第73話 負の遺産

今は上皇となられた皇太子安殿親王こうたいしあてしんのう藤原薬子ふじわらのくすことの密通が露見した時、


藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろはは、


「なんてことだ…!帝はさぞかしご心痛のことであろう」

と報告してくれた部下の前で夜着の袖で顔を覆って、嘆いた。


はい…と首をすくめた部下は、


「春宮さまと妃の母親の寝間に踏み込んでご自身の眼で密通の現場をご覧になったのです。その衝撃はいかばかりかと…帝は心労で床に伏せっておられる。との事で」


そうか、と葛野麻呂は顔を覆ったままうなずいて肩を震わせると、


「私も心が痛い…夜が明けたら宮中は大変なことになる。お前ももう休め」と部下を労って下がらせた。


こうして一人になった葛野麻呂はやっと顔から手を離して口の両端をにいっと広げ、

ふはっはっはっはっ!と声高らかに笑いだした。



薬子め、我が思いも及ばぬ悪辣な形であの帝に復讐してくれたな。

女ながら大したものだ。いや…女だから出来たやり口だ。


こんなに溜飲が下がったのは生まれて初めてだ!

と気の済むまで笑い続けた。


あれから8年。


遣唐大使の任をつつがなく務め従三位参議、中納言と順調に出世した葛野麻呂は…


「では、改めて問います。なにゆえ帝は私のお見舞いの品を拒み続けているのですか?」

と薬子が命婦三善高子の膝に蒔絵の箱を押しつけようとする。


「そうは言ってはおりません尚侍さま。私はこうして帝の代理で帝や夫人さまがたに直接届く品物をあらためるのが務めゆえ検品出来ないものは」


受け取れません。と負けじと高子もぐぐっ、と箱を押し返す。


宮女たちの職務と意地の張り合いがいま目の前で行われているのに、さて、どっちに味方すべきか?


ここは親友縄主の妻薬子どのにであろうか?いやいや、私に武術を叩き込んでくれた田村麻呂の妻高子どのにであろうか?


うむ、どっちも選べん。


と薬子の後ろでおろおろしている従妹で典侍ないしのすけの藤原和子に耳打ちし、ある人物を仲裁役に呼び出した。


「大体、たかが従五位下の命婦ごときが尚侍である私にいちいち盾突くなど以ての外ではありませんこと?」


「失礼ながら尚侍さま、私は私の職務を果たしているまでの事、ここでお品を改めさせていただかないと」

と高子がつとめて平静に答え、

「何ですって!?」と薬子が声を荒げた所で


「ここは宮中ですよ、お静かに」


とぴしゃり、と鞭で打つような声で、酒人内親王さかひとないしんのうが女同士の諍いを止めた。


彼女は第49代天皇、光仁帝と井上内親王の娘で桓武帝の異母妹であり、伊勢斎王を務め上げた後で桓武帝の妃になり、後に平城上皇妃になる朝原内親王を産んだ。


現在の宮中で生まれも格式も経歴も比類のない女人は…皇女で先々帝の妃で上皇の姑で帝の叔母である酒人内親王。

だということを葛野麻呂は思い出し、急遽仲裁役にとお越し頂いたのだ。


「こ、これは酒人内親王様」


薬子と高子は驚いて酒人の足元で団扇を掲げて拝跪した。


「さて、藤原種継の娘」

「はい…」

「先程からお前たちの諍いを見ていましたが分をわきまえていないのはそなたのほうです」

「な、何を根拠にそんなことを!?」


と反駁しそうになる薬子を、酒人は冷徹を極めたひと睨みだけで黙らせた。


こ、これが最も長く桓武帝に仕えた妃の貫禄か…と彼女の放つ威厳だけで薬子は頭を押さえつけられた心持ちになる。


「命婦に対して『たかが』と言うのは聞き捨てなりません。

いいですか?命婦とは古来は三種の神器を守護するお役目。今でも宮中祭祀と皇族のお世話を仰せつかっている重要な役職なのですよ。命婦がいないと宮中の全てが回りません。それが解らないお前ではないでしょう?」


「…」

それにね、と酒人は薬子を見下ろし、


「『たかが』尚侍でしかないお前が内親王である私に反論しようとするなんて、笑止。慣例通り命婦に見舞いの品を渡すことね」


と美貌のお顔にくすり、と口元だけの笑いを浮かべた酒人は薬子がわなわなと震えながら言う通りにして場を立ち去るのを見届けると、


「すぐに箱の中を改めなさい」

と高子に命じ、中身が絵画の道具と筆だと確認すると葛野麻呂には聞かれないように、


(顔料に毒が混じってるやもしれぬ。こっそりと和気広世に届けて調べてもらうように)


と素早く耳打ちしてから、


「お前も大変ですねえ中納言」


と、彼の父の小黒麻呂の代から尽くしてくれる北家の寵臣にしみじみと同情の言葉をかけた。


「は…内親王様におかれましてはわざわざお足をお運びいただいて」

と葛野麻呂は酒人内親王の御前で本気の恐縮をした。


この臈長けた皇女は黒々とした豊かな髪を左右に分けて腰まで垂らしていて、化粧も衣装も若作り過ぎて、実際の年齢が解らない。

確か50半ばと思われるが…


「まったくねえ、中納言ともあろう者がいち宮女を増長させるなんて、情けない。どっちつかずのお前も悪い」


同情の次は嫌味か!


