第140話 昔、男ありけり

いま私が見ているのは、天女なのか?


と業平を錯覚させたほど、その女人は美しかった。


笹垣に囲まれた民家の縁側に腰掛け、休憩している旅装の女の抜けるような白い肌に金褐色の髪。


そしてふと午後の秋空を見上げる彼女の、晴れた空のような明るい青色の瞳に業平はたちまち心掴まれた。


よく見ると白髪混じりで目尻と口元に皺が寄ったおそらく四十越えの年増だが…そこがいい。


齢十八ながらも日常茶飯事的に恋をし逢瀬を楽しむこの若い貴族は閨でされるがままの若い娘よりも経験豊富な熟れた女のほうを好む傾向にあった。


もう相手のことしか見えない業平は笹垣の隙間に分け入ってよく手入れされた庭を眺めていた女に向かって「もし…」と声を掛けた。


怪訝そうな顔でこちらを向いた女に業平は、先ほど積んで来た白い野菊を差し出し、


「垣間見であまりにもお美しい貴女に魅せられてここまで来てしまいました…

率直に申し上げます。

貴女は仙界に住まう天女のようにお美しい。務めに疲れた私の心を癒してくださる生ける菩薩。


我が名は在原業平。どうか心寂しい私を癒して下さいますか?」


と歯が浮くほど褒めちぎった後で帽子からはみ出した前髪をかき上げ、自他共に甘く美しいと認めるかんばせを見せつける。


大抵の女は美しい貴公子に言い寄られた事実に陶然とし、では三日後の夜にとか。明日は夫が宿直ですのでと必ず色良い返事をくれるのだが今回ばかりは了見が違った。


「このお方は誰です?おばあ様」


といきなり女の脇から出て来た四、五才くらいの女の童の問いかけと汚れなき瞳と、

「と、まあ私はこのような媼ですので…」という相手のやんわりとした拒絶で、


今回は不首尾だ、撤退しよう。


と思って踵を返そうとした時、


「もし、そこの貴人の若様。我が妻に何のご用で?」


と背後から声をかけられ同時に両肩を押された。それはまるで足が地にめり込むかという程の物凄い力だった。



「知らなかったとはいえ…いくらなんでも私の母を口説こうだなんて、色好みにも程がありますっ!」


と志留辺が主の業平をきつく叱り業平も今回ばかりは反省して「此度は私の浅はかさでお前の両親ふたおやに迷惑をかけてしまった。済まない」と素直に謝った。


志留辺の母シリンが入京してすぐ娘の嫁ぎ先の家で寛いでいたところに色の誘いをかける不審な貴人がいたので夫の騒速が捕らえ、氏素性を訊ねると相手がかつての主、阿保親王の子息業平王(今は臣籍降下)であった事に夫婦はいたく驚いた。


「お暇を頂いた時はまだ赤さまでいらしたのにこのようにご立派に成長なされるとは。なるほど、お顔立ちはお父上譲りなんですねえ…」


と騒速はしげしげと業平の顔を見つめ、シリンも


「業平さまの産着を縫ったこともおむつを変えた事もよーく覚えていますわよ」


と十八年前、ここ阿保親王邸から去る前に生まれた赤子、業平の世話をした事を嬉しそうに語る夫妻の前で乳母だった女人になんて事を。ときまり悪そうにする業平であった。


「とにかく騒速、また会えたな。お互い年をとったか?」

「なんのなんの、我も兄者に会えて嬉しい」


とがっしり両手を握り合った賀茂素軽五十才と賀茂騒速四十九才。


かつて兄弟あにおとうとと呼び合いながら葛城山の前の首領タツミの元で修行を積み、山を降りてからは見聞を広めるため阿保親王の従者として仕えた二人だった。


実に三十年ぶりになる素軽と騒速の再会を前に阿保親王は、まさか騒速の息子と素軽の娘が結婚してこうして内祝いの宴で我らが再び会えるとは!


生き存えているといいこともあるものだ…としみじみ人生に感謝した。


政変以来自分を責め続け、出仕しなくなって病がちになりもうここらで死ぬが子らの為ではないか。とまで思い詰めていた自分の元に、


弟の高岳も含め人生の知己であるみんなが集ってくれた事に親王は心から喜び、志留辺と河鹿の為に開いた宴で自らも晴れの衣に着替え、若い二人の為に琴を演奏しながら祝いの絃歌を贈った。


「聴いてるか?志留辺」

「ええ、ええ!艶のあるとてもよいお声です」


酒を酌み交わす主従は久々の親王の吟詠に聞き惚れながら杯を交わし、涙を浮かべた。


めでたい宴の翌朝、

「行ってらっしゃいませ、殿…」

と新妻河鹿に見送られて馬に乗る志留辺を

「実に見がいのある光景よ」と冷やかしながら業平は兄行平と同じ御車に乗り込み、宮中へ向かういつもの一日が始まる。


職務上護衛として仁明帝に侍り朝儀から始まり謁見、政務と予定通り進んでいく日課の中、出仕する貴族たちの顔ぶれを見ながら業平は考える。


さて、この宮中で皇族の血を引きながらも皇族でなく、藤原でも源氏でも無い私は一体何なのだろう?


