第85話 賀茂斎院

弘仁改元から日を置かずして、


平安宮南東の隅に位置する式部省神祇官ではある重要な卜定ぼくじょうが行われた。


トホ、エミ、カミ、タメ、

トホ、エミ、カミ、タメ…


と唱えながら薄く加工された将棋の駒の形をした亀の甲羅に卜氏うらべうじと呼ばれる朝廷の祭祀を司る役人たちが燃やした波波迦木ははかぎ(上溝桜)の枝を押しつけて水をかける。


白い煙を上げてぱりっ、と音を立てて甲羅にひびが入る。そのひびの入り方を見て卜氏うらべうじたちは物事の吉凶を占うのだ。



蔵人頭兼式部大輔、藤原冬嗣は内心の興奮をおくびにも出さずに嵯峨帝の御前に進み出て、


「申し上げます…卜定の結果、阿礼少女あれのおとめに有智子内親王さま内定致しました」


嵯峨帝はその結果をお聞きになられて御椅子のひじ掛けに肘をついて手の甲に顎を乗せ、


占いとは不思議なものだな。と逆に感心してしまわれた。


卜定の結果がどう出ようともと有智子を賀茂社(上賀茂、下鴨の両社)の主祭神である賀茂別雷命かものわけいかずちのみこと賀茂御祖神かものみおやのかみを迎える儀式を執り行う巫女である阿礼少女に指名して新たに


賀茂斎院


という神に仕える皇女の役職を設けることで、


都の中にも伊勢に次ぐ神格の守護神がおわしまするぞ、

という庶民でも分かる権威を賀茂社に与えて王城守護の要とする目論見であった。


実は兄上皇が平城京に再遷都の詔を出した直後、空海の戦勝祈祷に先んじて嵯峨帝は勅使を賀茂社に送り、


我が方に利あらば皇女を阿礼少女として捧げる



という祈願をなさっていたのだ。


先に祈願をしていたのだから朕の心積もりを聞き入れて下さった賀茂大神のお計らいなのだろう。


と皇族に生まれ、いま天皇というお立場にある嵯峨帝は何の疑いもなく冬嗣の報告を受けて「直ちに斎院社を設ける」と勅をお出しになり御椅子から立ち上がると、


自分の即位に伴って伊勢斎王に卜定された我が娘、仁子じんし(仁子内親王)と別れさせられた時と同じ苦痛をまた味わうのか、と重い足取りで後宮に向かった…



「ねえねえ明鏡さま、賀茂社の阿礼少女に有智子さまが内定したそうよ」


と女御、百済王貴命が大変大変!とばかりに後宮での妹分である明鏡に団扇で口元を隠しながらついさっき決定した事項を告げる。


政の中央で決定した事項が後宮で真っ先に貴命の耳に入るのは彼女が三年前に引退した尚侍、明信の姪だからということもある。


常に桓武帝の傍に仕えながら、政に私情を一切差し挟まなかった明信の人望は未だに厚いのだ。


「と、いうことはまた仁子さま斎王内定の折のようなことになるかもですわね」


と明鏡は団扇の陰ですうっと目を細め貴命はさらに顔を近づけて「絶対そうなりますって!」と断言した。


「では、貴命さまは女御さまがた全てに事を伝令して各所に配備させて下さいませ。私は夫人さまがたにお伝えして各部屋を塞ぎますから」


貴命と明鏡はうなずき合い、団扇で顔を隠しながら自分たちが立てた策を実行に移した。


間もなく賢所から遣わされた命婦たちが、


髪は金銀珠玉の飾りをつけた二髷の宝髻。


衣は深緋こきあけの大袖に同色の内衣をかさねた上に蘇芳すほう浅紫うすきむらさき深緑こきみどり浅緑うすきみどりたて(光沢のある絹織物)に、纐纈こうけつしぼりの文様。


胸から足元にかけて紕帯そえおび(前帯)を垂らした養老律令での礼服姿でしずしずと有美智子内親王とその母である交野女王の前で宣旨の文書を広げ、


「…よって、有智子内親王を賀茂斎院に定める。これより潔斎に入るように」


と告げてからささ、斎院さま。と有智子を連れ出そうとする。交野女王は畏まりながらも肩を震わせ我が娘の手を離せないままでいる…


「未練がましいですわよ交野女王」


と命婦たちが無理矢理交野から有智子を引き離そうとしたところで、「解せぬ!」と叫びながら有智子を奪ったのは斎院宣旨の勅を自ら出した嵯峨帝ご本人であった。


しまったまたしても!


と命婦たちが血相を変えて帝を追いかける。


実は昨年、仁子内親王を後宮から連れ出す際にも帝は仁子さまを命婦から取り上げて後宮じゅうを逃げ回る騒ぎを起こしていたのだ。


有智子を抱き上げながら廊下を走る嵯峨帝はいくらいにしえからのしきたりだからって…


卜定の度に娘を取り上げられるのは、父親として解せぬ!


