第80話 隘路

昔、一人の朝臣が拘禁を解かれ軍馬にまたがり勇ましく平安宮から躍り出た。


彼の名は文室綿麻呂ふんやのわたまろ

藤原仲成と同じく平城上皇に仕え、文室朝臣姓まで賜り重用された上皇の側近である。


上皇から任を解かれて藤原真夏と共に平安京入りした途端、彼だけが捕縛された。


一日ちかく宮中のどこかの一室に拘禁された後、

「綿麻呂どの、貴方の嫌疑が晴れましたので拘禁を解きます」


と戸越しから聞き覚えのある声がかかり、入口が開け放たれたので急に入って来た朝の眩しい光に綿麻呂は目をしばたかせた。礼儀正しく頭を下げ入って来たのは…


「あなたでしたか」

と同じく平城上皇の寵臣で平城京の離宮で共に同じ主に仕えていた藤原真夏が今ここに居て自分に謝罪している。という事実に綿麻呂は、


ああ、とうとう上皇さまは朝敵になっておしまいになったのだな。と全てを悟った。


平城朝の頃から上皇の側近で癇気の強い主に振り回されて日々堪え忍んできた綿麻呂はこの事態が来ることを上皇のご即位前から予期していた。


真夏の顔を見て疑いが晴れた、という安堵の次に「ただちに帝の御前に」と真夏に促されて武官の正装で嵯峨帝に拝謁した。


「文室綿麻呂、お前を従四位上、参議に叙する。大納言田村麻呂の嘆願によりお前に上皇追討の命を下す。急ぎ東国に赴き、田村麻呂と合流して敵の動きを塞ぐのだ」


は!と武装に身を包んだ綿麻呂は活力漲る声で「謹んでお受けいたします」と一礼してから御前を下がり、外に用意された兵と最上級の青毛(黒毛)の馬を見ると…


やれありがたや、話の解る王を戴いた我はなんと幸せであるか!


とかつて田村麻呂と共に蝦夷討伐の最後まで戦い抜いた猛将は盛んだった頃の血をたぎらせて田村麻呂の元に向かった。


昼御座ひのおましから夜寝所よのおとどに向かう途中にある着替えの部屋で真夏から、

上皇が密かに土蜘蛛たちを放たれ、既に宮中に入り込んでいる。

という報告を受けた嵯峨帝は一瞬、


我ながらなんと迂闊な。と眉目を翳らせたが、


これは内裏の構造全体を生かした遁甲でございますぞ。自信をもって策を実行するのみ。


と策を授けてくれた空海の言葉を思い直し威儀を正して真夏に、


「土蜘蛛が結集して内裏を襲うとするなら今夜だろうな」

とお尋ねになられた。

「はい、玉体と神璽(勾玉)を奪いに土蜘蛛は闇に紛れてここに入るでしょう」

と嵯峨帝の着替えの手伝いをしている蓼と背後の二人の少年に交互に目をやりながら、


「道中、この子供たちに救われましたよ」


とこいつ、本当にあの堅物の冬嗣の兄か?


