第5話 夜の日常
帰宅のために私は一定のペースで走り続ける。体力があるので特に息も切らさず進み続けるが、日が沈むまでに到着できるかが気にかかった。地平線に消えゆく夕日をちらりと見て、並走する縁に問いかける。
「ねぇ、このまま走れば日暮れまでには家に着くよね」
「寄り道しなけりゃあ、余裕だろ」
答えたのは渋い男の声だ。いつも聞いている縁の声。彼は走りながら私を見上げ、にっと笑った。
「焦って本気出すんじゃねぇぞ、桜」
「分かってるよ。縁こそ、外でそんなに喋って誰かに聞かれても知らないよ」
「おめぇが話しかけてきたんじゃねぇか」
もっともなことを言われたのがなんだか面白くて、ふはっと吹き出してしまう。
「優美の前ではちゃんとにゃーって言ってたもんね」
「あんまり頬擦りしてくるからよ、『嬢ちゃんやめな。中身はおっさんだぞ』って言ってたんだ」
縁の言葉に、私は今度こそ大声で笑いだした。はたから見たら変人だが、誰も見ていないので良しとする。
私はそのまま本気を出さず、家に向かい走り続けた。住宅街を抜けて大きい道路沿いを走ると、山を登る道が現れる。車一台が通れるほどの細くて急な道だが、通るのは私たちくらいのものなので整備する必要もない。それに道の入り口を見つけられる者も限られていた。
急な上り坂でもひょいひょい進んで行くと、家の屋根が見え始める。暗い青色屋根と、その左右に同色のとんがり屋根。普段過ごしている家と繋がってそびえる、お城のような塔があるのだ。もう少し進むと、私が暮らす家の全様が見えた。塔がある時点で普通の家とは違うと感じられると思うが、そこは家というより屋敷や洋館と言ったほうが正しい。蔦が絡まり、長い年月を過ごしたことが分かる建物は、人に忘れられたようにうら寂しく不気味さが漂っていた。だが、洋館らしく立派な門からドアまでの百メートル間に迷路のように植えられた生垣には、鮮やかな花々が咲き誇っており、そこに手入れをする住人がいることを伝えている。
「着いた着いた」
門前でギュッと止まり、優しく門を押し開けたがそれでも年季の入ったギギィという音が響いた。縁が横をするりと通ったのを確認してから門を閉める。門からドアまでは遠いが石畳でまっすぐ道になっているので、生け垣の迷路で遊ぼうと思わない限りはすぐに着く。私はもう日暮れも気にせずゆっくり歩いた。
「ちゃんと着いたね」
「余裕だって言ったろ。じゃなきゃ本気出せって言ってらぁ。暗くなって目が光り出したら怖ぇからな」
猫である縁は暗くなると目が光り出す。夜行性動物は夜目が利く証のように暗闇の中でキラリと目が輝くが、確かにそれは一瞬恐怖を覚えるものかもしれない。しかし縁の目が光るのは当然の事象で、問題なのは私の目も同様に光ることである。これは縁が人語を操るのと同じで周囲には気付かれないようにしているので、日没までには家に帰りたかったのだ。
「そうならないように蓮太郎が迎えに来たと思ったんだけど」
置いて行かれた上にショックな言葉を放って行った蓮太郎に恨みを込めながら言うと、縁が「それもあるがなぁ」と言葉を続けた。
「今日は七時から仕事するってぇ話だったろ? おめぇが帰ってこねぇから忘れてんじゃねぇかと思ってな」
「あ」
忘れていた。うちはいつも七時に夕飯を食べるから、それに間に合えば良いと思って遊んでいたのだ。それに仕事はいつも三日おきくらいにしていたし、昨日働いたからすっかり休みの気分でいた。
「もうすぐご飯だと思って楽しみにしてたのに………」
「いつもは夜中にやってっから、メシのおあずけはないもんなぁ。まぁ、今日のはすぐ終わんだろ」
