第111話 拠り所

白き小さきふくふくとした生き物が

しゃくしゃくしゃくしゃく…とまるで小雨が降るような音を立てて餌を食む様が愛おしくて愛おしくて仕方がない。


弘仁十年春、立后して四年になる橘嘉智子は皇后としての務めである養蚕の作業を心待ちにしていた。


日本での養蚕はこの時代の約六百年前の昔、秦の始皇帝十一世の子孫、功満王こまおうが入朝帰化し、豊浦宮にて仲哀天皇に蚕種さんしゅ(蚕の卵)を献上したのが始まりとされている。


以来、全国の農家に養蚕は広まりこの時代は絹糸が税として納められていた。それ位蚕は身近な生き物だったのである。


宮中の養蚕処での嘉智子は長い髪を一括りにして頭巾を被った白い作業着姿。食欲旺盛な蚕の幼虫に桑の葉を与え続ける皇后の額に汗が光っているのを見た酒人内親王さかひとないしんのうは、


「皇后さま、一旦休憩に致しましょうか」と白い頭巾の下に微笑みを浮かべて言った。


井戸から汲んできたばかりの水がとても冷たくておいしい。木陰で涼んで椀の中の水を三杯も空にして塩気の利いた漬物を齧ってやっと一息付いた嘉智子がほう…とため息を付くと、


「それは喉がお渇きでしょう、だって皇后さまったら一時(二時間)も休まず働いてらしたのだもの!」


と酒人が頭巾を取り額の汗を拭いながら笑うので、

わたくしったらそんなに作業に熱中していたの?と赤面してしまった。


立后してすぐに嘉智子が教わったのが仲哀天皇の后、神功皇后が自ら蚕に桑の葉を与えてお育てになりそれが神事として歴代の皇后に伝えられて来た、という養蚕の仕事である。


さきの皇后で嵯峨帝の母、乙牟漏が三十一歳という若さで薨去してから皇后不在の三十年間、酒人は皇后の代わりとして養蚕の神事を担い、こうやってやっと甥の后である嘉智子にひととおりの仕事を伝えることが出来た事に皇女として桓武帝の妃として背負ってきた…


天皇家の妻。


というとてつもなく大きくて重い荷が背中から降りたような気がして、齢七十近い身に不思議と活力が沸いてきた。


人間、活力が沸いてくると饒舌になるものでありこの時は嘉智子と多くお喋りをした。


「人間好きな仕事を夢中になってしている時って日頃の些細な憂き事も忘れてしまえるのよね」


「はい、わたくしもそのように思います」


嘉智子が気にしている憂き事、


それは生来病弱な息子正良親王の毎日の体調管理で着るもの食べるもの過ごす部屋の戸の開け閉めなどを細かく気を配ること。


皇后になるということは次代の天皇の母として気を揉む日々の始まりでもあった。


そんな心の疲れを感じた時に嘉智子は養蚕処へ向かい、春の始まりと共に生まれてありったけの桑を食らい、夏の終わりにはその身を振り絞って輝く糸を吐き出して繭を作り卵を生んで生を終える何千年もの間、人によって飼い慣らされ自然生殖出来なくなってしまった、


蚕。


という生き物の一生を見届けるのが癒しでもあり蚕を育てることで絹で美しく着飾るために虫の生さえも強奪する人間の業深さを忘れずにいるための務めだとも思うようになった。