と疑うほど小春日和を思わせる柔らかな顔で頼りなく微笑した。


嵯峨帝は夜着の帯を締めてくれる蓼に向かって、

「それにしても、五人の土蜘蛛を倒した少年二人のうちの一人がお前の息子だとはねえ」


とお笑いになってから真夏の背後で額を床に擦り付けている少年二人に向かって


「面を上げよ」と仰せになり、言われた通りにした少年たちに


「名は?」とお尋ねになられた。


「は、修験者前鬼こと蓼の息子の素軽すがるでございます」

と右側の穏やかな顔つきの少年が名乗り、


「我はタツミ様の弟子の素早そはやでございます」

と左側の彫りの深い顔立ちの少年が名乗った。どちらも胆の据わったいい面構えをしていた。


「よし、素軽は父と共に朕の警護をし、素早は師の元へ行って指示を仰ぐがよい」


ひと目で二人を気に入った嵯峨帝は今宵が決戦の時、とばかりに内裏に最大限の警戒態勢を敷くように伝えよ、傍らの明鏡に命じた。


「全ては手筈通りにな」と嵯峨帝に命じられた明鏡ははい、とはっきりとした眼で肯いてから落ち着いた足取りで後宮へ戻った。


間もなく陽が落ちて、夜の帳が降り晩秋の宮中の各所に篝火が灯される。


何もかもがいつも通りの、不気味なくらい落ち着いた夜であった。


篝火と篝火の間を巡回の武官が通り抜け、交代の度に名と役職を告げてから定位置に付く。


特別に警戒している風でもないのになにかが潜んでいる気がする。この胸騒ぎは何だ?


