第121話 猿女の里

この日、宮中医官の和気真菅わけのますがとみに忙しかった。


なにしろ嵯峨上皇から内密の命で四軒もの患者の家を往診して回ったのだ。


「彼らに怪我をさせたのは私の責任でもあるので必要な薬あれば遠慮なく申し付けよ」


上皇さまから鷹狩の仔細と顛末を聞かされた真菅は、


「我が知る中では『あれ』が一番効くかと思われますが高貴の方に使ってもようございましょうか?」


と最近やれ殺生禁止だの鷹狩は野蛮だの再び坊さんの意見が強くなってきた抹香臭い世の中でこれはさすがに誰でも顔を顰めるだろう、と思われるある膏薬の名を上げ上目遣いで上皇さまを見る。


「…ああ、確かに『あれ』は怪我人には最上の薬である。よい、我が許す。疾く患者の処へ行くのだ」


と悪戯っぽい笑みをお浮かべになられた。


医者が複数の患者を診る優先度は重症度の高い方からと決まっている。


先ずは棍棒で胸に打ち込みを喰らった巨勢清野。床に仰向けになり衿を開いた彼の胸板には真一文字にくっきりと青痣が浮かんでいた。


肋骨が折れていないかの触診。肺腑に影響がないか何度か深呼吸させての聴診の後で、


「ようございました、打ち身以外に傷はございません」

とほっとする真菅の下で清野はそうか、と鷹揚にうなずき、

「流石は蝦夷の戦士の本気の打ち込みだったぞ」

と怪我されられた身にもか関わらず何故かうっとりと天井を見上げている…


そのような患者の心持ちなぞ無視して真菅はおむろに布で鼻と口を覆い、「では処置を行わせていただきます」秘伝の膏薬の入った壺の蓋を開けた。


「う、うわ…医官どのそれは」


うわあああっ!!


と普段痛いときも絶対痛いとは言わない我慢強い清野の、叫びとも吐き気ともとれる悲鳴が邸内に響いた。


「では、この膏薬を毎日塗って十日程じっとなさってくださいませ」

と鼻をつまんだままそそくさと退出する真菅。


後に残されたのは胸全体に脂をべったりと塗布され強烈な臭いに悶絶する清野と、外傷の治癒には最速の効き目がある馬の脂(馬油ばーゆ)が詰まった壺だった。


真菅はその調子で全身に蚯蚓腫みみずばれを負った葛井親王と文屋巻雄にも馬の脂を塗って処置して患者から顰蹙を買いながらも、


「上皇さまの命で今の所最上のお薬で治療を受けるあなた様方は果報者なのですから」


と覆い布の下でしおらしく言い訳を述べながらも、相手が痛がっても塗布の手を緩めなかった。


最後に阿保親王邸に住まう騒速そはやの左の腰背部から臀部にかけての打ち身の治療を終えてから、

「いやあ、流石は蝦夷の戦士。素晴らしいしりをなさってますねえ…この足腰で裸馬を乗りこなせるのか」

と筋肉で盛り上がったソハヤの臀部をためつすがめつ見つめ、

「や、やめて下さい、そんなにけつをじろじろ見ないで下さいよ…」

と患者、賀茂騒速はうつ伏せ寝の姿勢で恥ずかしそうに呟いた。


「ともかく上皇さまが許可なされた治療法であなた方、十日ぐらいで起き上がれますよ」


そう云われて騒速は


「葛井と巻雄は二十日くらい、清野は半月くらいで」


と清野たちと仕合う前の上皇さまのお言葉、


つまりその日数で完治する位は痛めつけて懲らしめてやってもいいぞ。


という意味の嵯峨上皇の指示を思い出し、

最初は弟君やまだ十五の少年に対して容赦無い仕打ちだ。

と思っていたがこうして密かに最高の医術を持つ和気真菅どのを派遣して下さるんだから。


上皇さまの中には好戦的な荒ぶる魂と慈悲心両方が備わってらっしゃるのだな。と思わずにはいられない騒速であった。


果たして真菅の言うとおり十日程で痛みが引いて起き上がれるようになり、

これで四、五日以内には務めに復帰できる。と思って久しぶりに家族団欒で朝餉を取っている時だった。


庭の茂みががさごそと蠢き中から巨大な黒い馬が現れぬっ、と騒速一家の前に顔を突き出したのである。


妻のシリンはきゃああっ!と飯櫃めしびつを抱えたまま腰を抜かし、騒速と息子二人が「何奴!?」と慌てて汁椀と柄杓持って身構えるも馬はじいっ…と親子を値踏みするように見比べ真ん中にいた長男、甲斐の頬をいきなりねぶりあげる。


それだけで

この馬、ちゃんと人間を見てやがる!

