第二試合 その4

 前夜から続いた雨は少しずつその速さを落として、今はまばらに降り注いでいる。

 岸壁で崩れかけた小屋の僅かな隙間から、彼はその一日の間、ずっと波の引いては寄せる様子だけを眺めていた。


「おい」


 腐った壁板の割れ目を持ち上げて、あの顔が現れた。

 名前。そういえば人間ミニアには皆、名前がある。鳥竜ワイバーンでは、強くて賢い、群れの上から数えた半分ほどしか持たない名前が。

 なんと言っていたか。


「ハルゲント」

「他所でその名前を出すんじゃないぞ」


 後ろを忙しなく見回す。この小屋に村の誰かが近寄らないかどうか、鳥竜ワイバーンの彼よりも不安でいるようだった。


鳥竜ワイバーンなんか隠してるって知られたら、叩き殺されても文句言えないからな」

「……。そうなんだ……じゃあ、気を……つけるよ」

「そうだ。お前の責任だぞ。なんで翼なんか折ったんだ」


 ハルゲントは、添え木の当てられた左の翼を見る。

 細く空洞である鳥竜ワイバーンの骨は、人族じんぞくよりは治りが早いはずだが、それでも完全に繋がるまでには、まだまだ時がかかりそうに見えた。


「……? ぶつかったから……」

「だから、なんでぶつかったんだよ。普通の鳥竜ワイバーンはそんなことないだろ」

「おれは……普通じゃないから……?」


 少年は頭を掻く。学のない彼にも、その理由はある程度察しがついていた。

 他の鳥竜ワイバーンとは違って、余計な器官があるのだ。体幹の右に一本。左に二本。その鳥竜ワイバーンには、これまで見られたことのない、三本の腕がある。

 それが飛翔の安定を崩して、普通はぶつからないはずの岸壁に衝突して、翼を折った。恐らくはそういうことだった。


「上手く飛べないなら、治ったって同じことになるだけだろ」

「…………。そうかも……」

「そうかもじゃないんだよ。本当、何考えてんのか、訳分かんねえ」


 ハルゲントは常に不機嫌そうだったが、その時の彼はそれを理解してもいなかった。鳥竜ワイバーンを見る人間ミニアは、大抵どれも怒っていて、どれも殺気立っている。


「もうちょっとなぁ……このままじゃダメだって、危機感を持てよ。原因を考えて、そいつに対策すんだよ」

「でも……できないから……それは、できないんじゃないの……? 仕方ないよ」

「できるようになれっての! お前、卵から出てきたその日から飛べたのか? 詞術しじゅつだって、今みたいにベラベラ喋れたか?」


 彼は、ハルゲントの意図を測りかねている。

 鳥竜ワイバーンである彼のことを思っての言葉なのだろうか。そうではないだろう。人間ミニアがそのようなことをする意味が分からない。

 最初にこの小屋の中に匿われた時から、ずっと分からなかった。


 少年は座り込んで、乾燥した木の実の、粗末な間食を頬張っていた。


「誰だって、できないことができるようになる日が来るってことだ。成長だよ。そうだ、成長。な。お前も成長しろや」

「……それで……どうするの?」

「え」

「何か……できるようになって……どうする……?」

「そりゃ、おい……飛べるようになれば、色んなもんが手に入るだろ。美味い餌だって取れるし、メスだって飛ぶのが上手いやつのほうがいいんじゃないのか。分かんねえけど……それに、群れで偉くもなれるだろ……!」

「ふーん……ハルゲントは……そういうの、欲しいんだね……」

「あ、当たり前だ!」 


 ハルゲントはますます険しい顔で、近くの壁板を蹴った。

 大きな音に彼は驚いたが、激しい感情を表すのは生まれつきどうも不得手だ。

 その驚きは、ハルゲントには伝わらなかったかもしれない。


「できない奴だと思われて、見下されて、悔しいと思ったことはないか!? 貴族の連中は俺たち下働きを、使えない馬の仔かなんかみたいに足蹴にしやがるッ! 父さんも母さんも……気持ち悪く笑って、ヘコヘコしてばかりだ! 俺は違う。絶対に偉くなってやる……成長して、偉そうな奴らは全部見返してやる……!」

