第26話アイリッシュ珈琲

三月も中旬というのに、夜の風はまだまだ肌寒い。

午後8時、カフェ・ルミエールの扉を開け、一人の若いOLが入って来た。

やはり、寒いのか顔が少し青い。

ただ、寒いだけではない、何か身体全体に力を感じない。


「はい、お久しぶり、加奈さん」

マスターはOL、つまり寒そうにしている加奈の前に、レモン水を置いた。

どうやら、名前も覚えていることから、マスターとは知己らしい。


「あ、はい、ありがとうございます」

「何か、少し食べるものが欲しいんです」

加奈は、レモン水を少し飲んだ後、メニューを見ている。

「本当に・・・メニューが増えたんですね」

少し驚いている、そしてなかなか決まらない。


「ボリュームのあるものはどうでしょうか?」

「寒そうですし、加奈さんの身体に力を与えるもの」

「グゥの音も出ないような」

マスターには、何か考えがあるようだ。


「・・・そう言われると、おまかせ・・・かな・・・」

加奈は、マスターの目をじっと見る。


「一つだけ条件があるけれど、いいかな」

マスターの「おまかせ」には条件があるらしい。


「え?何・・・」

加奈は首を傾げた。


「全て食べきること、何も考えてはいけない、勝負です」

マスターはニコッと笑う。


「・・・少し怖いけれど、その勝負買います」

加奈は、心を決めてしまったようである。

その加奈を見て、マスターは再びニコッと笑い、キッチンに消えた。



「・・・すっごく香ばしい・・・」

「うーん・・・何だろう・・・」

「お腹減って来た・・・マジで」

加奈は、匂いだけで、空腹を感じてしまった。



「はい、お待たせ」

キッチンからマスターが「勝負の一品」を手に戻って来た。


「すご・・・・」

「ステーキのサンドイッチ・・・」

「パン、バター、お肉、レタス・・・」

「美味しいなんてもんじゃない・・・」

「勝負なんて、どうでもいいや」


マスターが加奈の前に出したのは、ステーキを焼き、サンドイッチにしたものだった。

料理としては単純なもの、しかし、パンも自家製、バターはフレッシュバター、レタスは新鮮なもの、ステーキはニューグランド伝統の焼き方、それに食欲をそそるマスター特製のソースが絡む。


「勝負はともかくね、寒そうだったので、食べやすく力がつくものがいいとね」

「まあ、見るところ、仕事かな、疲れ気味なのではとね、元気もないようで心配だねえ・・・」

マスターは、サンドイッチに夢中の加奈に、レモン水の追加を置く。


「うん、仕事でムシャクシャしてて・・・そういう時はマスターの顔とか、この店に来ると落ち着く、助かったよ、マスター」

「それと昼間は喫茶になったっていってたから、メニューも気になっていたの」

「それにしても、美味しかった、一気に食べちゃった」

「ムシャクシャも忘れちゃった」

加奈の顔に、ようやく赤みがさしてきた。


「そうなると、締めは・・・あれですね」

じっと見ていた涼子が、加奈に声をかけた。


「え?もしかして?」

加奈の顔がついに輝いた。

マスターは再びキッチンに消えた。



「はい、アイリッシュ珈琲」

マスターが加奈の前に置いたのは、確かにアイリッシュ珈琲。

上品なカップの中にホイップクリームと角砂糖を乗せた珈琲である。


「角砂糖にはアイリッシュウィスキー、そして・・・」

マスターは角砂糖にライターから火をつけた。


「・・・きれい・・・」

加奈は、ますますウットリ。

角砂糖から青白い炎が浮かぶ。


「ほんと・・・この一瞬が大好きです」

「マスター、ありがとうございます」

「これで、いい気分で帰ることができます」

加奈は、少し涙ぐんだ。



「ああ、明日から、仕事頑張ってください」

「それから、悩んだ日も、悩まない日も、ここにおいで」

マスターは、やさしく微笑んでいる。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る