とぽんぽん言葉を浴びせて来る酒人に内心たじろぎながらも葛野麻呂は感じの良い笑みを崩さなかった…


唐楽の宴の七日後には舞の上手は誰かを競わせる舞楽の宴、その五日後には朗々と漢詩を読み上げての漢詩の宴、と手を変え品を変え続けられる、


平城上皇の午睡を妨げる騒音嫌がらせにとうとう上皇の心身の疲労は限界に達し、


「もう我慢ならんっ!平城宮の工事が終わり次第出て行くっ!」


と翌年正月の宮中行事を終えたら直ちに平城京に移る。日にちは延ばさん。


という旨の上皇直筆の文を使者の葛野麻呂から受け取った嵯峨帝は確かに兄上のご筆跡だ。と確認してやっと…


これで、切り離し工作の第一段階は済んだな。


と肩の力を抜いて宴に参加してくれた貴族の若者たちに、

「皆の者、今日までご苦労だった。存分に褒美を取らす。望む物を言うがよい」

と宴の終了と恩賞を宣言したが、皆首を振った。

どうしてだ?と嵯峨帝がお尋ねになられると貴族を代表して藤原三守が、


「皆、上皇さまに早くここを出ていってもらい仮初めの二都政権を作らせる。という帝の遠大な計画を察して参加した者たちばかりです。ですから我々のまことの褒美は物や金子ではなく」


と上皇が住まう御殿の方をちら、と眺めやって

「帝の計画が完全に成ること以外私達は望みません」


と藤原三守、藤原冬嗣、橘逸勢、良岑安世、佐味親王、そして空海らは真っ直ぐに顔を上げて嵯峨帝への忠誠を誓った。


これから年末年始の儀式、上皇の平城宮への引っ越し、そのためには旧都平城京も体裁良く整えなくてはならず朝廷の経費がかさむ一方であること知っている彼らなりの配慮を察した嵯峨帝は、


