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 ――品川大学、港南キャンパス、講義棟9号館、9103講義室。

 キャンパスの一番奥にあるその講義棟の一室で、本日午前9時より、丸一日かけて卒業論文中間発表会が行われている。これまでの研究成果を発表し、ほかの学生や教授たちとの質疑応答やアドバイスをもらう。そして今後の研究に活かすのだ。

 発表会は学科ごと、研究室の系統ごとに会場が異なる。この講義室では、文学系の研究室に所属する学生たちが発表するコトになっている。

「ヒンドゥー教の象頭神ガネーシャは、女神パールヴァティーがおのれの垢から作った人形に命を吹き込んだコトで生まれました。この時点で、彼は人型の頭を持っていました。しかし母に命じられて沐浴の見張りをしていると、父親にあたるシヴァ神が現れ、おたがい親子と知らずに争った結果、ガネーシャは首をはねられてしまいました。あとからパールヴァティーによってそれが息子だと知ったシヴァは、どこかへ飛んで行ってしまった首を探しましたが、結局見つからず、代わりにゾウの首を持ち帰って取りつけたという話です。むろん、それでガネーシャがゾウになってしまったワケではありません。ここで頭部――つまり脳は精神の座だと考えられていなかったコトがわかります」

 大江春泥オオエシュンデイは堂々とした態度で、この日のために用意したレジュメ用の原稿を読み上げる。

 彼のばあい、卒論の初稿はほぼ最後まで書き上げており、今読んでいるのはその要約だ。卒論テーマはフィクション作品――小説、マンガ、アニメ、映画、戯曲、さらに古い神話や伝承などもふくめ――を通じて、死生観の変遷をまとめるコトである。歴史研究などでは、当時の作品に記された描写をもとに、アタリマエすぎて歴史書に残されなかった文化を調べる方法がある。彼の卒論は、これを思想面にも応用したものだ。

「古代中国の名医である扁鵲は、患者ふたりの心臓を入れ替えた結果、彼らの心まで入れ替わってしまいます。ここでは心臓が精神の座、人間の本体と見なされています。このように心臓に精神が宿るという考えかたは、世界じゅうに古くから存在しています。ギリシャ神話においても、ティタン神族によって八つ裂きにされたザグレウスは、その心臓からゼウスとセメレの力で再生され、ディオニュソスとして生まれ変わりました。アステカでは心臓はヨリョトルと呼ばれ、やはり生命と魂が宿ると考えられていました。古代エジプト語でアブは心臓と霊魂を意味し、経血が母親の心臓から子宮に流れ込んで、子供に生命を与えると信じられていたそうです。スマトラ西のニアス島中部から北部にかけての神話によると、ロワランギという神の心臓から人間が生まれたとされています。スカンジナヴィア人にとって、リンゴは心臓と霊魂の象徴であり、クリスマスにブタの丸焼きがリンゴをくわえさせられているのは、もとは死後に再生するためのまじないでした。心臓以外の内臓だと、バビロニア王国では魂は肝臓に宿るとされていましたし、新約聖書に出てくる『憐れに思う』は原語で『スプランクニゼスタイ』といい、はらわたを指す『スプラクノン』が心を意味するようになって動詞化したものだとか。では、脳はどうかというと、古代ギリシャにおいてヒポクラテスやプラトンが脳を精神の座としていますが、プラトンの弟子のアリストテレスは師の教えに反し、心臓こそが精神の座と唱えています。さらにその後アレキサンドリアのヘロフィロスとエラシストラトスは、解剖によって脳室を発見し、そこが心の在処と考えました。しかしその思想が現代まで続いたワケではなく、西洋哲学では精神イコール思考であるという思想が広まる一方、脳や心臓を含めて肉体はさほど重要視されなくなっていきます。1637年にデカルトは『方法序説』において、精神は身体に依存せず存在できるとし、また1649年『情念論』で精神は身体全体に満ちており、どこに宿っていてどこに宿っていないというのは正しくないとしています。1670年パスカルは『パンセ』において、頭のない人間を想像するコトはできても、思考を持たない人間を想像できないと述べています。こういった思想は、フィクションにもよく表れており、例えば1897年ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』でレンフィールドは頭部に重傷を負ったさいに、死ぬより先に脳がダメになってしまうというセリフがあります。また1900年に出版されたL・F・ボーム『オズの魔法使い』に出てくる、頭がよくなりたくて脳を欲しがるかかしや、恋を取り戻すために心臓を求めるブリキのきこり、彼らの精神は肉体に依存せず存在していると言えるでしょう。特にきこりのばあい、生身の部分を徐々にブリキと挿げ替わってもアイデンティティを失わなかった点で、先に述べたガネーシャと通じるものがあります。さて、現代における脳髄至上主義的な考えがいつごろから始まったのかというと、1875年にイギリスの生理学者ケイトンがウサギの脳に電流が流れている事実を発見、続いて1890年にポーランドの生理学者ベックがイヌにおいても同様の現象を観測し、そしてとうとう1929年にドイツの精神科医ベルガーが人間の脳波の計測に成功したコトが、大きな転換点であったと言えます。その影響を色濃く受けていると思われるのが、1935年に刊行された夢野久作『ドグラ・マグラ』であり、“脳髄は物を考える処に非ず”という有名なセリフをはじめ、脳髄至上主義への批判に満ちあふれています。けれども1945年に海野十三が発表した『大脳手術』を読むかぎり、脳髄至上主義は日本にも着々と浸透していったコトが考えられます。さらに決定打となったのが脳不全――脳死の登場です。1950年代に人工呼吸器が発明されたコトによって発見され、当初は超昏睡ないしは不可逆昏睡と呼ばれていました。これが新たな医療として注目されつつあった臓器移植と結びつき、ドナーとして使いやすいよう脳死と改名され、脳が死ぬコトは人間の死と同義であるという認識が蔓延したのです。逆説的に、脳だけになっても生き続けられるという考えを広め、それをテーマにあまたのSFが描かれるコトとなりました。齋藤智裕『KAGEROU』などはその典型と言えるでしょう。とはいえ、脳死を人の死とする死生観が絶対的になったというワケでもなく、例えばサイバーパンクの嚆矢として名高い1984年のウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』には、脳死から復活した男が出てきます。また臓器移植自体によって、脳以外の臓器を精神の座とする思想がふたたび現れました。ドナーの臓器がレシピエントの体内で生き続けるという考えかたです。実際ドナー遺族たちの記者会見などを見ると、まるで判を押したようにそろってこの理屈を口にしています。さらには、移植を受けたレシピエントが見知らぬひとの夢を見たり、趣味嗜好が以前と変わったりする例があり、これはドナーの精神が移植した臓器とともに乗り移ったからだと言われています。ジョディ・ピコーが2004年に出版した『私の中のあなた』をはじめ、臓器売買以外をテーマに臓器移植を扱う作品のほとんどは、このいわゆる“命のリレー”を題材にしている言っても過言ではなく――」

