地平咆、メレ その2
澄んだ空に、高く星が瞬いていた。満天に広がっていた。
子供たちにとっては、あまりに美しくて、とても悲しい夜空だったのだろう。
夜の光の影となって、一つの荷車が丘を登っていく。
沢山の子供たちがそれを必死に引きながら、呼びかけ続けている。
「分かるか、ほら。いつもの鉄の柱だ。“針の森”に連れてきたぞ! イーリエ!」
「イーリエ、このヘナチョコ! まだ寝るんじゃないよ!」
「俺達がついてるから。な。苦しくないよな……! イーリエ!」
「……。うん……うん……」
荷車の中には黄色い毛布に包まれて、一人の小さな少女が収まっている。
顔色は月光にも分かるほどに蒼白で、熱に朦朧としていた。
その頃の時代では、手の施せない病であった。
一団の内から一人の少年が飛び出して、“針の森”の中へと駆け込んでいく。
彼は声を張り上げて、見知った存在の名を呼んだ。
「メレーッ! イーリエが来た! イーリエが会いたいって!」
いつもゴロゴロと横たわってばかりの大巨人は、その夜だけは、眠りこけていなかった。面白くもなさそうに、背を向けて座っていた。
「うるッせえな……。誰だよそいつ。クソガキの見分けなんかつかねーよ」
振り返らず、不機嫌に吐き捨てる。
小さい
もしかしたら、弱すぎる命に愛着を持つことを恐れていたのかもしれない。
「バカ野郎、メレ! もう本当に最後の最後だから会いに来たんじゃねえかよォ! お前、あいつが生まれた時から仲良しじゃねえかよ!」
「……」
いつもの楽観的な笑いとは正反対の、弱々しい落胆の声だった。
「……もう、本当に駄目か?」
必ず別れの時が来る。それは心の底から満足できる旅立ちであることもあれば、このように、ひどく早すぎる、悲しい別離であることもあった。
「クソ
やがて、荷車が追いついてくる。少女の両親と思しき大人が、彼女の折れそうに細い手を握っている。
メレがいつも見る子供たちが、口々に少女の名を呼んでいる。
イーリエ。二つ目の名前すらない。サイン水郷の、イーリエ。この世に生まれ落ちて、何を為すこともなく死んでしまう。
「……メレ……よかった……。起きてて……」
「……たまたまだっつーの。暇すぎて、髭の数を数えてたんだよ」
「うん……うん。あのね、メレ……。ありがとね……ずっと……楽しかった……」
「そうか。そりゃ、良かったな。生きてて、楽しかったか。……イーリエ」
その頃には、周りの子供達も一人、また一人と、涙を流していた。
いつも強がっている悪童たちですら泣いていた。
イーリエは、彼らにとっての大切な友人だった。きっと、メレにとっても。
メレはそんな弱い連中に流されはしない。彼は最強の
彼は荷車を両手で包むようにして、昼間のように笑いを作った。
「よし。どうせ、今日おっ死んじまうんだ。何でも願いを聞いてやる。何がいい」
「……じゃ、じゃあ、また……メレ。いつかみたいに……星を……」
「ああ、ああ。肩に乗って、見たよな」
「……わたし……この村が……大好き……。星が……きれいな……」
「ガハハハハハ! なあに、こんな星くらい、いくらでも墓に供えてやらあ」
大人の三人は乗せられそうな巨大な手で、
生きている。呼吸をして、まだ温かく、鼓動している。
彼女の生まれた日を覚えている。今日と同じに空気が澄んで、星の瞬く夜を。
なんて弱々しくて、儚い命なのだろう。地平咆メレは、生まれながらに強かった。
「――イーリエと一緒に、星を見たい奴はいるか!」
「俺だ!」
「あたしも……!」
「イーリエ! 私も!」
「俺だって!」
「全員乗せてやる! 星が近すぎても、掴んでくるんじゃねーぞ!」
メレは、両手一杯の命を、空に高く掲げた。
上を見上げたメレにも、瞬く星々がとてもよく見えた。
あまりに美しくて、とても悲しい夜空だったのだろう。
彼女が何よりも好きだった星が、もっと近くに見えるように――高く。高く。
