か!」
老いた第六将は、まるで子供のように喚いていた。
「誰かアルスを引き上げてくれ! 誰か……! アルスなんだ! お、俺の……俺の友達なんだ! 誰か! 誰か……! 誰か……!」
その声は、誰にも届くことはない。
無人の氷原が、この荒涼の光景こそが。他ならぬ頂点の景色であった。
「誰か、誰か……! うっ、うぐ……ぐううう……!」
「――ああ。とても、とても楽しかったわ。ねえ、ハルゲント」
蹲るハルゲントの背後には、それが降り立っている。
何物にも侵されぬ純白の美しさを誇った
「ねえ……! まだ、こんなもので終わりではないのでしょう? これくらい、ほんの一回戦のはじまりなのだもの! 次はきっと……ねえ! もっと、もっと強い英雄が、素晴らしい戦いが待っているのでしょう!?」
これほどの喜びを、数百年の命で一度も味わったことがなかった。
孤高の景色が輝いて見えた。まだ、この世界を愛することができると思った。
その傷こそ、戦いすら許されなかった彼女が何よりも望んだことだった。
「もっと、もっと、もっと……ああ、本当に楽しみ。次の戦いが! 次の英雄が!」
第二試合。勝者は、冬のルクノカ。
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