「それって……」


 彼は首を傾げた。人間ミニアの論理は不思議だ。


「それって、ハルゲントのことじゃないか……おれのことじゃないし……」

「同じだ! 全部同じだ……! 生きてるんだろ! じゃあお前も欲しがれよ! お前だって飛べるって見せてやれよ!」


 群れから落伍した鳥竜ワイバーンと自らを重ねているのだと、その時の彼が理解できたかどうか。

 たとえそれが理解できていなくとも、自分とは正反対の、初めて目の当たりにした激しい感情に、彼が純粋な興味を抱いたのも事実だった。

 ――自分にはない情熱を、彼は持っているのだ。


「…………わかった。そうしてみる……どうすれば、成長できる?」

「……できることから、やるしかないだろ……。手で何か掴んだことあるか? 指を別々に動かしたり。翼を怪我してる今だってそれくらいできるだろ。少しずつ、できることを増やしていくんだ」

「……じゃあハルゲントは? 偉くなるには……どうすればいいの……」

「俺か?」


 その問いに、ハルゲントは初めて笑った。


「俺は、へへ……! 俺は同い年の奴らの中で、一番最初に鳥竜ワイバーンを落としたんだ……! だから、俺は弓の才能があるんだよ。このままどんどんお前の仲間を狩って、偉くなってやるからな。……今は鳥竜ワイバーンだけだ。だけど、いつか鳥竜ワイバーンだけじゃねえ、どんどん大物を倒せるようになってやる。そうしたら俺は王国の将軍だ。金にだって一生困らないし、皆が俺を褒める」


 せいぜいが、傷ついた鳥竜ワイバーンに吐露するだけの内心であったのだろう。それは到底、他の村人の前では口にできぬ野望であった。そうなることがどれだけ困難で、かけ離れた未来であるのか。

 人間ミニアの社会で、それは恥だった。弱者が分不相応な夢を語ってはいけなかった。


 少年は小さな弓を持っている。大人の弓と比べて、威力も遥かに弱い。

 それでも――彼の技量となんら関係のない幸運の成果だったのだとしても、それは彼が最初に鳥竜ワイバーンを撃ち落とした自慢の弓だった。


「将軍になったら、英雄にもなりてえ! 歴史に名前を刻むんだよ……! ドラゴンが相手だってな――この屠竜弩砲ドラゴンスレイヤーで撃ち落としてやる!」

「ふーん……凄いな……」


 彼の相槌はまるで生返事のようだったが、心の底からそう思った。

 だからその時に、彼も少年の真似をしてみようと思った。

 それがきっと、生きるということなのだろうから。


「……ハルゲントは、凄いやつだ……」


――――――――――――――――――――――――――――――


 失敗するとは思っていなかったが、あるいはこのような結末になることも、どこかで予感していたのかもしれない。

 誰よりも強敵に挑み続けてきた。幸運も不運も、自身の身の丈を遥か越える強者と対峙した場合に起こる、無数の可能性をその身に味わってきた。

 そうでなければ、チックロラックの永久機械を起動してはいなかったはずだ。


 キリキリと、アルスの体内で金属の摩擦音が響く。それは不快な感触だった。

 朦朧とした視界で、まずは右のあしゆびを見た。

 凍えて失われていたはずのその部位は、既に歯車とクランクが組み合わさった、奇異なる金属機械へと置き換わっている。

 チックロラックの永久機械。それは人間ミニアの小指の先にも満たぬ、組成不明の微小な歯車に過ぎないが、あのふすべのヴィケオンが最も価値を置いた財宝であった。


 体内を歯車が回る感触は、粉砕された背骨の内にも伝播している。左大腿、肋骨。そして左翼。それらは体内で増殖し、生体を模倣し、無理矢理に駆動させる。

 ――なんで翼なんか折ったんだ。


「仕方ないだろ……」


 入り交じる過去の残影に向けて、ぼんやりと返す。

 偶然の結果とはいえ、酷く的確に反撃を受けてしまった。


 ならば死者の巨盾で防ぐこともできない。それは敵の攻撃に対応して発動すべきもので、使用に伴う侵食と激痛のある限り、飛翔の姿勢制御とは両立不可能の盾でもある。


 真空の爆発に押し流されている最中であったことも、いけなかった。

 常時のアルスであれば豪速で迫る竜尾の一撃すらも、その寸前で回避し得たかもしれない。しかし自分自身が押し流されている最中では、軌道を中途で変更することは不可能だった。