あまりにも遠い、遥か過去の記憶だ。
――――――――――――――――――――――――――――――
「……なあ、父ちゃん」
大嵐の翌日の夜である。
暖炉から離れると少し空気は肌寒く、それが嵐の残滓を思わせるようだった。
夕食を終えたミロヤは歯を磨きながら、同じく歯を磨く隣の父親に尋ねた。
「メレは、なんで王城試合に行くんだろ」
「ん、どうしたいきなり」
「……いや、
「村のお金を稼ぐためだけに、そこまでしなくてもって?」
ミロヤはどちらかというと母親似の気質をしていて、穏やかでひょろ長い父親とは体格も性格も何もかも正反対だ。
けれど彼は、ミロヤの考えることを、いつも見通すように理解してくれている。
「実を言うとね。王城試合の話は、みんながメレのために決めたことでもあるんだ」
「……メレのために?」
「うん」
父親は布でゴシゴシと顔を拭って、いつもの野暮ったい眼鏡をかけた。
ランプの熱に晒されていたせいで、少しだけ曇っている。
「メレは、ずっと……サイン水郷の外に出たことがないんだよ」
「えっ嘘だろ!? そうなのか?」
「うん? そうだよ。いつだってあの丘で寝て……村人が運んでくる飯を食べたり、
「どこか、行きたくならないのかな」
「なるだろうね。
ミロヤは初めてそれを思った。もしもミロヤが、彼の立場だったら。
あの野ざらしの不毛の丘の上で、二百五十年も。新しい景色や、仲間の
彼はサイン水郷の守り神だが、彼らと共に村で暮らすことはできない。
遥か遠くを見通す目を持っているのに、彼自身は決してそこに行けないのだ。
「今年の大嵐も終わった。だからちょっとの間くらい、旅をしてほしいんだよ。平和になった世界で……この村の外の思い出を作ってほしいって思うんだ」
「でも、王城試合で戦うんだぜ? ロスクレイだっている。怖くないのかな」
「うーん……まあ、その辺りはまだミロヤには難しい話かもしれないけどなあ」
父親は腕を組んで、とぼけたような、難しいような顔をした。
窓の外の夜の静寂からは、チッチッと鳴く鳥の声が漏れ聞こえていた。
「メレは、強いんだよ」
「まあそうかもしれないけどさあ」
「……強いんだよ。ミロヤが思ってるより、ずっとだ」
地平咆メレは、武勇を知られぬ英雄である。
それでも不思議なほどに、彼の最強を疑う村人はいない。
「八年前かな。魔王軍がこのすぐ近くにまで広がっていたのは覚えてるかい?」
「えっ……嘘だろ……」
「――嘘じゃないよ。父さんも本当に怖くて、小っちゃいお前だって毎日泣いてた。周りは魔王軍だらけで……でも逃げなければ、いつか父さん達まで魔王軍になってしまう。そうなる前に心中したほうがいいんじゃないかって……真剣にそういう相談していた家もあったくらいなんだよ」
「……」
子供達の間でも、“本物の魔王”について悪ふざけを言うことだけは滅多にない。
それが何一つとして冗談では済まない事柄だと、誰もが理解しているからだ。
「けれど、そうはならなかった。他は全部だめになったのに、このサイン水郷だけが無事だった。……覚えてるよ。毎日のように、メレがあの丘に立って、魔王軍を見渡していたんだ。手にはあの黒弓を持ってた。矢を放ったりはしなかった……でも、父さんが見たことないくらい、険しい顔をしていた」
「メレのお陰で、魔王軍は……寄ってこなかった……?」
「……すごいだろ? メレは“本物の魔王”に勝ったんだよ。本当のことなんだ」
あるいはそれが唯一、メレの武勇の逸話だったのかもしれない。
その話を大人達が口にしなかった理由も、ミロヤには分かる気がした。
迫る破滅と、蔓延する形のない絶望。あのメレの顔から、笑顔が消えた日。
何もかもが今のこの村とは違う……悪夢と思いたい出来事だったのだろう。
サイン水郷は、平和だ。
この小さな村の住人達は、中央の
世界各地の未踏の秘境のいくつかがそうであるように、ここは魔王時代以前の姿を保つ、数少ない地の一つである。
