第634話史とブラームス(3)

約束通り昼休みに、史は、生活指導の教師にして剣道部の顧問である菅沼に会うために、職員室まで出向いた。


里奈が少々不安な表情をして、

「ねえ、史君、声が小さいって言っても、しっかり聞こえるくらいの声だったよ」

「あの先生、剣道の指導も厳しいから、心配」

とにかく、史に注意を促すけれど、史はどうにもならないと言った顔。

「しかたないよ、確かに大きな声が出なかったことは事実、それを叱るのは生活指導の先生としては当たり前のこと、素直に叱られて来るよ」

そこまで言って、不安な里奈に目くばせをして、菅沼のもとに出向いたのである。


その史が職員室に向かって廊下を歩いていると、菅沼は既に職員室の前に立ち、史を待ち受けている。


史は、少し早めに歩き、キチンと頭を下げた。

「菅沼先生、朝は本当に申し訳ありませんでした、以後、気を付けます」


しかし、その菅沼の反応は、史や里奈の心配とは異なっていた。

柔らかな声で、史に話しかけてきた。

「ああ、いいんだ、それは大したことではないんだ」

「史君の体調の悪さは、見てすぐにわかった」

「体調が悪いのに、大きな声など出せるものではない」


史が驚き気味に頭を上げると菅沼は、真面目な顔。

「確かに少し話したいことがあるんだ」

「史君には、無理を言って来てもらった」

「お礼を言いたいのは、私の方だ」


史が菅沼の顔を見ていると菅沼は、

「少し、談話室に」

と史を誘う。


史も、拒む理由がない。

「わかりました」

と、談話室に向かった。


談話室では、菅沼と史の一対一、向い合せに座った。


話も、当然菅沼から。

「史君、何か苦しんでいないかな」


いきなりの言葉に史は戸惑う。

「え・・・特に・・・それほどでは・・・」

確かに勉強やら音楽、特にブラームスには苦しんでいるけれど、ここで生活指導で剣道部の菅沼に話をするのは、お門違いと思っている。


菅沼は、真面目な顔を変えない。

「史君、お腹のあたりを抑えて歩いていることが多いけれど」

「胃のあたりかな?」


史はハッとなった。

「あ・・・はい・・・ご心配を・・・」

と、思わず頭を下げてしまう。


菅沼は深く頷いた。

「やはり、そうだろうと思った」

「胃のあたりを抑えるのは、何か苦しみを抱えているということ」

「傍目にもわかるんだ、史君が何かに苦しんでいるということ」


史は、その言葉で、ほぼ条件反射、胃を抑えてしまった。

「はい・・・申し訳ありません」

つい、また謝ってしまう。


菅沼は言葉を続けた。

「大変だなあ、史君、ほぼ進学は音大に決まったとは言え勉強はある」

「そのうえ、音楽部、カフェ・ルミエール楽団の演奏会」

「なおかつ注目される、ソリスト」

「周囲の期待も大きい」

「その期待を裏切りたくない」

「疲れ切っていたとしてもね」

「音楽も難しい」

「確か、ブラームスって聞いたけれど、弾けば弾くほど難しい曲なのかな」

「その難しい曲を、史君は、本当に大きな期待を背負って、間違いなくやり遂げようとしている」

「本当に、それは、史君、苦しいこと、やりがいがあっても苦しいことだ思うよ」


史は、この言葉に本当に驚いた。

何より菅沼の言葉は、一つ一つ正確。

史が常々悩んでいることを漏らさず指摘しているのである。



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