18.ハルは気が付いた


「……信じられない」


 目を覚まし身の回りの風景を見て、私はひとりごちた。

 

 見た事のない部屋。

 綺麗な白い壁。小さな窓と、淡い黄色のカーテン。

 私がいるのは四柱の天蓋がある大きなベッドで、シーツも仕立てのいい手触りが心地いいものだった。

 いつも私がいる部屋やベッドとは全く違う、見知らぬ場所。


 ――――私、本当に誘拐されたんだ。


 その現実を呑み込むまでに時間がかかった。地味にショックを受けていたんだと思う。


 寝ている間に何か変な事をされてないかと自分の身体を見下ろしたが、着ている服はそのままだし乱れた所もなかった。それだけが唯一の救いと言っていいかもしれない。

 念のために扉や窓などが開かないかと試してみたものの、それは無駄に終わった。


 ここはきっとデヴォンの持ち家。愛人を囲う為の檻。

 私はこのままあいつの愛人としてここで暮らしていかなくてはいけないのかもしれない。


 なんて事だろう。

 ここに来てデヴォンがこんな事をするなんて。

 確かに前回会った時に『力づくで』という不穏な言葉を口にしていた。でも、私はそれを真面目に捉えていなかったのだ。危機意識が足りなかったと今では思う。


 今更後悔したって意味はない。

 大事なのはこれからどうするか、なんだろう。


 でもこの身体をベッドから再び起こす出来ないのは、今は何も考えられなくて動きたくもないからだ。

 目頭が熱くなって目から涙が零れ落ちそうなのは、きっと自分の無力さを痛感して悔しいからだ。


 ――――私、悔しいよ。……グレイさん。


 目を閉じて、いつも隣にいた彼を思い浮かべる。

 もう会えなくなると思うと、酷く胸が苦しくて涙がまたボロリと零れ落ちた。



 それからどのくらい経ったか。

 ひとしきり泣いて身体が軽くなったのか動くことが出来るようになった頃、部屋の扉が前触れもなく開いた。


「やぁ、おはよう。俺のお姫様」


 背筋をも凍らせる臭い言葉を吐いて部屋に入ってきたのは、誘拐犯だった。



「さぁ、遠慮する事ない。たくさん食べたまえ」


 デヴォンに連れられて来たのはこの家の中にある食堂で、誰が用意したのか食卓いっぱいに料理が並んでいた。肉や魚はもちろんの事、サラダや前にグレイさんが食べておた短いパスタみたいのも、アフターヌーンティースタンドに乗ったデザートまである。

 デヴォンと向かい合わせで座らされた私の前に、メイドの格好をした女性がカトラリーと皿を置く。『何かお取りしますか?』と聞かれたけれど、首を横に振って断った。


「全部食べてもいいんだよ。お腹空いただろう?」

「私、ちゃんと断りましたよね。あなたの愛人になる気なんてさらさらないって。それは今も変わっていないんですけど」


 膝の上でぎゅっと手を握ってこの状況に対して抗議をした。

 お腹? そんなの空いたに決まっている。でもそんなのは二の次だ。


「帰してください、今すぐ」

「いいじゃないか。まずは一緒に食事をしてこれからの事を考えよう」

「これからの事って……。そんなのあなたと話し合うつもりもないし、ここで食事をする気もない! 帰して! 今すぐ!」


 だんだんと気が立ってきた私は、椅子から立ち上がって叫んだ。

 でも、立ち上がる事も赦さないとばかりに、隣にいたメイドが私の肩を掴んで無理矢理椅子に座らせた。そして魔法か何かなのだろう。黒い影のようなものが私の腰に巻き付いて身体を椅子の上に固定してしまったのだ。

 動けない。立ち上がる事すらもままならず、逃げられなくなってしまった。


「食事、美味しいよ。評判の店のシェフを特別に雇って君のために作らせたんだ。無駄に体力を使わずに今は大人しく座ってお食べよ」


 すでにデヴォンは食事に手を付けていた。バスケットからパンを取りそれを食べている。


 確かにここに並んでいる料理は美味しそうだった。あのカヴァニュー・トレに匹敵するくらいに食欲をそそるものだ。あのパンなんて、イーゼルのところの固いパンとは全く違う。バターの芳醇な香りがしてとても柔らかそうだった。


 ――――でも、私は何故か食べたいと思えなかった。


 お腹が空いているし、美味しそうなのに。

 それなのに味見すらしようとも思えない。


「さぁ、ハル」


 食べるのは好き。

 元の世界にいた時から好きだったけれど、最近はまともにご飯を食べられるようになったせいか以前よりも食に貪欲になった。

 毎日仕事終わりを楽しみにしているし、何を食べるか考える時間がとても好きだった。あとどのくらい通ったらお店のメニューを全て制覇できるかとまで考えた事もある。

 好きなものを食べて笑って話をして、私が人間でいられる時間。

 それが何よりも愛おしくて、尊いものだと思っていたんだ。


 でも、今それを拒絶している自分がいる。

 こんなもの食べるくらいだったら、以前のパンだけの暮らしの方がいい。


 ここでこれを食べる代わりに外に出られないのであれば、一生食べなくてもいい。


 この世界は私にとっては最悪だ。

 ここで閉じ籠っていれば煩わしいものと向き合わなくていいし、外に出るより人生楽だろう。


 でも、私は、私は……


「……いらない。食べたくない」


 私はここに来て初めて知ったのだ。


 もう、私がただ食事を楽しみにグレイさんと共に店に行っていたわけではない事を。


 グレイさんと一緒だったから。

 グレイさんが私と友達になりたいって言って、グレイさんが私に優しくしてくれて、グレイさんが私のこの閉じ籠ってしまった心を少しずつ外に出してくれたから食事が美味しかった。

 だから生きづらかったこの世界で、私は前向きに考えられるようになった。


 ――――全部、グレイさんがいたからだ。


「私、……帰りたい」


 そして、グレイさんに会いたくて仕方がなかった。


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