作業を終えて後宮に帰る時には心の疲れが取れている事を酒人に話すとそりゃあそうよ!と酒人は言い、


「一国のお后だって後宮に籠って子育ての事ばかり考えてたら心が病んでしまいますわよ。他に出来る何かを見つけて没頭するのが女人の心を救うすべかと私は思いますのよ」


「まあ、それは妙案ですわね」


「私の妃時代はそれが宴を開く事だったから臣下から『お妃様はご趣味で国庫を食い潰す気ですか?』と苦情を言われたんだけどね!」


そこで酒人はお茶目な思い出し笑いをし、嘉智子もつられて笑った。


「夫桓武帝が『酒人は可哀想な妃だから好きにさせてやりなさい』と庇ってくれたから私は後宮でも腐らずに生きる事が出来ましたわ。


…ねえ皇后さま、不幸になりたくなかったら決して自分の心を殺さないで。


これは約束ですわよ」


と言って酒人が嘉智子の手に握らせたもの。それは昨年採れた蚕の繭玉だった。


「私は辛いことがあると決まってこの玉に自分の心を込めて繭にくるまれて守ってもらっている自分を思い描いた。

だってそうでもしなければ皇女の人生を生きてこられなかったから。

この先何があろうとお蚕さまが皇后さまをお守り致しますわ、大丈夫」


はい…と言って嘉智子は大事に繭玉を紙にくるみ、それを懐に入れて改めて、


自分が自分であるために。

と心の中で呟いた。


程なく農夫と共に畑から戻って来た明鏡が

「皇后さま見てください、こんなに採れました!」

うっすら日焼けした顔で溌剌と笑い溢れる程の桑の葉を籠ごと掲げて見せる。


「やれやれ、自然の神業みわざは私たちを休ませてくれそうにないわね」


皇后嘉智子と酒人内親王は長めの休憩を終えて笑い合って再び立ち上がった。



白く大きくふわふわとした生き物がじっ…と何の疑いもない眼ではっはっはっ、と口で息をしながらこちらを見ている。


「成る程、これが野足のたりが最後に可愛がっていた犬か」


と嵯峨帝は内裏の御庭で巨勢清野こせのきよのが連れてきた真っ白な犬の毛並みの良さや蝸牛の殻のように丸まった尾、賢そうな顔つきに程よく濡れた鼻などを検分なさり、


「朕はこのように美しい犬を見たことがない」


と犬の頭を撫でながら最高の賛辞を下さり手綱を握りながら清野は恐縮した。


「は…三年前に高野山の麓の天野の集落で飼われていた番犬の仔犬を献上されたので連れ帰り、病身の父に見せると父は一目で気に入ってしまい、しばらくは病を忘れる位この犬を可愛がっていました」


清野の父は三年前に逝った中納言、巨勢野足こせののたり

野足は叙爵と共に陸奥鎮守大将軍、次いで征夷副使に任ぜられ田村麻呂と共に十年に渡る蝦夷征伐の激戦を戦い抜いた熟練の武官であるのだが彼のもう一つの顔は…


各地方で生まれた犬を自邸で飼育、調教し良き猟犬として育てるのを道楽としている愛犬家でもあった。


「白く体格の大きい紀伊の犬を珍しがった父は最期の刻まで阿久仁あぐにを枕辺に置いていました」


阿久仁?と問われた帝に清野は

「はい、天野の里では白犬をアグニ、黒犬をルドラと呼んでいたのです。その事を父に話すと

『ならば生まれた時から呼ばれていた名がよかろう』とそのまま仮名を当てて阿久仁、と名付けられたのです」


そうか、とまた阿久仁の頭を一撫でしてから嵯峨帝は清野に


「野足は朕に猟犬の扱い方全てを教えてくれた。ひとたび主を決めたら一生付いていく習性や群れとなって行動する時の連携の強さは人には無いものだと、な…」


と在りし日の野足との思い出をお話しになられた。


「はい、我もそのように思います」


「お前が元気になって良かった」


突然嵯峨帝が言われたので虚を衝かれて清野は赤面し、

「父を失った落胆が帝に伝わるようではこの清野、まだまだ未熟」と己の若さを恥じた。


「それでよい、お前の素直さは父親ゆずりなのだから」


と嵯峨帝はお笑いになり傍らで父帝の袖に隠れてこわごわと阿久仁を見る今年十歳の正良親王に「怖くないから触ってごらん」と促された。


「本当に本当に何もしないですか?父上」


生まれて初めて見る大きな動物を前に正良の黒目がちな瞳に怯えが走る。


「大丈夫です、よく躾けられていますし清野がしっかり手綱を握ってますから決して噛む事はしませんよ」


そう正良に言い聞かせるのは正良の養育係で三年前、三十二歳の若さで参議に列せられた良岑安世。


父母の次に信頼している安世にそう言われて正良はそっ、と阿久仁の頭を触った。


「本当だ…手触りがよくて気持ちいいです父上!」


と振り向いた途端、阿久仁が正良の頬をべろん、と大きく舐め上げた。


驚いてのけ反り泣く寸前の顔になる正良に

「どうやら阿久仁は親王さまが大好きなようですね」

と安世が言って聞かせるので「そうなの?阿久仁」と真剣な顔つきで犬に質問する正良の様子に嵯峨帝を始め周囲の大人たちは実に愉快そうに笑った…


この阿久仁と正良親王との対面は病臥する事多く滅多に外に出られぬ息子のため動物に触れて癒され、活力を得て欲しいという嵯峨帝の父としての計らいであった。


安世に連れられて正良が部屋に戻るのを見届けてから嵯峨帝は遠い眼をなさり、


「そういえば阿久仁の生まれ故郷である高野山も冬を越えたな。頂は東国並みに寒いと報告を受けたが空海と弟子たちは無事に冬越え出来ただろうか?」


三年前、高野の麓に実慧と泰範を送り届け実際に高野山の頂まで登ってみた清野は、


「確かに武人である我にもきつい登山でしたし、人が暮らすには厳しい環境だと思います。けれど十年間山岳修行を積まれた空海阿闍梨なら大丈夫ですよ!」


帝のご心配を和らげるようにつとめて明るい口調で清野は断言したが、嵯峨帝は阿久仁に抱きついてそのふわふわした全身の毛を撫でながら、


「よーしよしよし、お前の生まれ故郷は今頃どんなだろうなあ…」


と初めて高野山の冬を越えた空海と弟子たちに思いを馳せるのであった。


一方その頃、まだ雪が溶けていない高野山の頂では空海はじめ四人の僧たちが雪に埋もれた草庵の中で交替で真言を唱えて灯火を守り、それ以外の時間は厳しい高野山の厳冬で凍えぬよう炉を囲んで寝食し、夜には身を丸めて眠るまさに冬眠中の熊のごとき生活を送っていた。