 他ならぬ敵の攻撃に、逆転の一打を委ねた。それが敗因だ。


「…………原因を考えて、対策する。原因を考えて、対策する……原因を考えて、対策する……原因を考えて、対策する――」


 星馳せアルスは、今でもそうすることができる。

 最初から全てができたわけではなかった。いつでも、できることを増やしてきた。


 まずは、自身の群れの中で最強だった鳥竜ワイバーンを。

 隣の森林に現れる、恐ろしい大鬼オーガを。砂漠に生ける野良の蛇竜ワームを。王国の強大な戦士の一人を。それから英雄を。伝説を。いずれはドラゴンを。


 ルクノカの一撃に叩き落されたが、それでもヒレンジンゲンの光の魔剣を取り落としてはいなかった。死線の際までも宝を手離すことのない強欲が、最後の勝利の手段を彼に残していた。


(……ハルゲント。おれは、ハルゲントに勝つよ……)


 全ての手段を尽くす。どんな宝を投げ打っても勝ってみせる。

 それがただ一人の友との約束だからだ。


「……ああ、ああ……星馳せアルス……生きているでしょう? 私の爪をも耐えたのだもの。この程度で、壊れてしまうはずがないわ。だから、もっと……」


 冬のルクノカは嘆いていた。

 言葉とは裏腹に――死んだ、と考えていた。かつてのあらゆる戦士に、彼女は失望させられてきた。

 故に意表を突かれた。


「……!」


 長い笛のような音。

 風を切り、甲高く鳴き続ける刃が、ルクノカの周囲を飛んで暴れた。

 慄き鳥という名の魔剣の一つであったが、無論それは攻撃の手段ではない。


「【アルスよりヒレンジンゲンの剣へ k y l s e k o k y a k o w a k k o s 雹は天地に k e s t e k k o g b a k y a u ――】」


 魔剣に意識が逸れた咄嗟、彼女の真下より飛来する影があった。彼女は腐土太陽の能力を知らぬ。視界の端のそれを、当然に星馳せアルスであると認識した。

 特段の意識を動かさぬままに爪が撃墜した。彼女は歓喜の声を上げた。


「ああ!」


 ――生きていたのね、と言おうとした。

 腐土太陽の射出は、アルスに似せた擬態の一射のみではない。アルスはその体積に隠して、もう一つの小さな泥の弾丸を飛ばしていた。囮が弾け飛んだ先で溢れた光に、ルクノカの目は眩んだ。


 それは泥の射出の加速に乗せた、ヒレンジンゲンの光の魔剣。

 先の泥塊を撃ち落とした爪が射線を守っている。だが、光の刃は難なく貫通した。

 誰よりも歴戦の戦闘本能で、白竜は首を曲げ、飛来する斬撃を回避した。


「【軸は右眼 k a a m e k s a k o i k a k 移ろいの輪 s y a s k a k k o k e m n o 回れ k a i r o k r a i n o 】――慄き鳥。腐土太陽。ヒレンジンゲンの光の魔剣」