ふた月前の政変で邪魔者を排斥して以来、増長を隠さなくなった藤原北家。


それを牽制する右大臣、源常さまはじめお父上である嵯峨帝自らが英才教育を施して育てた派閥である嵯峨源氏。


帝の外戚でありながらも后を一人出しただけで人事を掌握することもできず政変以来勢いを失った橘氏。


いつも舎人たちに守られ、生まれながらに地位と出世を約束されている親王さまがた。


どの派閥にも属さない私を宮中の貴族たちは気さくに声を掛けてくれて可愛がって下さるが…


それは所詮、かつての政変の負け組平城帝の孫でありなんの脅威にもならない存在だからだ。


という宮中での立場を自分でも分かっているつもりなのだが…


この頃ふとした事で鳩尾に深く穴を開けられたような虚しさに襲われるようなりそれは狩りをしても宴に興じても消える事が無い。


この感覚の正体は何だ?



勤めを終えて帰宅し、父の看病のために滞在してくれている叔父の高岳親王に相談してみると、


「それが虚無というものだよ、業平」と答えてくれた。


「人間ある程度生きていると自分一人が何をしても駄目だという絶望に苛まれ、虚無の穴が空く。その穴は現世のどんな楽しみを極めても埋まらないものなんだよ」


「では、どうすればいいのですか?叔父上。今こうしていても虚しく苦しいのです」


と胸を押さえる業平が縋るように聞くと高岳は


「心に空いた穴はねえ、やはり生涯かけて自分で埋めていくしかないんだよ、業平。私はその為に仏門に入った」


と数珠をかけた手でそっと甥の背を撫でてあげた後、祈祷の言葉を唱えながらぽん!と叩いた。そうされただけで澱んでいた暗い想念が吹き飛ばされ、心がじんわりと温かくなる。


「凄い…これが密教の力?」


「お前に嫉妬する者たちの念を祓っておいたよ」


とこともなげに言った高岳は甥の顔貌を見てなるほど、この美しさではねえ…と思いながら、


「嫉心を買いやすいお前は宮仕えに向いてないから出家して私の弟子にならないか?生きる苦しみが多少和らぐよ」


と割と本気で甥を勧誘したものの、


「女人を抱けない人生は嫌です」


と即答され、高岳は「言うと思った」と肩をすくめた。


承和九年の秋から冬にかけての一月半、業平は色の遊びもやめ勤めを終えると真っ先に帰宅するようになった。


「兄上のお体には病の兆候は無いのですが…生きる気力を失っておいでです。ご家族の誰でもいいので兄上の側に居てあげて下さい」


という高岳親王の見立てで正妻伊都内親王と兼見王を始めとする八人の子らが交代で連日阿保親王を見舞うようになった。


とりわけ修験者の頭、素軽の得物を持たぬ体術と元エミシの戦士騒速の棍棒を使った剣術による志留辺と業平への苛烈な鍛錬を見ることは元々武芸者だった阿保を楽しませた。


かしん!かしぃーん!と直刀に見立てた棍棒で打ち合い、押し合い、鍔競り合う騒速と志留辺親子の激しい稽古に血が騒いだ親王は「棍棒を貸してくれ」と騒速に頼んで庭に降りて「久々に稽古をつけてやる」と業平に対峙した。