と騒速は思った。


息子二人にはいつか自分の家族を守れるように、と何年も前から体術を仕込んできたが長男の甲斐は心優しくて人を傷つけることを嫌がり戦いには向いていない。


「は〜っはっはっはっあ!驚かせようと思って馬のまま入って来てしまったんですが…あれ?ちとやりすぎましたかな」


と馬上の小野篁はやっと一家の殺気立った様子に気づき、後から邸内に入って来た空海が


「ええ年こいてなんて非常識なことするんやっ!」


とこの年、巡察弾正じゅんさつだんじょう(監察、警察の業務)に任ぜられた若き官吏に一喝を浴びせた。


「親子揃っているようでちょうど良かった。ちょっと騒速どのと次郎君を借りていきますぞっ!」


馬から降りた篁は阿保親王に用意してもらった馬に騒速と空海を乗せて、自分の愛馬である青葉の上に次男の志留辺を乗せて跨がりニ頭の馬は親王宅から走り去ってしまった。


「な、なんなのよもう…」

まるで青いつむじ風が舞い込んだような騒ぎの後、シリンはそうつぶやくしかなかった。


その昔、混沌とした地上を治めるために高天原から天つ神々の一行が天降りしようとした途中、あめ八衢やちまた(道がいくつもに分かれている所)に立って光り輝いている神がいた。