 魔剣は、空中で追尾した。

 力術りきじゅつの変動を受けた投射軌道はルクノカの首の左からうなじまでを走って、無敵の竜鱗を焼き滅ぼした。

 歴史の内で一度たりとも受けたことがない、それは最大の負傷であった。


 ――それで終わりではなかった。

 尾を切り裂き、爪を奪い、そして真に直下からの攻撃であれば、ブレスを浴びせることすらできない。それは自分自身の巨体を攻撃半径に含むからだ。


「アルス――」


 ルクノカがそう発した時には、既に爪の間合いの内側にいた。

 右のあしゆびには、魔弾が。


 神経から先に弾ける、摩天樹塔の毒の魔弾。それを直に掴んでいたとしても、鉄に置換した肉体は侵食される神経を持たない。

 地平のどの弾丸よりも速い、今は彼自体が魔弾である。

 それは竜鱗の剥がれた首へと、最強のドラゴンの反応速度を越え。


「――」


 ――越えることはなかった。

 アルスの胴体の体積は、縦の半分になった。

 左の翼ごと、喪失していた。


 それは、冬のルクノカ自身すら思いもよらなかった反射速度である。

 ……彼女は呆然と呟いた。


「……ああ。困ったわ」


 そしてたった今食い千切った、英雄の半身を吐き出した。


「まさか、私。……こんな、はしたないことを」


 鳥竜ワイバーンの英雄は、尾を封じ、爪を潜り、ブレスすらも制してドラゴンに挑んだ。

 足りなかった。その先には牙があった。


 悠久の歴史で初めて本物の死に瀕したドラゴンあぎとの脊髄反射の速度は――最強の鳥竜ワイバーンの直線速度を、僅かに上回った。

 星馳せアルスがそうであったような、極限の状況下における成長ですらない。

 それは最強の生命体の持つ、野生の本能である。冬のルクノカに最初から備わっていた、潜在能力の一つに過ぎなかった。


「私、こんなに速かったのね」


 ただ単に、誰も全力を見たことがなかったのだ。

 冬のルクノカ自身すら、自分自身の限界を理解していなかった。

 彼女をそこまで追い詰めた者など――この広大な世界のどこにも、一つたりとて存在しなかったのだから。


「……」


 遍く地平を攻略した冒険者ローグが、落ちる。

 慄き鳥が。腐土太陽が。ヒレンジンゲンの光の魔剣が。

 財宝と共に、きらめく世界の輝きと共に、裂けた大地の奈落へと落ちていく。


 ――もしも冬のルクノカの尾撃が、彼を偶然に捉えることがなかったなら。

 その一撃の負傷がなかったなら。冷気に筋肉が凍えていなければ。銃を捨て、僅かに荷袋が軽かったとしたら。……彼に、三本の腕がなかったとしたら。

 ただ一羽、彼こそが最もルクノカの命に迫った英雄であった。


(……やっぱり)


 落ちゆく意識の最後に、それを思う。


(…………ハルゲントは、凄いやつだ……)


――――――――――――――――――――――――――――――


「ま、まだだ……」


 ハルゲントは立ち上がって、よろよろと進んだ。

 星馳せアルスが落ちていった。あの暗闇の淵へ。冷えた大地の奥底へ。


 まるで極点の如き峭寒であったが、もはや毛布を纏う余裕すらなかった。

 縋り付くものすらなく、ハルゲントは涙と鼻水に塗れて叫んだ。


「まだだ!」


 まだ、きっと立ち上がってくる。まだアルスは負けてはいない。まだハルゲントは勝ってはいない。

 星馳せアルスは英雄だからだ。どんな困難にも屈することなく全てを掴んだ、彼にとっての星だった。

 それが冬のルクノカであろうが、きっと。


「……そうだろう、アルス……! まだだ、まだなんだ……! ああああ……」


 静寂のまま変わらぬ地平を前に、膝が折れた。

 そこに残っているのは、絶望と諦観の温度だけだった。


 アルスがいる。あそこに彼の最大の敵がいるのだ。ハルゲントは叫んだ。


「誰か!」


 老いた第六将は、まるで子供のように喚いていた。


「誰かアルスを引き上げてくれ! 誰か……! アルスなんだ! お、俺の……俺の友達なんだ! 誰か! 誰か……! 誰か……!」


 その声は、誰にも届くことはない。

 かすがいのヒドウも、あれだけいた観客も、いつしか消えて失せていた。

 無人の氷原が、この荒涼の光景こそが。他ならぬ頂点の景色であった。


「誰か、誰か……! うっ、うぐ……ぐううう……!」

「――ああ。とても、とても楽しかったわ。ねえ、ハルゲント」


 蹲るハルゲントの背後には、それが降り立っている。

 何物にも侵されぬ純白の美しさを誇ったドラゴンは、首が焼け爛れ、左の爪は切断され、尾からは夥しく出血の続く、無残な有様であったが。


「ねえ……! まだ、? これくらい、ほんの一回戦のはじまりなのだもの! 次はきっと……ねえ! もっと、もっと強い英雄が、素晴らしい戦いが待っているのでしょう!?」


 これほどの喜びを、数百年の命で一度も味わったことがなかった。

 孤高の景色が輝いて見えた。まだ、この世界を愛することができると思った。

 その傷こそ、戦いすら許されなかった彼女が何よりも望んだことだった。


「もっと、もっと、もっと……ああ、本当に楽しみ。次の戦いが! 次の英雄が!」


 第二試合。勝者は、冬のルクノカ。

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