「いいか?お前の剣に勢いが足りないのは足腰の踏ん張りと姿勢が疎かになりがちだからだ。直刀の本当の振り下ろしは、こうだ」


棍棒の両端を持って構える業平の頭上にびゅっ!と音を立てて父の渾身の斬撃が降ろされ、それは構えていた棍棒をへし折り息子の額の一寸手前でぴたりと止まった。


「覚えておきなさい」

「は…」


へし折られた棍棒を握る両手がじんじん痺れている。


まさか、父にこのような膂力があるとは知らなかった業平は騒速に棍棒を返し「無理をしてしまった」と疲労して縁側に腰掛ける阿保親王を見つめながら


全身を冷や汗て濡らし畏怖で震えた…


そういえば三十三年前のあの夜、


嵯峨帝を弑せんと夜御殿に向かう暗殺者たちを一番多く屠ったのは、長さ五尺の鉄棒を振り回し一撃で三人もの頭をかち割る阿保親王さまであった。


その活躍を背後で見ていた騒速は荒ぶる本性をひた隠しにし、今ようやく我が子に技を伝える事が出来た阿保に、


良かったですね、親王さま…と俯いたまま涙を滲ませた。


それは小雪が舞い落ちる日の午後。


ここ数日間調子が良いようで火鉢を抱えて素軽と騒速と談笑していた阿保親王はふつっと傀儡の糸が切れたように床に倒れた。


人生で最も信頼している男たちに両側から抱えられながら残りわずかの力で交互に左右の二人を見ると、


「思い出すなあ…素軽が放り投げた瓜を騒速が投げた短刀で突き刺した曲芸を。あれがお前たちとの出会いだった…」


旧都平城京の広場に集まった雑事師たちが繰り出す芸事の中で一際人気だった少年二人の曲芸に当時十七才の阿保は、一目で惹きつけられた。


空高く放り投げられた黄色い瓜が単刀に貫かれ、迸り出た果汁が陽光を受けて煌めく様に生まれて初めて生の煌めきを見出したのだ。


その光景を思い出しながら阿保は目を閉じ、


「生きる喜びを教えてくれてありがとう」


と感謝の言葉を述べ、共に青春の日々を過ごした従者の腕の中で息を引き取った。


承和九年十月二十二日(842年12月1日)


阿保親王薨去、享年五十一才。


その人柄性格は謙譲で控え目であり、文武の才を兼ね備えながらも父平城帝が起こした政変で敗れて政治の中枢から離れて過ごし、五十越えてまたもや政変に巻き込まれ自分を責めながら命を擦り減らし、そして逝った。


葬儀には阿保親王の人柄を偲んで多くの弔問客が集まり、仁明帝に遣わされた使者によって使わし皇親こうしんに対して与えられた最も高い品位である一品を授けられた。


おお…一品親王いっぽんしんのうとは政変を未然に防いだ功績ですな。


と貴族たちのどよめきの白々しさに業平は、


実際は何もしていない父を政変に巻き込んで間接的に死に追いやった為政者の後ろめたさを感じた。


急な増位も次々積まれていく弔問の品も結局死なせた相手への糊塗ではないか。


身分の高い弔問客らの悼む言葉を受けながら、


ああ…こんな奴ら疾く帰ってくれればいいのに。と思った時業平は自分の虚無感の正体に気付いた。


「父を死に追いやり、心から尊敬できなくなった主に臣従しなければならない苦痛。それが私の虚無の正体なのです」


葬儀の七日後の夜、業平はこっそり訪ねてくれた小野篁にだけ己が胸の内を明かした。



篁は業平の両肩に手を置き、


「そのような相手に毎日侍り、警護しなくてはならない務めの日々は辛かっただろう…だが、宮中ではそのようなそぶりを微塵たりとも見せてはならないよ」


と優しく諭すと「では、どんな心持ちで宮仕えしなければならないんですか?私の心はもう破れそうだ!」


と泣きながら問う業平に篁は何事かを企むような笑いを浮かべ、


「いいかい?これから話すことはね」


と島帰りの彼なりの処世術を伝授した。


吐く息も白くなった冬の深夜のことである。


約束通り今宵、あの方は来てくださるかしら?


ある貴族家の姫が夜着の上に香を焚きしめた単衣を重ねて恋文の相手を待っていた。


女房たちは単衣を何枚も被って身を寄せ合い、すっかり眠りこけている。


やがて手引き役の女房と共に部屋に入って来た貴公子が帳張をたくし上げ、

「あなたの歌が美しいので来てしまいましたよ」鼻梁整った顔立ちに艶のある目でじっ…と姫君を見つめる。


そうされただけで姫君の心は蕩け、


「お会いしとうございました」とため息をつく姫君の顎を持ち上げ、


ふうむ、噂通りなかなかの美人だな。と検分した貴公子は「凍てつく中を危険を省みず来てしまいました。ほらこんなに手が」


と相手の夜着の襟元に手を滑らせて慣れた手つきで乳房に触れ、首筋に舌を這わせる。


あまりの心地よさに体の芯が痺れ、貴公子の首に抱きついたまま脱力する姫君の衣を一枚一枚丁寧に脱がせる業平は、


「だから貴方の肌で温めて下さい」


と姫君の耳元で囁いてから白く肌理細かい背中に手を回して撫でさすった。


自分のからだの下で喘ぐ姫君を冷ややかに見下ろしながら事に及ぶ業平は、


篁どの。


「面従腹背でいるのも宮仕えのあり方。そうでもしなければまつりごとの理不尽に耐えられないからね」


という貴方のお言葉に従ってみたら平静な気持ちで帝のお顔を見る事ができました。


なれど


己の心の虚無を埋めてくれるのはやはり女人の柔肌。


その中でも貴種の姫を選りすぐり、床にねじ伏せて啼かせる。


それが私の面従腹背。


生涯を数多の女人との恋に捧げた昔男、在原業平。


彼の女性遍歴は、政変で理不尽に父の命を奪った権門への反骨心から生まれた。





















































































































































































































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