鉛筆戦争ーこの世の中から鉛筆がなくなったら
大西 明美
第1話 助けてください! 誰か私を助けて…
<文字というものは、知識を強固にするには十分ではなかったにせよ、
支配を確立するためには不可欠だったのであろう
クロード・レヴィ=ストロース>
ー助けてください! 誰か私を助けて…
午後8時を過ぎ、頭の上から若い女性の声が聞こえてきた。
「ん、なんだ?」
僕は窓を開けて、上を見上げてみた。見渡す限り、山と畑だけ。
「なんだよ、空耳かよ」
窓は、一度開けるとなかなか閉まらない。仕方ない築60年だからな。
僕は、この喫茶店を3年前に買い取った。
80歳を過ぎた老人が「100万円で買わないか」と常連客だった僕に声をかけてきたのだ。
風が吹けばガタガタと音をたてる窓とドア。グラグラと安定しない木製のテーブルと椅子が6セット。
あちこち塗装が禿げた食器棚に、年季の入ったコーヒーカップ。
ーうーん、安いけど…商売にならないだろうな。今だって閑古鳥なのに。
老人は、そんな僕の様子におかまいなしで、外へと案内した。
今まで気がつかなかったが。喫茶店の裏には、大きな畑が広がっていた。小松菜、大根、人参などたくさんの野菜が栽培されていた。
「ほら、この喫茶店の裏にも畑。これも君のものになるぞ。喫茶店が儲からなくてもここで自給自足すれば、食べていける」
ーほう。そうか。100万円払った後は、家賃がかからない。光熱費のみで生きていけるのだ。
野菜を育てれば、そんなに売上がなくても生きていける。そう、僕は創作活動を続けることが出来る。
「わかりました。僕、この喫茶店を買います」
「君ならそう言うと思ったよ」
老人はポンと僕の肩をたたいた。
「もう1つ、君に見せたいものがある」
畑の細い道を歩いた先に、小さな小屋があった。喫茶店と同じぐらいに年季が入っている。
「ここには、宝物が眠っているんだ」
「はぁ」
小屋の扉は鎖でグルグルと封印されていた。その中央に南京錠があった。
「カチャン」簡単に鍵があいた。鎖を解き、老人はドアを開ける。「ギー」という音がした。
中は真っ暗だった。
ちょっと待ってね。老人がスマホの明かりをつけた。
「そこはスマホなのかよっ」と僕は一人心のなかで突っ込んだ。
「あ、ここ、ここ」パチンと電気をつけた。蛍光灯が少しおくれてついた。
「君、これはね。僕の宝物なんだ」
「ええ、なにこれっ!?」
小屋の中は一面蔵書が並んでいた。まるで小さな図書館のようだ。
「すごいですね。何冊あるんですか」
「ざっと5,000冊はあるね」
「え、5000冊!?」
すると、老人は突然こんな話をしてきた。
「私は太平洋戦争を経験している。なぜそうなったかわかるか?」
「え? うーん…。政府が悪かったんじゃないですかね」
「まちがいだよ」
僕は、立ち止まった。
「そうなんですか。じゃあ、誰が悪かったんですか」
「そりゃ、国民だよ。国民が考えるのをやめたこと。嘘の事実を信じ始めたこと。
判断を人にまかせはじめたことじゃよ」
「うーん、難しいですね」
老人は上を見上げた。
「この5,000冊は、我々のように失敗しないために、次の未来を担う人が生きるための知恵がいっぱい詰まっている。
ぜひ、これを君に託したい」
「なぜ、僕なんですか?」
「それは…君が人生に失敗しているからだ」
「ああ…ご存知だったのですね」
僕はうつむいた。
ーそりゃ、そうだよな。知っている人は知っているよな。
「人生の挫折を味わった人でないと、人の痛みはわからない。君が最適だ」
「…ありがとうございます」
不思議に、少し心が軽くなった。こんな僕でも世の中に役立てられるのかもしれない、と。
「100万円で、買います」
ポツリと僕は言った。
「君ならそう言うと思った」真っ白な髪の小柄な老人は、シワを深くさせながら微笑んだ。
3ヶ月後、僕は5年勤めていた、小さな印刷会社をやめた。
「20代でカフェ店主か。すごいな」みんなが送別会をしてくれた。
ラッキーだったのはこのカフェが会社から徒歩10分も離れていないことだった。
それまで営業時間が午後2時から6時までだったところから、僕はすぐにランチを開始した。
すぐに元同僚たちが集まった。
自家製野菜を使いはじめた。すると街のタウン誌にもオーガニックなカフェとして紹介された。
半年もしないうちに、繁盛店となり、今に至る。
そんな矢先のことだ。
ー助けてください! 誰か私を助けて…
頭の上からずっと聞こえてくるのだ。もう夜10時だ。
「いいかげんにしろ!」
僕は、大きな声で、カフェの中で叫んだ。
「カフェが流行っているからといって、嫌がらせをしているのか? え?」
ー助けて、助けて…
その声はやまない。
「もうやめてくれ! 頭がおかしくなる!」
僕がそう言うと、いきなりガタガタとテーブルと椅子が動き出した。
いや、動いているのはテーブルと椅子ではない、地面だ。
スマホが突然、「地震です! 地震です!」と鳴り始めた。
食器棚から食器がバラバラと落ち、ガシャーンガシャーンと音を立て始めた。
ー助けて、助けて…
声はなおやまず、だんだん近づいている。
1分経っても、2分経っても、揺れが止まらない。
山の様子を見に行こうと、壁をつたいながら、玄関へ向かった。
そのとき、「ポッポー」と鳴き始めた鳩時計が僕の頭を「ゴーン」と直撃した。
意識は次第に遠ざかっていった。
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