土蜘蛛の頭領で傀儡師くぐつしのタガミは焦っていた。


彼ら土蜘蛛のおこりは66年前、


聖武帝の皇女、阿部内親王あべのないしんのうを立太子させるために阿部の従兄で藤原武知麻呂の息子、藤原仲麻呂が無頼の渡来人たちを集めて結成させた暗殺集団であり、


彼らの最初の犠牲者は聖武帝の皇子でまだ17才の安積親王あさかしんのうであった。


皇子を失われた聖武帝は仕方なく阿部を後継とお決めになり、後の女帝考謙と仲麻呂による暗殺と粛清の嵐吹く暗黒の世が始まった。


というのが土蜘蛛たちの代々の言い伝えであり、殺しに見えない殺しの技では彼らの仕事ぶりは芸術、と言ってもいいくらいの完璧さを誇り代々の天皇に仕えてきた。


しかし、弟を殺すために土蜘蛛を使った桓武帝は己を恥じて土蜘蛛を放逐してしまわれた。


桓武帝崩御後に平城帝に時々用いられたが最澄暗殺は和気広世と泰範に阻まれ失敗、


最近の成果といえば投獄されていた伊予親王を自殺に見せかけ暗殺したくらいで、


平城帝の早急な退位によりこの一年、畿内の集落を渡り歩いて見世物の芸で食いつなぐしか生きる手段の無かった彼らにやっと千載一遇の活躍の機会が来たのだ。


今宵、日が開けるまでに闇に紛れて今上帝と妃とお子らのお命と、内裏にある天皇の証、神璽を奪って上皇さまのところに馳せ参じなければならない。


上皇さまの最側近であった仲成どのが処刑された今、彼ら土蜘蛛にとって今夜しか内裏襲撃の機会は無いのだ。


しかし…

と広い内庭を見下ろせる御殿の屋根にしがみついていたタガミは黒い頭巾の下で苦渋の面をした。

集結した45人で夜御殿を襲う計画だったのに、ここに辿り着いた土蜘蛛は我を含めたったの30。


平城京から出立する前に何処かから我々土蜘蛛の情報が漏れてしまった。


仲成さまを警護していた土蜘蛛5人、田村麻呂からの密書を携えている藤原真夏を襲った土蜘蛛5人。


そのうち二人は綿麻呂に斬られ、一人は真夏に斬られ、あと三人の騎乗した土蜘蛛たちは、


突如樹上から降りてきた白装束の二人組にしがみつかれ、

一人は膝で相手の首を挟みながら座禅の姿勢のまま半回転する。


という奇妙な技で首の骨を折られて馬上で命を落とし、もう一人は蝦夷の戦士が用いる蕨手刀で背後から心の臓を突き刺されて即死した。


「あの…凄まじき体術…我々の敵はやはり修験、者」

と、わざと綿麻呂に急所を外され腹を刺された手下が這う這うの体でタガミに報告すると間もなくこと切れた。


彼の実の兄、タブセが出立前の夜に姿を消した。


タブセの情報収集能力は一流で土蜘蛛の長老格で冷徹無比なことこの上ない兄者だったが、


唯一の欠点は女が大好きで饅頭売りで稼いだ金で毎晩のように色を買っていた。


天河の踊り巫女たちは別嬪揃い、と朝帰りして笑っていた兄者が深夜、突如と消えた。恐らく正体を知られ、相手の女に殺されたのだろう。


「お前らに聞く、夜に女買いをした者はこれから目を固く瞑ること。

…解った、ほぼ全員か。もしや我々土蜘蛛の正体を喋ったりはしていないな?」


とタガミが念のため険しい目で集まった手下たちを見下ろすと、


「酒食らってから女を抱いただけでそれ以外のことはしちゃいませんぜ」


「そうだそうだ、事の後で寝入っちまうくらい天河の踊り巫女たちはいい女だったぜ!」


と部下たちから抑えめの哄笑が上がった。


天河、

という単語を聞いてタガミは我とあろうものが何たる失態!

天河の地は元々修験道の開祖、役行者が

開いた修行道場だったではないか。


間違いない、天河の巫女たちの正体は葛城山に結界を張る修験者たちだ。


特に一族の頭で畿内一の鉱山師やまし、賀茂のタツミを敵に回してしまったとしたら?


これは急がねば。


「天河の巫女たちの正体はおそらく女修験者だ。何人かで女たちのあげはりの様子を見に行って抵抗されたら殺せ」


と4人の手下を巫女たちの住む幄に行かせたが、帰ってこなかったのは手下たちの方だった。


焦れたタガミが手下5人連れで向かうと幄も柱も跡形も無く、残ったのは青黒い顔で倒れている手下たちの骸だけ。骸の頭の骨がへこんでいたので手下たちは忍び入った途端…柱を抜いた女たちに厚くて重い布ごと押し潰され、窒息死させられたと思われる。頭のへこみは崩れた柱によるものだろう。


まさに神出鬼没。タガミは脇の下に本気で冷たい汗をかいた。なんてことだ、これで土蜘蛛が5人消されてしまったではないか!


「あと40人、俺たち全員ただちに平安京へ行くぞ!」


タガミたちが芸人に化けて平安京に入った時には土蜘蛛はさらに10人殺されていた事実を見張りの武官同士のお喋りを盗み聞いて知った。


残りの30人で事を成し遂げねばなるまい…

この計画には、上皇さま直々に命じられたいくつかの制限がある。


上皇さまのお子で皇太子、高岳親王を無事救い出すこと。高岳の母で寵姫の伊勢継子と正妻の朝原内親王だけは殺すな。


天皇を弑して、ご妻子を殺して、神璽を奪って戻ってこいだなんて全て実行するのは無理だ…

とタガミは黒頭巾ごしに頭を掻いて嘆息した。こうなれば一番成功しやすいご命令から実行するか。


「3人は東宮に入って春宮さまと伊勢継子さまをお救い申し上げよ。12人は後宮に入って特に子供と身籠った女を殺せ。俺たち15人は帝の玉体を狙う。生きていたらここで落ち合おう、では」


