第二試合 その2
前方より飛来する影の勢いは、まるで爆発する火の粉のようであった。
遥か彼方のイガニア氷湖と
「素晴らしい」
速さに対する驚嘆ではなく、恐れず向かい来る闘志に対する感激である。
過ぎたる強さに隔絶したルクノカは、もはや対手の強弱の程を読むこともできない。かつて弱きと見た者は弱く、強きと信じた者も、尽く弱かった。
いつしか……彼女の前に立つ者が持っていた、一番確かなものだけを信じるようになった。絶対の強者へと挑む勇気と、無謀を。その心が何よりも美しいものだと、今の彼女は強く信じている。
「……さあ、アルス。貴方は何を見せてくれるかしら?」
ルクノカの飛行進路に対して、一直線の正面反航で迫っていた
そこには白昼の太陽がある。ルクノカは翼を畳んで、急激に失速した。
逆光にアルスの影を見失った一瞬、閃いた光も見えなかった。限界いっぱいの射程から銃弾が飛んで、ルクノカの頬を打った。
「ウッフフフフフフ!」
その一撃の感触を受けて、ルクノカは笑った。
星馳せアルスは弓の使い手だろうか? ルクノカは……かつて一人の“
太陽の中から飛び出し、今度は低く地割れの中へと潜っていく影の軌跡を認める。太陽の光に開かせた瞳孔を、暗闇で再び閉ざそうとしている。
ルクノカは、銃撃を受けた頬を這う感触を自覚している。それは銃弾から生え、肉体に食い込んで侵食しつつある、枝分かれした植物の根だ。
拷樹の種という。マスケット銃の火薬熱で発芽したそれは、生命を必殺する樹の魔弾であったが。
……ルクノカは、根の張りつつある頬を爪で軽く撫でた。
「――面白い矢ねえ」
ただそれだけで竜鱗ごと剥がれ落ちて、必殺の魔弾は無意味となる。
先のアルスの射撃は、間違いなくルクノカの眼球を狙っていた。竜鱗に覆われていない目を。しかし、
奈落の底からは、再び銃弾が飛来した。爪が遮り、それを弾く。
恐らく、これも命中すれば死を齎す何かの類の魔弾なのだろう。しかし高度に結晶化した
「ウッフフフフフフフ!」
大地に走る深淵を見下ろしている。もしも今、ここに
けれどそれでは楽しくはない。
この小さく疾い英雄は、これからどんな戦い方をするのだろう?
最強の
この地上で最強の星馳せアルスは、彼女に何をしてくれるのだろう?
(……ああ、違うわね)
好奇と興奮に輝いていた目が、僅かに細まる。
地割れに身を潜めれば、
「もらった……」
声が聞こえた時には既に、ルクノカの背後で鞭が放たれた後であった。それは鞭にあるまじき鋭角的な折れ線を空に描いて、古竜の右翼の付け根を捕らえた。
「――キヲの手」
締め付けられる部分が奇妙に歪んでいき、カチカチと音を立て始める。
巻きついた対象を強度に関わらず捻り、切断する。竜鱗を無効化する武具がこの世界にあるのだとすれば、これが数少ない一つであるのだろう。
「ウッフフフ! ウッフフフフフフフ! ああ……楽しい! 貴方は速いのねえ、アルス! 年を取ったからかしら、全然目で追えなかったわ!」
「……そう……。あんたは、弱いね」
20m以上の射程からのキヲの手ですらも、次の動作への足がかりに過ぎない。アルスは三つの腕の一つで鞭を引いたままで、もう一つの手で新たな武器を取り出す。それは最強の魔剣である――。
澄んだ声は、その時に響いた。
「【
いつかの迷宮都市で“
それでも
「【
ルクノカの視界の先には、なだらかな谷があった。水辺があった。
赤い荒野の地平線があって、それと対照をなす青い空には、まばらな雲があった。
それは何百年と続いた、マリ荒野の風景であった。
全てが消えた。
五感が詰まるような世界の激変を、遥か彼方から見ていた観客もすぐさま感じた。
音なきルクノカの
――否。停止してはいなかった。それは風も、衝撃の威力も伴わぬ
空気分子の凍結によって空気が白く染まったことすら、一瞬だった。世界の底が抜けてしまったかのように、それよりも冷えた。岩の大地は黒く歪み果てて、まるで生命のように、ゆっくりとルクノカの方向へと押し寄せていた。
恐るべき勢いで凝縮する大地の構造が、一つの分子のように流れていた。
真なる静寂の世界の主は、ただ一人で呟く。
「――ああ、ハルゲント。私の
二呼吸の後に、それが起こった。
天地の鳴動する稲妻の如き爆発であった。
空気が激流を打って白竜の
あらゆる物体が、ルクノカの前方へと落ちていった。
体勢を完全に崩した
「私の
超絶たる爪の打ち下ろしで、アルスは一直線に死の大地へと落ちた。
英雄殺しの伝説は……右翼に引っかかって残った千切れた魔鞭を、藻屑を除けるように払って捨てた。無傷である。
冬へと閉ざすルクノカの
低温を防ぐべく防備を張り巡らせた者がいた。あらゆる破壊を遮る魔具を携えた者がいた。あるいはこのアルスのように、機動と立ち回りの力で、その範囲より逃れようとした者がいた。
歴史上、その全員が死んだ。
――絶対極限の
ならば破壊はそれで終わりではない。続くのは、喪失した世界の穴を埋めるべく流れ込む、激動たる暴風の爆発だ。時代に現れた例外たる星馳せアルスですらも、その流れに抗うことはできなかった。
……しかし。
「ウッフフフフフフ! ウッフフフフフ! ああ、おもしろい……!」
しかしルクノカは笑った。それが意味するところは一つしかない。
彼女は、まだ何も見ていない。彼にどんな戦い方が残っているのだろう?
最強の
この地上で最強の星馳せアルスは、彼女に何をしてくれるのだろう?
「……。ふざけてるね……あんた……」
それは常と同じく、陰鬱で細い、小さな声であった。
それでも聞く者が聞けば、僅かな怒りの混じった……一つの強烈な感情を察することができただろう。
『鬱陶しい』という感情を。
「死者の巨盾」
星馳せアルスは、次なる武器を構えている。地を蹴り、飛び立つ。
――できなかった。
世界が冷え切っている。空気が重い。それまで岩盤であったはずの大地は、物理的な作用による奇妙な紋様へと捻くれた、黒い結晶のような何かだ。
「ウッフフフフ! そんなところに立っていてはいけませんよ?」
ルクノカは、遥か頭上より見下ろしている。これまでのアルスが、ありとあらゆる伝説に対してそうであったように。
アルスは、もう一度飛び立とうとした。体温が急激に奪われていく。
「……後ろの足が、貼り付いてしまうかもしれないものね?」
地上最強の種。その中にあって、最強の存在。
冬のルクノカの
「【
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