戴冠
春が来る前にシオンとスオウは旅立った。
山麓の民の朝は早い。それなのに、もう村人たちは集まっていた。シオンはスオウを見る。ここを出ると言い出したのはスオウだった。
村人たちは食糧と防寒具、それから銅貨を渡してくれた。
前者はともかく、金は受け取れないと渋ったシオンの拳を握らせたのは隣人の娘だった。
「ほら、早く。この子がまたぐずり出しちゃう」
娘の背にはカンナがおぶわれている。普段は大人しいのに、急に癇癪を起こして泣き出すから母親は大変だ。
他の村人たちがくすくす笑っている。シオンは隣人たち以外、ほとんど関わっていなかったのに、みんな家族を送り出すときの顔をしている。
「俺たちは剣を持てない。ここで放棄することもできないし、あんたたちに付いて行くこともできない」
「べつにそんなことは」
望んでなんかない。でも、村人たちはシオンとスオウの素性を知っている。
「宰相はこんな山麓の村なんて見てくれないんだよ。ここだけじゃない。イスカの中心は王城とその周辺だけ。みんな貧しくたって耐えなくちゃならない。いつまでもずっと。このままでいいなんて、誰も思ってないよ」
母親になってから、娘はもっと強くなったように見える。シオンたちを売れば、密告者には多額の報酬が与えられる。ゆうに十年は暮らせるくらいだ。それをしなかったのはなぜだろう。十年後に少女になったカンナが食うに困らずに生きていけるか。答えは否だ。
「重いな」
シオンの背嚢袋には目一杯に詰め込まれている。けれども、村人たちの気持ちはもっと重い。いつかシオンの側女が託した願いとおなじくらいに。
「独りじゃない。おれが、いる」
シオンは苦笑する。相変わらず生真面目な男だ。こっぴどくシオンに振られたというのにまだ傍にいてくれるらしい。いいや、そうじゃない。スオウは獅子王になる男だ。だから、シオンが傍らにいるのだ。今度はもう迷わない。
西を目指すシオンたちに仲間が増えた。
最初は押しかけ女房のようにくっついて、そのうちに二人、三人とつづいた。刺客にしては馴れ馴れしい。十人を超した頃、やっとシオンは気が付いた。スオウだ。彼は逃亡生活のなかで同志を集めていたらしい。いつか訪れるそのときのために。
そうだ、まだ一年がある。
エンジュが成人するまでの時間、たった一年ではなくて、シオンたちがイスカの王城にたどり着くまでの十分な時間だ。
旅の仲間は膨れあがっていく。宰相をよく思っていない者、前の獅子王を敬愛していた者、スオウに恩義を感じていた者と、それぞれだ。
宰相は動かない。小鼠の集まりが騒いでいるとでも思っているのだろうか。そのうちに戦士たちはもっと増えていく。
西の部族が動き出したのは、戦士たちが千を超えた頃だった。
黒馬に乗った二人組を見て、シオンは目を
「ご無沙汰しております、シオンさま」
右手に拳を作り、左手は開いたまま合わす。祈りの動作をする少女は、もう一人前の戦士だった。
「西の部族はいつでも動けます。あとは……スオウさま。あなたの命令があれば、すぐに」
「では、シュロは」
「はい。父は、ずっと待っていました」
笑った顔がシュロそっくりだ。シオンも笑った。
後の歴史に、イスカの解放戦争とも呼ばれる争いが
だが、シオンは良く覚えている。東からはシオンたちが、西からはシュロが、そして北からも戦士たちが集まり、イスカの王城を取り囲んだ。堅牢で知らせる王城をどう攻略するか。毎夜、戦士たちが
斥候部隊に交じって、城内へと侵入するのはシオンだ。
あの男の首を取るのは私だ。カンナとの約束を違えるわけにはいかない。急くシオンの肩をたたくのはスオウ、大将でありながらも一番に乗り込んで行く彼は紛れもなくイスカの戦士だ。
ところが、解放戦争はあっけない幕切れとなる。
玉座へとたどり着くその前、回廊にてシオンとスオウを待っていたのはエンジュだった。
シオンの弟エンジュ。兄たちは殺され、王城から落ち延びたシオンの他に残った姉弟はエンジュだけだった。
イスカの玉座はまだエンジュを王とは認めていない。自らの手で、スオウからそれを
はじめ、シオンはそれが何かわからなかった。
人間の首だと認めたはいいが、腐敗がはじまっていたために、宰相だとは気付かなかった。
「遅かったな、姉者。それから兄者も。そいつは土産だ」
「どういうつもりだ、エンジュ。なぜ、お前がケイトウを」
「俺は、人の手で操られるなんて虫酸が走るんだよ」
まるで、スオウの帰りを待っていたかのように言う。訝しむシオンの前にスオウは立つ。
「おれを、王と認めてくれるのか?」
「ああ、もちろん」
演出にしては出来すぎている。それでもスオウはエンジュを信じた。解放戦争はここで終わった。
長らく王が不在だったイスカにようやく王が立つ。
若者は喜びに沸き返り、
まもなく戴冠式がはじまるというのに、スオウの姿が見えなくなったと近臣たちが騒いでいる。この後に及んで辞退するような男をシオンは選ばないし、見つけ次第その頬をたたくつもりだった。
あちこちを捜し回って半ば諦めかけた頃、シオンはそこへと着いた。
聖堂へとくだる階段は大人一人がやっと動けるくらいに細く、穴を掘っただけの空間はやたらと狭い。土の壁に身を押し付けながら、シオンは一段一段を踏みしめて行く。片手に持つ松明の頼りない光だけを頼りに、途中でシオンは香のにおいが強くなっているのを感じた。ここは先人たちの魂を祀る場所、シオンも入るのははじめてだった。
「長かったな」
スオウの背中に向けて、シオンは言う。彼は応えない。まだ祈りを唱えているのだろう。
「私が、お前を見ていてやる。心配するな。もしも道を誤ったときには、その首は即座に刎ねてやる」
それは寄り添うという意味ではなく、共に歩むという意味だった。その日から二人は本当に夫婦となる。シオン二十五歳、スオウが二十八歳の年だった。
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