縁が励ましてくれたが、私は明らかにテンションが下がっているのを感じた。とぼとぼと歩いて重いドアも寄りかかるように体重で押し開ける。「おう、帰ったぞー」と縁が言ったので、私も一応「ただいま……」と言っておいた。
と言っても、玄関を入っても誰かがいる空間に出るわけではない。そこには二階分の吹き抜けと豪奢なシャンデリア、赤い絨毯が敷かれている大広間が広がっているのだ。踊ったり追いかけっこをしたりしても充分な広さがあるそこは、残念ながら玄関や廊下としてしか使っていないので人と会うことは少ない。真正面に扉が二つあり、右がリビングで左がキッチンなのでそのどちらかに行けば誰かがいるという感じだ。さらにその扉の左右には階段があり、そのまま奥に進むと各人の部屋がある。ちなみに定員の問題で私の部屋だけは三階だ。
「先に着替えてこいよ。まだ時間あっから」
縁にそう言われたので、私は左側の階段を上って部屋に向かう。二階の廊下は凹の形になっていて、右にはほとんど使われていない縁とここの大家の部屋があり、左側には雪那、蓮太郎ともう一人の住人の部屋があった。左右の廊下の突き当りにはそれぞれ階段があり、三階に部屋のある私はそれを上ってさらに上へ行く。三階の廊下はまっすぐで、そこには二部屋しかなく、私は手前のドアを押し開けた。
元は客間として作られた私の部屋は、高校生には分不相応なほど広い。ドアを開ければソファやローテーブル、諸々の棚や学生らしく机なんかが置いてある居室があるが、奥にはさらにトイレとバスルーム、寝室が続いていた。バス・トイレは私だけでなく各人の部屋にも付いているが、客間の私のそれのほうがやはり広い。一人では空間を持て余して、私は床をゴロゴロ転がることが度々あった。
私は寝室に行って、優美の部屋で披露したように素早く制服を脱ぎ捨てる。仕事があるなら動きやすい服を着ようと思い、タンスからジーンズとパーカーを引きずり出した。それを身に着けてから制服をハンガーにかけ、ワイシャツと靴下は洗面所のカゴにポイと入れる。そうすると知らないうちに洗濯物が回収され、綺麗になったものが部屋に畳まれて置いてあるのだ。犯人は分かっているが、全員分の洗濯を毎日よくやるなと感心してしまう。
私は部屋を出てすぐにキッチンへと向かった。お腹が空いて仕方がないので何か食べられるものを探そうと思ったのだ。大広間から続くドアを押し開けると、夕食の支度をしている少女の姿がある。
「
「おかえりなさい、桜」
手を止めてこちらに微笑んだのはもう一人の住人である純子だ。黒髪を三つ編みにして黒いワンピースドレスを着た純子は、丸眼鏡の奥の瞳さえも炭のように真っ黒な黒づくめの少女である。いや、見た目は中学生ほどに見えるが、純子も昔から全く姿が変わっていないので実は少女ではない。
「おにぎりを作ったので、行く前に食べていって下さい」
そう言って穏やかに微笑み、純子はおにぎりの乗った皿を差し出した。まるまると白く輝くおにぎりが四つ。それを見た私は両手に一個ずつ鷲掴みにした。
「わーい、いただきまーす!」
右手のおにぎりからパクッと食らいつく。お行儀悪いですよ、と純子にたしなめられたので、もごもご言いながら近くの椅子に座った。いつも穏やかで微笑みを絶やさない純子が家で一番怖いのは周知の事実なので、私はめったなことでは彼女に逆らわない。それに家事の一切を担う純子がその気になれば、夕食抜きの刑を下すこともできるので、それだけは避けたかった。先ほどの洗濯物もきっと回収してくれなくなるだろう。
「おいしーい! ツナマヨ好きー」
ぺろりと右手のおにぎりを食べ終わった私は左手に取り掛かった。入っている昆布に歓声を上げながら右手は新たな獲物を掴む。左手を片付け、再び右手のお米にかぶりついた時、不機嫌な声がリビングのほうからかかった。