とタガミの素早い判断による命で黒装束に身を包んで宵闇に紛れた土蜘蛛たちは各々割り当てられた場所へ向かった。


後宮の橘の夫人の部屋には二つの燭台が灯っていて、その間で囲碁に興じる二人の貴人は橘逸勢と伴雄堅魚とものおかつお


「征夷大将軍どのが東国の関を固めたら何人たりとも突破は不可能だろうねえ…まずは伊勢」


と雄堅魚が呟き、逸勢が白石で東国と見立てた雄堅魚の陣を破ろうとするも真ん前に黒い碁石を置かれて防がれた。


逸勢が次の一手で左上方に逃げようと石を置くと、「つぎは近江」と薄情な相手はそこも防いでしまった。


そして伊勢の関に見立てた碁石の後方に「そして最後は…美濃」


と堅守の石を置かれて逸勢はもう何処へ白石を置いても、敗けだ。

と悟って「参った」と言って降参した。


そもそも碁とは、

古代の大陸の軍師見習いが囲碁の盤を戦場に見立て、相手と軍略の知識を学ぶために用いられた戦略の遊びである。


「俺が上皇さまだったら東国ではなく西国に行って畿内の豪族に助力願うんだけどなあ」


「落ち延びた元天皇なんて、余程の人望が無い限り豪族たちに殺されて終わりだ」


帝位簒奪の策をあっさり逸勢に却下され、雄堅魚は部屋の隅で震えている豊かな黒髪の貴婦人に向かって、

「ご安心下さいきつの夫人さま、私たちが賊から守って差し上げますよ」

と声をかけると、


今だ!


という合図で天井板を踏み抜いて一人、柱の陰から四人の黒装束の刺客たちが逸勢と雄堅魚、夫人を取り囲み、


「橘の夫人、お腹のお子と共にこの世から消えていただく」と、天井から降りた刺客が告げて短刀で一斉に斬りかかった。


平城上皇の一番の危惧は橘の夫人こと橘の嘉智子が将来皇子を生むこと。


弟神野がこの世で最も寵愛する夫人が生んだ皇子ならば神野は必ず次代の天皇にするだろう。


そうなれば高岳はどうなる?


生まれてくる前にその芽を摘むが得策。と上皇の一番の密命、


橘の夫人を腹の子ごと殺すこと。


を最優先に後宮に忍び入った土蜘蛛たちは後宮にいる橘の夫人、と呼ばれた貴婦人こそ標的だと思って反撃覚悟で襲いかかった。


次の瞬間、飛び上がる勢いで夫人が立ち上がると両手の短刀で同時に刺客二人の喉をかき切ってしまった。


か弱き貴婦人にあるまじき行いに一瞬刺客は戸惑ったがすぐに夫人が替え玉である事が解った。


嘉智子自身の髪の毛を集めて拵えたかもじ(かつら)がずるり、と滑り落ちて現れたのはほの暗い室内で輝く白銀の髪。


「馬鹿ね、囮にまんまと騙されて分隊全てで攻めてくるとは笑止」


「そ、その髪と目は…お前はしろがねのトウメ!」


と刺客が言い切らない内にトウメは右脚からたん!と踏み出してくるくると舞うような俊敏な動きで刺客の喉元を掻き切り、旋回のたびに一人ずつ斬り伏せて行った。


それは、以前空海から聞かされた天竺の血と殺戮を好む女神、迦哩(カーリー)の舞い狂う姿と重なった。


「土蜘蛛これで25人。殿方たち、芝居ご苦労さま。ではごきげんよう」


と血に濡れた美しい顔で艶然と笑いながらトウメはとっくに避難している嵯峨帝の妻子たちを守るために後宮から辞した。


「美しい女は恐さを秘めているものなのだな…」


と土蜘蛛たちの骸の中で二人の貴人たちは一種の陶酔状態になってしばらくその場に立ち尽くした。


実は、後宮にいる女子供たちは全て武官の家族にすり変わった替え玉であり、本当の嵯峨帝の妻子は何処に避難していたかというと…


「ご安心下さい、この建物の作りは内側の声が外に漏れぬよう戸を幾重にも重ねた作りでございます」


と主に嵯峨帝の15人の子供たちとその母、さらに身籠った宮女たちを守るために取り囲んでいる内供奉十禅師たちの先頭で最澄は人の背丈程もある棍棒を握りしめた。


彼の両脇には護衛のために最澄の弟子になった元武官の僧侶が二人。

かつての蝦夷での激戦を思い出したのか、出家の身でありながらぎらついた眼をして入口を見つめている。


ぎゃああ、とかうわぁぁ、とか獣の咆哮のような叫び声と足音。


…来る!