 持ち時間ギリギリで発表を終えて、質疑応答タイムに入る。ほかの学生や教授たちが、卒論のアラを底意地悪くアレコレ指摘してくるのだ。何を隠そう大江自身おのれの番がくるまで、さんざんほかの連中にイジワルな質問したので、どんなに痛い指摘を受けても自業自得である。

 もっとも学生はあまり積極的ではなく、質問してくるのはほとんど教授たちだ。最近の若者はボキャブラリーに欠けると言われているが、それは大学生であっても例外ではない。時間をかけて文章にするならともかく、質問をその場で組み立てて発言するのは苦手なのだ。質問に答えるのもそうで、大江の前まで質疑応答タイムはかなりグダグダだった。

 しかし、大江はおのれがほかの連中とは違うと自負している。

「参考文献に古い日本の作品が少ないように思います。世界をひとまとめに語るのはムリがありますし、もっと日本のものを採り上げるべきでは?」

「そこは自分でも物足りなく思っているところではありますが、死生観が描写された作品を探すにはジャンルの制限がないので、手当たりしだいに調べるしかないのが難しいところです。もちろん卒論そのものでは、ほかにも国内の作品をいくつか引用していますが、ほとんど使える資料が見つかっていないのが現状ですね。ただ海外の作品に関しても、基本的に日本でも有名どころを選んでいるつもりなので、人々に与えた影響という点では日本の作品と区別する必要はないと思っています」

「確かに近代以降の死生観については、それで問題はないかもしれませんね。あともうひとつ質問ですが、あなたの採り上げた文献に最近のものがほとんど含まれていないようですが、現代の死生観は取り扱わないんですか?」

「ごぞんじかと思いますが、まず前提として、ここ十数年は小説の出版が過去例がないほど減少しているのがひとつ。それから最近のマンガや映画などは、具体的なセリフを少なく、見る側に感じさせる手法が増えていて、引用したくてもしようがないものばかりなんです。作中に描かれている場面を文字に起こすコトはできなくもありませんが、それだと引用としては客観性に欠けてしまいますし」

 例えば映画で、心臓移植を受けた主人公の背後に半透明のドナーの姿が描かれているとしよう。それが移植された心臓に宿る魂なのか、それとも主人公のそばに漂う幽霊なのか、ハッキリ名言されない以上判断がつかない。

 むろんその監督に取材してみれば解決するだろうが、たかが大学の卒論でそこまでするほど、大江もさすがに熱心ではない。いや、度胸がないというべきか。

「ほかに質問は?」

「単に現実の死生観が物語に投影されているというだけでなく、物語に描かれた死生観が現実へ与えた影響、さらにそれがまた物語へと循環しているコトにも言及していますが、そこまで踏み込んでしまうのは、若干危うさを感じます。その理屈は、暴力的なマンガが青少年に悪影響を与えるというのと、同じになるのではありませんか?」

 耳の痛い指摘に、大江はとうとう答えに詰まった。「あー……それは何といいますか、解釈が難しいところではありますが、えー、暴力的な描写に影響されて、現実に試してみたくなるのと、描かれた死生観を常識として受け入れるのとでは、ニュアンスがまったく違うのではないかと……」

「まァ、言いたいコトはわからなくもないですが、卒論ではそこのところを、もっとしっかり詰めておいたほうがいいと思いますよ」

「ハイ……」

 しょせんは学部生の卒論だ。最低限、単位が取得できる程度に体裁をつくろえば問題ない。だが、大江はできるかぎり妥協する気はなかった。就活もあとまわしにして、ひたすら卒論に打ち込んでいる。少なくとも参考文献の数に関して言えば、ほかの学生とは比べものにならないだろう。

 なぜ彼がそこまでひたむきに取り組んでいるのか。それはおのれの夢を実現する上で、この卒論を書きあげるコトがかならず役に立つと信じているからだ――こんなご時世に、小説家となる夢をはたすための糧として。

 長い文章を書くコトはもちろん、参考文献を読みあさって仕入れた知識は、小説のネタとしてあまさず使える。現にこの瞬間も、脳髄からアイデアがあふれ出して止まらない。

 今は卒論の片手間ではあるが、新人賞に投稿する原稿も並行して執筆している。卒論が終わったら、本腰を入れて仕上げなければ。

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