「おい桜。お前、仕事忘れてたくせに何のんびり食べてんだ」
かぶりついたまま視線を上げると、リビングと繋がるアーチ形の出入り口で壁にもたれ、眉をひそめている雪那がいる。天使のごとく愛らしい美貌は、昼間とは打って変わったしかめっ面で魅力が幾分損なわれていた。
「んー、ひゅひな」
「もの食べながら喋るなよ」
雪那にますますムスッとされたので、私は咀嚼することに専念する。たらこだぁ、と幸せを噛み締めてごっくんすると、一旦おにぎりから意識を外した。
「雪那、ただいま」
「お前俺の言葉聞いてたか」
「うん聞いてた。忘れてたけど間に合ったし、私はお腹が空いてるし、腹が減っては戦は出来ないし」
言いたいことは言ったので私は再びおにぎりにかぶりつく。一気に口の中に押し込めて、最後の一つを手に取った。
「お前な、もし遅れたら俺たちが迷惑なんだよ。仕事の予定くらい覚えておけ。それに日没ギリギリに帰ってくるのも危険だろ」
「余裕だったもん」
「夕日の頃には家にいろ」
また雪那の小言が始まってしまった、と私は不機嫌を表すためにぷくうっと膨れてみせる。雪那はそんな私を見てため息をついた。
「お前はもう少し、狼人間ってことを自覚しとけ」
この言葉に私はますますむくれる。そんなの本人が一番分かってるよ。
私は狼人間として生まれて、五歳の時にここの大家に引き取られてやって来た。それ以前にどこにいたのか、今はもう覚えていない。ここで同居人たちに育ててもらって、すっかりこの家の子になってしまって、野生を忘れた犬のようだと冗談交じりに笑われたことがあった。しかし、狼人間としての能力は衰えていない。身体能力は人間と比べるまでもなく、学校の校庭から屋上までなら軽く飛べるし、電車と競争できるし、リンゴなんて一瞬で粉砕できる。また、嗅覚と聴覚にも優れているおかげで、誰も気づかなかった優美のお母さんのお菓子作りや、蓮太郎の訪れにも気づくことができた。
そして多くの伝聞にあるように、満月を見ると変身する。身体能力がさらに上がった毛むくじゃらの大きな獣人になって、破壊衝動や殺戮衝動に身を任せた化け物になるらしい。私自身はその時の記憶がないから、らしいと言うしかないが。それにこの家の敷地内なら満月を見ても変身しないので、私が危険だということは分かっていても、どのようなモノになるのかは知らなかった。
それに、ここでは獣人の能力を求められているわけではない。ここの大家が私を連れてきたのは、普段の私の力を使って仕事をしてもらうためだった。この洋館の住人は全員、人間ではない。魔物や怪物、妖怪などと呼ばれる、人間から隠れて暮らしている者たちだ。そして同様に、人間たちに気取られず暮らしている者たちを脅かす人間を排除することが、私たちの生業だ。ただ脅かして追っ払うだけだったり、闇に葬ったりと手段は様々だが、今夜は前者である。
いつもは夜中に行うことなのに、今回は時間指定があったために雪那に小言を食らう羽目になってしまった。確かに満月の夜に外に出れば危険だし、目が光り出すほど暗くなってからも避けたほうがいい。しかし、私と同じ夜目が利いて目が光る縁や蓮太郎は夜に出かけている。少しずるいと思った。
と、ここでふと気になることがあって雪那と目線を合わせた。
「ねぇ、雪那は?」
「は?」
「雪那みたいな魔法使いは、バレないように制限してることないの?」
急な質問に可愛い顔できょとんとした雪那は、小言を言っていたことも忘れてしばし考え込む。その隙に私はおにぎりを頬張った。肉が入っていて豪華で嬉しい。
「人前で魔法を使わないことくらいかな」
「あー、ほら、やっぱり」