と弟子二人は棍棒を持ったまま震える最澄はじめとする十禅師たちを背中で庇い、このような非常事態では仏教の教えである不殺の戒めを破って破門されてもやむ無し。


と覚悟を決めて棍棒を構えた時、

どおーん!!とまるで熊がぶち当たってくるような衝撃が何度かし、道場の戸はいとも簡単に破られ、黒装束の大男が突入して来た。


「こんなところにいやがったのか…」

と大男ははあはあと肩で息を付く。後宮に標的はいないと知り随分探し回ったのだろう。


幅の広い鉈を背中から抜いた男は「俺に力で敵うものはいねえ、まとめて死ね!」と鉈を振り上げ、


今より仏を捨てるぞ。と覚悟を決めた僧侶二人が前に出ようとした時、

二人の背後からひゅるるる、と円盤が音を立てて飛び、刺客の大男の額に命中した。

額の骨が割れて、どくどく流れる血が視界を塞ぐ。男の足元に落ちたのは大人の頭ほどの大きさの銅鏡。


朝原内親王が機転を利かせて持っていたご神鏡を投げつけたのだ。


「上皇妃さま、いくら何でもそれは!」

と年老いた命婦が卒倒しそうな声で朝原を叱り付けるが、

「どうせ複製なんだからいいのよ」

としれっとして朝原は言い放った。


目が…目があ!と刺客がよろめく隙を突いて最澄と弟子たちは棍棒で男の首の後ろを何度も叩いてやっと気絶させた。

が、あと6、7人の刺客たちが頭を低く屈めて道場に飛び込んでくる。


「僧侶たちに戒を破る汚れ仕事はさせません」


三善高子の言葉を合図に若い娘から老女まで命婦全てがずらりと懐から剣を抜き、刺客に立ち向かった。


特に高子は夫の田村麻呂から預かった黒光りのする直刀を両手で振り回して先鋒の刺客の頭部を垂直にかち割った。


この時代の命婦のほとんどは武官の妻か娘から選抜され、このような事態に備えて武術に長けた女たちが皇族の御身を守るために宮中の内に仕えていたのだ。


いくら手練れの土蜘蛛でも一人が女5,6人に一斉に押し包まれたら誰を相手にしたらよいか迷い、隙が出来る。今だ!とばかりに女たちはずぶ、ずぶ!と同時に刺客の腹部を刺した。