広い後宮の長い廊下の隅には既に女御たちが3人がかりで待ち構えている。


背後からは久しぶりの礼服で動きが鈍くなっている命婦たちがお待ちくだされ帝!と声を上げながら確実に自分を追い詰めている。


ええい、こうなれば。と嵯峨帝は夫人の多治比高子の部屋に入れてもらおうと御自ら御簾を上げようとなさるが

「駄・目。ですわよ帝」

と丸くぽっちゃりした顔で笑う高子に拒まれ、


藤の夫人、緒夏の部屋に入れてもらおうとするも、


「そうですわねえ、もう少しお渡り下さる回数を増やして下されば入れてあげないでもないかも」


とことし15才になる緒夏は御簾の端に膝で乗っかって外側から開けさせないようにしている。


「じゃ、じゃあ…10日のうち2回は緒夏のところに通うようにするから」


「まあ嬉しいです!」


と兄の冬嗣によく似た顔立ちの緒夏が御簾の向こうで少女らしく笑うも、


「でもいま部屋にお通しする訳にはいかないの。おゆるしあそばせ」


とすげなく断られ、最後にお産で実家に帰り空になっている筈の夫人、橘嘉智子の部屋に飛び込むとそこには桓武帝の妃で元斎王の酒人内親王が杯で酒を飲みながら悠然と座っていた。


「お、叔母上…」

「いい加減駄々をこねるのはおよしなさい、神野。ご自分が下した勅に逆らって逃げ回るなんて滑稽の極み」


と杯を置いた酒人は後に媱行ようぎょう。とも言われる少し首を曲げて肩を落としながら立つ。というまるで無邪気な少女がするような仕草をし、嵯峨帝と相対した。


というより我儘が過ぎる甥っ子を睨み据えた。


な、なれど…と有智子をしっかと抱いて離さない嵯峨帝に酒人は、


「お前は子供の頃からそう!

いつも何かあると周りの女たちに甘えてばかり。お前がそうやって潔斎を拒んで一番困るのは有智子さまと交野だって解ってるの?」


帝を諱で呼び捨てる事が出来る数少ない存在である叔母に遠慮なく叱られ、嵯峨帝はぐっ、と言葉を詰まらせる。

が、それでも嵯峨帝は動かない。

息を弾ませながらやっと追い付いた命婦の後ろから交野が出てきて、


「も、もう私は斎院さまをお送りする覚悟は出来ていますから…どうか有智子さまを離してあげて下さいませ」


と夫を説得したが返ってきたのは酒人の、

「嘘を言うのはおよしなさい、交野」という心の奥の本音を直に差す言葉だった。


「私も一度は娘を伊勢にお送りし手離した身。お前の苦しみは解りますよ、交野。


皇女に生まれたからには神々との契約のために兄と契る事も我が子を手離す事も耐えて偲ばねばならない、…と言うべきなんでしょうけどねえ、決して我が子だけは手離してはなりません」


本音を言い当てられた交野ははっとした顔をし、走り回って着崩れた命婦たちは頼りにしていた酒人さまが予想外なことを言うものだからどう行動していいのか分からなくなった。


「4才で別れた朝原さまと再会出来たのは14年も経ってからで、いきなり18才の大人になった娘にどう接したらいいか解らない。

一緒に暮らしていても未だに娘が何を考えているのか理解できない苦しみが誰に解るっていうの!?」


と誰にでもなく酒人は声を張り上げた。


それは19で斎王に選ばれ、母と弟の急死で退下するも異母兄の桓武帝と結婚させられ25で生んだ一人娘ともたった4年で引き離された、

何ひとつ自分の思うように生きられなかった皇女の、心が張り裂け血が噴き出るような叫びだった。


「だから交野、お前は有智子さまと共に潔斎に入りなさい」


そ、それは前例がございません!と命婦があわてふためくも、酒人は


「前例?

初の賀茂斎院のどこに前例があるっていうのよ。幼い皇女に母親が付き添うしきたりをいま作るのよ」


と古びた慣習に縛られた女官たちを、まったく見た目は若いけれど、心は年寄り。とでも言いたげに鼻で笑った。


「下ろしてください父上!有智子はひとりで歩けます」


と有智子が強く身をよじったので嵯峨帝はやっと娘を肩からお下ろしになり、有智子が真っ先に母上!と交野のもとに駆け寄るのを見て心をお決めになられた。


「交野、有智子を頼むぞ」

と仰せつかった交野は「は、はい!」と声に喜びと感謝をにじませて返事した。


こうして有智子内親王は母である交野女王と共に宮中を出て潔斎に向かった。


初の賀茂斎院、有智子が後に父の嵯峨帝と再会するのは弘仁14年(823年)、嵯峨帝斎院に行幸の折。実に14年後のことである。


弘仁2年元旦寅の一刻。

(811年1月28日午前4時頃)