私はビシィッと雪那に指を突き付けた。雪那が訳が分からず怪訝な顔をする。
「なんだよ」
「私ばっかり制限が多いじゃん。ずるいと思いまーす」
「狼人間と魔法使いじゃ違いすぎるから、仕方ないだろ」
「じゃあ女子高生とオジサンじゃ違いすぎるから、遅くまで遊ぶのは仕方ないと思いまーす」
「誰がオジサンだって?」
再び雰囲気が剣呑になり、お小言を食らうかなと思ったが、純子のくすくすという笑いがそれを遮った。夕食の準備をしている背中が震えている。
「なに笑ってんだよ純子」
「ふふ、仲が良くて親子みたい、なんて言ったら怒りますか」
「お前もオジサン扱いかよ」
「三百年しか生きていない方に、そんな扱いしませんよ。すみません、親子ではなく兄妹ですね」
そう言って純子はいったん手を止め、笑顔で振り返った。
「桜も分かっているし、もういいじゃないですか雪那さん。鬼の私も特に制限なく暮らしているのに、遊びたい盛りの桜に制限があるのは大変だと思いますし」
「今日の仕事は忘れてたけど?」
「間に合ったからいいでしょう?」
ニコニコしながら純子に言われて、雪那も毒気を抜かれたのか「分かったよ」とため息をつく。純子は怒ると怖いけどやっぱり優しいなと私は内心感謝した。最後のおにぎりを全て胃に収めて立ち上がる。
「よし、食べてエネルギー補給も完了。いつでも行けるよ、雪那」
「ああ、じゃあ……いや待て、蓮太郎はどこ行った、お前を迎えにいったんだよな?」
「蓮太郎は清加を駅まで送るからって乗せてったよ。おかげで私は縁と走って帰ってきた」
また少し不満を滲ませながら私が言うと、雪那は呆れた顔を作った。
「あいつ何してんだ、まさか食うつもりじゃないだろうな」
「え、ま、まさか。いくら何でも私の友達には手を出さないでしょ」
「あいつ根っからの女好きだけど」
雪那の言葉に私は殴られたような衝撃を受ける。無口で無表情でそんなことには興味のなさそうな蓮太郎が根っからの女好きとは知らなかった。もしかして清加を見て気に入ったから連れて行ったのだろうか。想像しただけで冷や汗が出てくる。
「さ、清加、大丈夫かな。電話してみようかな」
私は慌てて立ち上がろうとしたが、キッチンに入ってきた縁の笑い声に阻まれた。
「あっはははは! 女好きの吸血鬼でも理性はあんだろう。ちったぁ信用してやれや」
「ほんと? 大丈夫かな、清加。血ぃ吸われてないかな?」
「あいつはどっちかってぇと、スレンダー美女が好みだからなぁ」
清加は太っているわけではないがスレンダーではない。そうか、好みからは外れているのかと少しホッとしたが、不安が完全に拭えたわけではなかった。詳しくは知らないが、聞いた話によると吸血行動は『なんかエロイ』らしい。蓮太郎が女好きと知った今では不安要素しかない。
早く帰ってこないかと落ち着かなくなったとき、蓮太郎のバイク音が耳をかすめた。同じく聴覚の鋭い縁も気づいたようで耳がピクリと動く。
「ほれ、帰ってきたみてぇだぞ。行って聞いてこいや、大丈夫だろうがな」
「うん、そのまま仕事に行ってくるね。早くご飯も食べたいし、頑張って早く帰ってくる」
「お前は今回、ただの見張りだけどな」
「え、じゃあ私いらない? ご飯食べてていい?」
「バカ」
そんな雑談をしながら私たちはすっかり暗くなった外へと出た。自分では分からないが、周りがよく見えているのでおそらく目は金色に光っている。遠くでヘルメットを外す蓮太郎が見えた。彼の目は鮮やかな赤に光っているのが見える。清加を無事に送り届けたか聞かなくてはと思いつつ、私たちは今宵も人間退治に繰り出したのだった。
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