その神の鼻の長さは七咫ななあた、背の高さは七尺ななさか、目が八咫鏡のように照り輝いている異形であった。


天つ神を代表して天之鈿女命あめのうずめがその神に名を問うた。


「そこの国つ神よ、名は?」

「わが名は猿田彦。天つ神御一行の案内をつかまつる」


天つ神らが無事に地上に着くと、主の邇邇芸命ににぎのみことは天之鈿女に、

「その名を明らかにしたのだから、猿田彦神を送り届けてその名前をつけて仕えるように」と言った。


そこで天之鈿女は猿田彦と結ばれ「猿女君さるめぎみ」と呼ばれるようになったという。



「それが私の母の一族である猿女君の由来です…ほら、着きましたよ!」


都から離れて半時ほど馬で走った辺りの長岡京跡近くの平地にその里はあった。


里は集落全体が頑丈な木柵で覆われ、中食ちゅうじきの支度であろうかいくつかの家屋から煮炊きをするための煙が立ち昇っている。


「おばあ様ぁ、篁です。言われた通りの方々を連れてきて参りました!」


馬上から声を張り上げる篁の呼応するかのように大きな門扉が開き、

馬から降りて門をくぐった一行を出迎えたのは…


「お帰りなさい篁どの、そして客人の皆様。私は長の一の娘。猿女はあなた方を歓迎いたします」


とまずは篁の伯母である女性が笑顔で挨拶し、彼女の四人の妹、そして彼女らの娘、そのまた娘…と里に住まう二十三人の女たちが自己紹介した。


驚いたのは彼女たちが大人は平均六尺(約180センチ)、子供は十を越えたら五尺(150センチ)と全員長身なことで、


なるほど、篁どのの長身の理由はこれか。と客人たちをすんなり納得させた。


「外の護衛以外は男はんがいないようですが」


彫りの深い美人だが性格のきつさが目元に出ている篁の一の伯母はちらり、と空海を見ると、


「当たり前です」と傲然と言い切った。


「我ら猿女君は猿田彦大神と天細女命の血を引く、この国で最も古い巫女の一族」


「代々女が長を務め、女たちで血を受け継ぎ巫覡ふげきの務め果たして来ました」


「伊勢の猿女も稗田(奈良県大和郡山市稗田町)の猿女もそうしてきた」


「女だけでほとんど事足りる一族に男なぞ、護衛か子種しか役に立たないわ」


と、篁のニの伯母、三の伯母、四の伯母、五の伯母が次々と言葉を次いで客人たちに説明し、ほっほっほっほっほ!と古風な巫女装束の袖で口元を覆って笑った。


なんだかとんでもない所に呼ばれてしまったようだな…


空海と騒速親子は猿女たちの肚の底を探るような視線の中こころもち身をすくめながら通り抜けて行く。


童たちに聞こえない所で空海が


「たしか猿女君は小野氏の妻になったと聞いておりましたが」


と聞くと一の伯母は、


「あれは優秀なれど落ちぶれていた小野氏の男が猿女の領地を欲しがり、次代を担う女子を産むための子種を欲しがっていた猿女との契約結婚。嫁いだ気など毛頭ありませんから」


と当時のことをなぜか目元を赤くしながら語った。


「これは父の岑守から聞いた話なんですがね」


と背後から篁がさらに声を潜めて二十数年前に行われた猿女君と小野の婚儀の内容、


それは明かりも無いねやで長の娘たちが裸になって小野の男たちにのしかかり、月のものが来なくなるまで子種を絞り取り続ける。

といった凄まじい行為であったそうな。


「既に好きあっていた母の六の君と父岑守は婚儀の直前に駆け落ちして里から逃げ出しましたので仔細は知りません。が、ふた月後に猿女から解放された叔父たちはひと回り以上痩せていたそうです…」


猿女の五人の伯母はほぼ同時に身籠り(実の父親が誰かなんてどうだっていい)

生まれたのが皆女子だったので小野と猿女の間に生まれた五人の娘たちは今は宮中の天皇の儀式用の装束を作る部署である縫殿寮ぬひとののつかさに仕えている。


「私は男子だったので猿女に取られる事もなく母も父の傍にいる事を許されました。いやあ、良かった良かった」


と笑って首を振る篁に騒速が


「あなたひじりに何てこと吹き込むんですかっ!」


と胸ぐら掴まんばかりに詰め寄り、その横で空海が


蟷螂いぼじり(カマキリ)や、まるで蟷螂の雌や…」


と己の身を抱きしめ震えた。


空海と騒速とその次男。


とわざわざ名指しして孫に連れてこさせた猿女君の長、薑猿女君はじかみのさるめぎみは顔に皺はあるもののとても齢六十五とは思えぬ艶々した黒髪と透き通るような白い肌を持つ美しい女人だった。


「私の我儘でこのような辺鄙な処まで来て下さって申し訳ありません。が、事は急を要します」


古の神々による託宣は本人だけに伝えなければならない決まりなのでまずは空海以外を部屋から出し、薑は七日前の卜定ぼくじょうで焼いた鹿の肩甲骨のひび割れを空海に見せた。