こうして高子が三人、他の命婦たちがあと三人、内侍藤原和子が一人刺客を殺して内道場を襲った部隊は全滅したかに見えた。が…


本当の敵は女たちの集団の中にいたのだ。


守られている女人たちの一番中央にいる腹の膨らんだ女が橘の嘉智子に違いない。

おのれ…

懐から取り出した家宝の刀で侍女の一人が大きなお腹を抱えてうずくまる嘉智子めがけて走り寄り、彼女の正面に立つと、

「橘の夫人、覚悟!」

と叫んで剣を振り下ろそうとした刹那、嘉智子が立ち上がって素早く両手を前に出し、侍女のこめかみの両側に激痛が走った。


「紀道子、ではなく藤原継子。おまえが薬子の娘だってこととっくに解ってたんだからね」


いつの間にか嘉智子とすり変わった明鏡が常に髪に仕込んでいる峨嵋刺がびしんを継子のこめかみに突き刺したのだ。


しまった一生の不覚…と薄れゆく意識のなかで藤原継子は刀を取り落とし、


これで私に名前をくれた祖父種継の、母薬子の夢だった式家再興の望みは潰えた。


でもいいの。生きていても甲斐の無い人生だったもの…明鏡が峨嵋刺を抜き、こめかみから血を吹き出して藤原継子は息絶えた。


式家再興。という夢の形をした解けない呪いから解放された娘の死に顔は薄く微笑んでいるようであった。


生家の呪いに縛られて人生を狂わされた継子は私と同じだ。と明鏡は自ら手を掛けた娘に深い哀れみを抱いた。


「お子さまに見せぬよう骸に布を」とつとめて冷厳な口調で侍女たちに指示する彼女の睫毛に光るものがあった。


残りあと15人の土蜘蛛は頭領のタガミを先頭に夜御殿の前庭で背中から刀を抜き、


「せめて神璽さえ奪えば上皇さまのお役に立てる。皆、行くぞ」


と真夜中の闇に紛れて奇襲攻撃をかける命令を下して嵯峨帝が御寝なさる建物に向けて走り出してすぐである。


突然前方でぽん、ぽん!と大きな篝火が点火し、良岑安世率いる射的部隊が一斉に矢を放ってきた。


「今なら何処を狙っても当たるぞ、矢が切れたら後列と交替!」

と指示を出す安世自身も一篇に二本の矢を弓に掛けて弦を引き絞り、放った矢で同時に二人の刺客の額を貫いた。


闇の中地を這うように生きてきた土蜘蛛たちは急にまばゆい光に照らされ、焦燥で己が心を無くした。


ある者は逃げ出そうとして背後から十数本の矢で射られ、またある者は決死の覚悟で飛び上がって安世に斬りつけようとした、が後宮から追ってきた白装束の修験者たちに斬られ、一人また一人と土蜘蛛たちが減らされてゆく。

最後に頭領のタガミだけが生き残り、両太腿を弓で射られてその場で膝からくず折れた。


その彼の真ん前に立ちはだかる背の高い男を見上げて、


「やはりあんただったか…」


と修験者の頭領、賀茂のタツミの精悍な顔を見上げて血と脂汗にまみれた顔で笑った。


タツミは静かな目でタガミを見下ろしている。

「もう土蜘蛛は終わりだ…やれ」


と体から流れ出る血で意識を失いそうになりながらもタガミは己が首をもたげてタツミに差し出した。


短刀を腰から抜いたタツミは刃を高く掲げ、


「闇からや闇へ地を這いずるように生きて弱きものの血を啜ってきた虫よ、歴史から消えろ」


と告げてから刀身をタガミの眉間に深くめりこませた。


タガミの骸から引き抜いた刀を拭ったタツミは指笛を吹いて宮中にいた配下の修験者たちを全て集めてから夜御殿の中にいらっしゃる嵯峨帝に片足でひざまずき、目を伏せてから


「事は全て終わりましてごさいます」


と深く通る声で告げた。やがて内側から戸が開き、三守を従えた嵯峨帝が夜着の上に袍を羽織ったお姿のままで現れ、


「面を上げよ。お前たちはよくやってくれた、この夜のことは朕は生涯忘れぬ、感謝する」


と命の危機から自分を守ってくれた名も無き山の民に最大限の感謝の意をお表しになった。


民が見ることを許されぬ天皇のご尊顔を拝した修験者の女たちは、

「天皇は人間でないっていうからどんな変なお顔をなさっているかと思いきや、いい男だねえ…」とうっとりとした顔で囁き合った。


「天皇のしきたり通りに神璽と共に寝所に居なければならないこの身。不甲斐ない朕をよく守ってくれた。望む通りの褒美を与える」


とお告げになってから後の事は三守に任せてご自分は再び神璽を守るためにご寝所へお入りになられ、甥で皇太子の高岳と新しく内道場の稚子に任じた空海の弟、真雅が共に身を寄せ合い眠っている様を微笑ましく御覧になられた。


高岳親王と真雅。


この11才と9才の二人の童子は長じて空海の弟子となり、この国土に蒔かれたばかりの真言密教の種子を苗木にまで育てるかけがえのない存在となる。


こうしてこの夜、暗殺者集団土蜘蛛はこの世から消えた。


しかしいくつかの史書には、


正体の解らない何かの反抗勢力。


として土蜘蛛はその名前だけを歴史に残している。















































































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