前夜に入浴と整髪を済まされ、この時代の天皇の礼装である白い袍を身に纏った嵯峨帝による元旦四方拝が執り行われた。


元旦の早朝に天皇がまず北に向かいその年の属星ぞくしょうとご自分の属星、

(この年は卯年で文曲星ぶんきょくせいで嵯峨天皇は寅年生まれなので禄存星ろくそんせい)

を七回ずつ唱え、

天と地、四方の神々、山陵(天皇陵)を拝み、

年の災いを祓い、豊作を願う儀式で、


四方拝は嵯峨帝の五代前の先祖である女帝、皇極天皇が河原で行った潔斎が始まりとされ、


以降断続的に行われてきた四方拝を、嵯峨帝はこの時から初めて元旦初めの宮中行事として慣例化なさった。


拝礼の作法は、


笏を右手に持ち正座姿勢から右足より立ち、両足をそろえ、両手で笏頭を目の高さまで掲げ、腰を折って深々と頭を下げながら、左足から正座に戻り、そのままうつ伏せられる一連の動作を起拝。


起拝を二度繰り返した後、深く頭を下げる。その後さらに、起拝を二度繰り返す。前段と後段で二回ずつ、合わせて四回起拝を行なう。


起拝される帝のお姿は屏風で囲まれていて見ることは出来ないがまだ夜明け前の暗い寒空の下、四方拝を済まされた帝のお体から湯気が立っているのを見た冬嗣は、


これだ。

これが天皇と我々臣下との差なのだ。

と改めて思い知らされた。


全ての禍事は我が身が引き受けるから、どうか国と民には災いを及ぼさないで下さい。とまで必死に祈ってくださる王がこの世の何処にいるだろうか。


これが天皇と他国の王との違いなのだ。


やれ北家だ式家だ、と分家同士で潰し合いに必死になる藤原なぞどう努力しても天皇の外戚どまりの…未来永劫臣下の家でしかない。


と目の前の若き帝の姿に強く胸を打たれ、同時に玉体を利用して何もかも手に入れようとする実家の藤原北家を心底軽蔑したのだった…


8日後、宮中に呼ばれた空海は

「明けましておめでとうございます。帝」

と恭しく頭を垂れて新春の挨拶をした。

「うむ、去年はよく働いてくれたな。皇子も生まれてまことにめでたい年明けである」


と、そこで嵯峨帝はかつてないほどに表情を引き締めた。


「実は朝原の姉上からお前に話がある。空海」

「は」

「お前は死んでも秘密を守れる男か」

「密教の密は秘密の密でございますよ、帝」

と何のためらいもなく空海が言ったのでならばよい。と嵯峨帝はうなずかれ、命婦を呼んで空海を朝原内親王の部屋に案内させた。


内裏の中のずいぶん奥まった部屋に朝原内親王は座っており、片手で持った団扇で顔を隠しながらそこへお座り。ともう片方の手で自分の前の床を指した。


「明けましておめでとうございます、上皇妃さま」

「おめでとう、遍照金剛空海」


と団扇を下ろして顔を現した朝原内親王の三日月型の眉はわずかに太くて濃いが、形のよい目鼻立ち、特に相手を見る眼差しには人の見えない世界と繋がっているという誇りのようなものが感じられた。


「昨年のことですけど、神野より曼陀羅というものを見せていただきました」


「これは光栄なことで、で、上皇妃さまは曼陀羅をご覧になって何をお感じになられましたか?」


ほほ、と朝原は声を上げて笑い、


「まああ…神も仏も全て一つの図柄にまとめてしまう密教とは、なんと完成された偽善なのでしょう」


空海は眉ひとつ動かさずに

上皇妃さまは仏教そのものを偽善、と仰っているのか。と思いかねてから疑問に思っていたことを口に出した。


「では、古より八百万の神々と契約する事によって他の豪族より抜きん出る事に成功し、弱き民の人心を掌握するために仏教まで取り入れた天皇家とは、一体何なのでしょうか?」


「お前はどう思うの?遍照金剛」


「わしには秘密にされることで敬われてきた虚栄かと」


朝原は両の瞼に力を入れて眼を細め、空海は口元に笑みを浮かべたまま、睨みあった。


しばらくそうしていたがやがて朝原がため息をついて根負けした。


「…よしましょう、もともと一つだったもので巫女と僧侶が言い争いをするのは愚かなこと。遍照金剛空海よ、是非お前を見込んで頼みがあります」


と朝原から明かされた真実と下された密命は…

宮中から退出する空海の足取りを覚束なくさせるほどのものであった。


わしはとんでもないことを引き受けさせられてしまったな。


さて、何から始めればよいのか?

















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