長き冬の暗く深い眠りの中で空海は四年前、東国へ旅立った先達の夢を見ていた。


「どうしても行かはるのですか?」


空海が淹れてくれた茶を時間をかけて飲み干した徳一は器を持ったまま空海と向き合い、


「やれ奈良の仏教は帝の寵を無くし天台や真言の教えに取って変わられたと言うがな、まつりごとに近付きすぎた教えが為政者や欲に駆られた不肖の弟子どもに歪められ腐敗するのは当たり前で言わば自然現象だ。


ならば東国に新天地を求めて一からやり直せばいいだけ」


とそう言ってにかっと笑った。


大同元年(806年)、徳一は奥州会津石梯山に清水寺(慧日寺)を建立して度々赴き、そこを拠点に法相の教えの布教活動を精力的に行っていた。


「東国の民は急に大和朝廷の支配下に置かれて慣れぬ稲作と租税の遣り繰りに苦しんでいる。早急に仏の教えを広め民の心を救わねばならぬ」


東国の現状を思ってふっ、と遠い目をする徳一に向かって空海が


「そうして法相宗をまとめる徳一和尚自ら東国に進出し、ついでに最澄和尚の布教も阻める。

いやはや行動的な策士でございますねえ」


とあけすけに言うが別に気を悪くすることもなく「…ま、まあそれも計画の一つである」と頬を掻いて悪びれもせず認めた。


「我もいささか最澄相手の論争に疲れた。


本当は解っていたのだ、彼の者との書簡が何処にも落とし所が無く決着しない不毛な遣り取りだと。


何も実らない論争に疲れるくらいなら論に頼らず行動すればいい。

今回は数年帰らぬつもりだからこれはお前とも今生の別れかもしれぬ。なあ空海」


「はい」


「もしこの先行き詰まったら陸奥に文を寄越して私を頼れ、真言密教の布教を助けてやるぞ」


「ありがたいことです」


二煎目の茶を啜る徳一に向けて空海は合掌し、徳一和尚と話すのもこれが最後かもしれないと思うと自然と目に涙が滲んだ。


「それとな、空海」


「はい?」


「永忠僧都と比べては何だがお前の淹れる茶はいささか不味まずい」


毒気を抜かれた顔で空海がは、はあ…と間の抜けた返事をしている間にも徳一は


「お前は茶を嗜好品ではなく薬と思うているから煎じ過ぎて苦味が出るのだ、今度会う時までに癖を直しておけ。それとお前の密教にいくつか腑に落ちない点があるので追って文で寄越す」


と言いたいことだけ言うとさっさと立ち上がり、

「じゃあな」と高雄山寺を後にしそのまま任地の陸奥国へと向かった。


法相宗徳一、この後筑波山を拠点に東日本に仏教を伝える功労者となる。


あの時の徳一和尚の一切何も振り返らない背中。今生の別れに来た筈なのに今度会う時に、などと口走ってしまう人間臭さ。


わしもかくありたい。


眠りを貪る空海の耳に飛び込んで来たのは外から草庵の戸板を叩く音と、


「空海阿闍梨、お弟子の方々生きておられますかっ!?」


という聞き覚えのある若者たちの声。


ああ、やっと雪が解けて麓の者が食糧を届けに来たんやな。


と思った所で空海は跳ね起き、実に久しぶりに草庵の戸を開け放った。


溶けはじめた雪がお昼間近の日光を受けて眼が眩みそうになる。


炉の側で寝ていた実慧と泰範、真言を唱えていた智泉が眩しい!と叫び、


外で待ち構えていた天野の男たちは、

「うわああぁっ、くっせぇっ!」

と躊躇いもなく毛皮を身に纏い、髪も伸ばし放題の僧侶たちの体臭に鼻をつまんで悶絶した。


「初めての冬越えのお勤めお疲れ様です。と言いたいところだけれど…何だよ、真魚さんたちのそのなりは!?みんな修験者よりむさ苦しいじゃないかっ」


と元修験者の騒速に言われてしまい空海はばつの悪い表情で半白髪の頭を掻いた。


「取り敢えずは湯を沸かしますから阿闍梨たちは服をお脱ぎ下さい」


そう真比人に促されてまずは頭を剃って虱だらけの体を湯で浄め、里の女たちが仕立ててくれた新しい僧衣に身を包んでやっと空海たちは一息ついたのである。


花も咲かない高野の頂で献花の変わりに枝先の形が美しい槙をご本尊に生ける空海、この年四十六歳。


この時代ではもう老境と言われる年だが人生で一番気力が充実していた。


遥か東の地で仏の教えを広める徳一さま。


わしも西の地であるこの山の頂で…


例え何があっても気張って見せまするぞ。















































































































































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