「これは、宮中でも行われる太占ふとまにですね?」


そうです、と薑は頷き


「私どもいにしえの血を引く巫女は重要事を占うときは必ず神の使いである鹿の骨を焼いてひびの形を読んで吉凶を占います。


…あなた、大それたことをしてくれましたねえ。

ま、元々伊勢の巫女である私達は感謝すべきなのでしょうが」


焼失した八咫鏡を空海が新造したという空海と嵯峨上皇と伊勢の神職しか知らない秘密をいきなり言い当てられ、ぎくりとしたが空海は眉一つ動かさなかった。


宗像のイチキ様とも朝原内親王とも似た眼差しの深さ。このお方は本物や。空海は確信した。


「…で、その太占の結果というのは?」


「未だかつてない結果ですよ」


この国で一番古い巫女の血を引くおうなは両頬の皺をにっ、と広げた。


部屋から出てきた空海は何か…悄然とした様子だったので騒速は声をかけづらかった。


「賀茂の親子、入るように」と言われるがままに騒速と志留辺が巫女の前に座ると、


「蝦夷の王の血を引く方々よ、ようこそいらっしゃいました」

と薑が親子に向かって拝礼する。


ああ、何も言わなくてもこの方には全てお見通しなのだ。


無理矢理ここまで連れて来たこの媼に騒速は色々言いたいことがあった。

が、心に溜めていた言葉が雲のように全て消えていく不思議な感覚におそわれて何も言えなくなる。


「童、あなたの名は?」

「シルベ、エミシの言葉で風という意味です」


そう答えたシルベの頭の上に媼がおもむろに菰を被せ、足元の小さな炉で温めた石の上に干した何かの薬草を乗せて水をかけて蒸し焼きにしてその蒸気をシルベに吸わせた。


「もしかしてこれって」


「麻の葉です。子供には荒療治ですが急いでこの子の中に眠る神の名をあぶり出します」


蒸気を吸って次第に酩酊状態になるシルベに向けて媼は笹の葉を手に持ちてぱんぱん!と柏手を打ち、


「ひふみよいむなやこと、ふるべゆらゆらゆらゆらとふるべ」



ふるべゆらゆらゆらゆらとふるべ…


と古来からの祝詞を唱えて相手の魂を揺さぶる。


がくん項垂れと完全に意識が落ちたシルベはとても十一の子供が出せない低い声で、


(流石は猿田彦と鈿女の血を引く巫女よ、よくぞ我の正体を暴き出したな)と顔を歪めて笑う。


「答えなさい、あなた様は何故この子を依り代に常世に降りてきたか?古の国つ神よ、あなたの神名カムナはっ!?」


媼に額を鷲づかみにされてう、う…と苦しげに唸るシルベの口から


(我が名はアラハバキ、エミシが崇める東国の神)


と絞り出されたその瞬間、ソハヤの脳裏に養父シルベが顔を出し、


いいか?誰にも言っちゃいけないぞ、その神の名は…


ア、ラ、ハ、バ、キ


と丁寧に口元を動かして不敵な笑顔を見せ、そして消えた。


父上!


「まったく、子供に麻の蒸気を吸わせるだなんて荒っぽい事を…熟睡してるだけや、何ともあらへん」


薑猿女君による顕現の術で昏倒してしまったシルベを診察した空海の言葉にソハヤは心底ほっとした。


「倅は俺が見てるから真魚さんは休んで下さい」


ソハヤに言われて空海は自分は相当疲れた顔をしているのだろう。


外の空気が吸いたい、と思って素直に小屋の外に出るとそこには先客が居た。


「篁どの」

「やあ阿闍梨、星がきれいですよ」


大柄な篁と小柄な空海が並んで壁にもたれて座ると遠目には親子みたいに見える。


細い月の横に宵の明星が並ぶ夏の夜空を見上げ、


わしも五十二で体の老いは自覚してはいるが…と猿女の長に言われたこの国に将来起こること、


十年後に調和の神である大日如来の依り代、佐伯真魚こと空海がこの世から居なくなった時、天つ神の封印が解かれて国つ神が荒ぶる世が始まる。


「猿田彦大神の生まれ変わりである我が孫、篁さまと東国の神の化身であるシルベが暴れる面白き世を私も貴方も見る事が出来ないのは残念ですが」


「その予言は裏を返せば天つ神の代表である大和朝廷の滅びの始まり。貴女はそれを…楽しみだと?」


咎めるような空海の口ぶりにこの国で最も強い巫覡の力を持つ媼は、


「だって私達猿女は天つ神と国つ神の合いの子ですもの。政の趨勢なんて関係ないわ」


と言い切り若い娘みたいに愉しげな笑みを浮かべていた。


「なんか、えろうしんどいわ」


普段人前では滅多に吐かない弱音を空海が口にすると篁は


「おばあ様の託宣を受けた者は皆そう言います」


と優しく微笑んで受け止め、二人とも無言で気の済むまで星空を見上げた。


明け方目覚めたシルベは父の顔を見るなり、

「父上、おれ清野どのの弟子になって強くなりたい」

と宣言し、


同じ頃何か黒く巨大な影と対峙する夢を見て跳ね起きたこの年十七才の賀茂斎院、有智子内親王うちこないしんのうは寝汗に濡れたまま父上皇に向けて文をしたためた。


朝の支度を済ませた嵯峨上皇は昨年の賀茂院行幸以来の娘からの便りに胸を弾ませ開封したその文面が─


荒神こうじん、放たれり


だったので


「むむ」と思わず口に出してしまわれた。


































































































































































































































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