「メレは、戦士なんだ。ずっと、多分、その前から……ずっと強かった」
「……戦う相手もいないのに?」
「メレは、ずっと一人で強かったんだ。寂しいよな。もしも戦えば、誰よりも強いのに……誰に見せることもないまま、この村を守り続けてくれて……」
王城試合の候補として名乗り出るにあたって、村の大人とメレとの間にどんな会話があったのかを、ミロヤは知らない。
……けれど、もしかしたら。メレが本当に、ずっと戦士だったというのなら。
いつも寂しかったのだろうか。孤独だったのだろうか。
村人達は彼のための食事を運び、彼の矢を奉納して、思い出と心を交わすことができたとしても、その一つだけは、ずっと満たされなかったに違いなかった。
“本物の魔王”に虐げられた時代こそが、英雄たちを産み出した。――ならばその中で平穏を守り続けていたこの村には、地平咆メレと同じように強い者など、一人も現れていないのだから。
「……父ちゃん。メレは、ロスクレイに勝てるかな」
「勝てるさ」
「でもメレが矢を射ったところ、俺は一度も見たことないよ」
「ん? 本当か? ミロヤは見てるはずだぞ」
父親は少し不思議そうに顔を傾げて、丘の見える窓を開けた。
この村を見下ろす“針の森”は、どの家の窓からでもよく見える。
「七歳のとき、流れ星を見たって言ったじゃないか」
「あー……いや、覚えてないけど。それが何なの?」
「ほら。今日ははっきり見えるだろ?」
「……!」
思わずミロヤは身を乗り出していた。
流れ星だ。確かに流れ星が、黒一色の夜空に走っている。
けれどその星は、天に登っている。
丘から空を目掛けて、炎に燃える線が、何度も。何度も。
いつもの夜なら、見落としていたかもしれない。
そんな微かな、嵐の後のこの澄んだ空気でなければ見えない、淡い光だ。
「……
「メレ……!」
ミロヤが気づかなかっただけで、毎晩、この流星群が輝いていたのだろうか。
いつも怠けて、笑ってばかりの大巨人は……ずっと、ずっとこの村で。
「なあ、父ちゃん……父ちゃん!」
窓から落ちんばかりに、その光に見入っていた。
大嘘つきだ。やっぱり、メレは矢を射っていたのだ。
それも、こんなに凄いことをしている。
今は信じられる。
彼らといつも共にあったサイン水郷最強の存在が、本当にこの大地で最強なのだと信じてみたい。
「……メレは、ロスクレイに勝てるかなあ!」
――――――――――――――――――――――――――――――
澄んだ空に、高く星が瞬いていた。満天に広がっていた。
……嵐の過ぎ去った、美しい空だった。
「ああ……くそっ、もうちょっとなのにな」
空に輝く針の先程にも小さな星を見上げて、メレは小さく舌打ちした。
星が見える日には、彼はいつでもそうしている。
土から矢を番え、弓を引き、そして天高く……その小さな一点に向かって、放っていく。疲れ果てて眠りこけるまで、そうしている。
きっと、まだ少しだけ、狙いが悪い。
きっと、まだ少しだけ、距離が届かない。
けれど昨日よりは良い。だからいずれ当たる。
「今に見てろよ」
この世界の種族は、限られた時を生きる種族のみが、技術を磨き、努力を積み重ねることができるのだという。
しかし。彼らがもしも、その長過ぎる生を、一つの技術の追求のみに費やすようなことがあるのだとしたら。
いつも楽観的に笑っている。
星が見える日には、彼はいつでもそうしている。
「――お前らを墓に供えてやる」
それは埒外の巨体で地平線の果てまでを見通す、極限の視力を持つ。
それはただの一射で激流の流れすら変える、神域の精度を持つ。
それは地形ごとを壊滅させる、防御も回避も不能の破壊力を持つ。
地上存在の認識届かぬ地点より放たれる、星の一矢である。
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