皆、済まぬな、済まぬ…。と両膝をぐっと掴み、

「相解った、事が成った暁にはお前達の出世でこの恩を返す」


と水面下で始まった政変の必勝を腹心の部下の前で誓った。


「あーあ、唄いすぎて喉がひりひりするよ。空海、お前も広世どのの家に行かぬか?」


となんだかわざとらしい口調で逸勢が誘うので、


和気広世どのはこの国一番の医師で薬草の扱いに長けていらっしゃると聞いた…是非お会いしたい。と久しぶりに知的好奇心に火が付き、


「ええですねえ」と逸勢の牛車に同乗して和気広世の邸を訪ねた。


「私は一応上皇さまの侍医であったので宴には参加できませんでしたけど…あなた、坊さんにあるまじき悪辣な人なんですねえ」


と会ってすぐに広世に指摘された空海は彼が作ってくれた薬湯を思わず吹き出しそうになった。


「ま、こういう訳で広世は嘘は言えない性格なんだ」


と逸勢は空海の肩を掴んで笑って説明したが、初対面でいきなり悪辣坊主呼ばわりされた空海は腹が立ったけど…


自分の本性はそうかもしれへんな。


と広世の評を案外すんなり受け入れた。


「あなた、坊さんにしては素直だな。他の坊さんなら激怒する所だぞ」

と広世は彼なりに空海の人となりを試したらしい。


試された、と解っても別に怒りは沸いてこなかったし、さっき飲んだ薬湯が効いて喉の腫れが引いている。


「ついでに季節の変わり目の風邪に利く煎じ薬も合わせて入れておいた」


このお方は口は悪くて多少腹黒い所もあるけれど、医師としての腕は確かだ。


「いやはや、見事な診察。この空海畏れ入りましたぞ」


「今をときめく空海阿闍梨に言って貰えると嬉しいなあ」


と広世は照れて鼻の先を指で掻いた。

これが本気で喜んでいる時の彼の癖であることを知っている逸勢は、最澄寄りの広世まで空海にたらされてしまったぞ!と内心驚いた。


「ところで、この薬湯には葛も含まれてましたね。あれは吉野の山中でしか採取出来ない高級品。さすが貴族のご身分ですなあ」


ほう、良く気づいたね。と広世は目を見開き、

「実は和気氏は父の代から吉野に住む者たちと繋がりを持っていてねえ、今回は逸勢を使ってあなたをここに来させた。あなたに会わせたい者がいるので」


と広世が手をぽん!と鳴らすと失礼します、と言って入ってきた武官の顔に、空海は確かに見覚えがあった。


たでどの…」


「あれから十年は経ってお互い少し老けましたかな?」


と吉野の修験者で空海に医術と薬草、山野の植物の知識を教えた蓼が細い目と太い眉、昔と少しも変わらぬ穏やかな顔で空海の前に現れた。


外に虫の音を聴きながら、二人の貴婦人が銀の杯を傾けてささやかな酒宴を楽しんでいた。

「薬子の母方が医薬に長けた家系だとは知っていましたが、あの附子ぶすの毒の製法を何処から入手したのかはいくら調べさせても謎なのです」


と貴婦人のひとり、酒人内親王が焼き栗を口に含み、それをつまみに杯を進める。


「昔、藤原仲麻呂が渡来人から処方を手に入れ、安積親王はじめ都合の悪い者全てを殺した毒…それかもしれませんわね、お母様」


ともうひとりの貴婦人、朝原内親王が煎った豆をかじってぐいっと杯を空けた。


「まったくあなたは…薬子に毒で殺されかけたのに動じないのね」


我が娘ながら朝原は時々掴めないところがある。

それは、朝原が幼い頃伊勢斎王に選ばれ離されて育った13年の隔たりか、それとも朝原自身の清庭さにわとしての能力のせいか…


「薬子が増長するのは、ここ20年間皇后が不在、という異常事態が続いたからです。


亡き乙牟漏おとむろさまは藤原式家出身ながら、少しも驕ったところがない素晴らしい皇后さまでした…その皇后さまが生んだ安殿さまと神野さま。全く正反対の気質の皇子が生まれたのはなぜ?」


「天皇家の悪い血が上皇さまに流れてしまった。とお母様は思っていらっしゃるのでしょうけど」


朝原には私の考えが全て解ってしまう。こうやって飲酒している時には尚更その能力が研ぎ澄まされるらしい。


「安殿お兄さまの御病は血のせいじゃないわ。お父様の子育ての失敗が原因なのよ。失敗を認めたから神野を慎重に育てた…その違いしかない。問題なのは」


とそこで朝原は言葉を切り、我が母にも言えない桓武帝が犯した罪、藤原種継暗殺の報復を狙っている薬子の手の中に、上皇さまが抱かれている。ということなのだ。


まったくお父様は、始末に負えない「負の遺産」を私達皇族に遺してしまわれたのね。


虫の音が美しく響いても、いくら酒を飲んでも嘆息するばかり…葛野麻呂の動向も気がかりだし、

「あ、そうだったわ」

と朝原はすっかり忘れていたある事に思い至り、たん!と銀杯を取り落とした。


自分で蒔いたものは、自分で刈り取らなくてはならない。それは私も同じこと。



こうして自分の膝の上で寝息をお立てになる上皇さまを見るのは二月ふたつきぶりかしら?


と平城上皇の安らかな寝顔を見つめて薬子は

あの血気盛んな貴族の若者たちの、敵意に満ちた宴を思い出して悔しさで唇を噛み締めた。


滅多に外出を許されず、決められた務めの日々の中で過ごす宮女たちにとっては美しい憂さ晴らしだったのかもしれない。


しかし、上皇さまにとっては昼も夜も眠れぬ地獄の日々だったのだ。


まさか、帝があんな強引な手段で上皇さま追い出しにかかるとは!


まあいい、私は上皇さまを守るためならもう何でもする。と決意した。


既に私は手製の毒で試しに何人も殺め、伊予親王さえ葬っているのだから怖くはないわ。


薬子が附子の毒を使った丸薬の処方の書き付けを見付けたのは、父種継の遺品を整理している時だった。


書物の表紙の中に隠されていた古い紙には附子の原料である鳥兜の栽培からその塊根である附子の、毒にも薬にもなる精製の仕方、果ては人が服用した時にどれくらいの刻限で効果を発揮し、死に至るかまで詳細に書き付けられていた。


最後に、

「此を悪意を以て人に用いるならその者は自分で此を仰いで死に至る破目になり家は滅びる」


と厳重な忠告まで書き添えられて強壮剤以外の使用を固く禁じる添え書きまで書いてあったのに、


お父様がこの毒を使って邪魔者を退け、式家を盛り立たせよと言っているに違いない。


と思った薬子は早速奈良の実家の庭で鳥兜の栽培を始め、附子の精製から丸薬の完成まで全部自分一人で行った。そして…危険な実験を開始した。


鳥や鼠で一粒。犬で三粒。人では、物乞いの飯に混ぜて与え、心の臓の発作で死ぬまで六粒で四半時(約30分)かかることまで実験で知り得た薬子は、


早速気に入らない貴人の妻に自分からと解らないよう菓子に丸薬を混ぜて贈り、


数日後、なんでも急な発作で亡くなったらしい。とその家の使用人から聞かされた時、薬子の胸中には罪悪感よりも、


これでお父様の仇を討ち、悲願を達成出来るわ!という達成感が溢れた。


藤原家の先祖から薬子に偶然渡された負の遺産は、証拠のつかない毒薬、附子。


しかしそれは強心剤ともなりうる薬だったのに…毒薬としての使用法を選んだのは薬子自身だったのだ。


おほきみ

お前は愛する上皇さまを完全に敵に回した。だから、お前に跡継ぎの皇子など決して生ませない。


「さあて、橘の夫人さまに贈った絵画の道具はちゃんと届いたかしら?」






















































































































































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