第7話 菜摘7 仏への道

「わしの名は戒明かいみょう、この庵のあるじじゃよ」


と老僧は名乗り、沸かした湯で干飯をもどした湯漬けの椀と箸を真魚に手渡した。


都を出て以来の温かい食事にありつき、真魚ははふはふ言いながら箸で飯をかっ込み、すぐに椀を空にしてしまった。


その様子を戒明はにこにこ見ながら

「その様子じゃお前さん、崖に身を投げに来た訳じゃなさそうだね」と安心したように言った。


え、あの崖は自殺の名所だったのか?真魚は驚いて顔を上げる。

「さっき月を眺めたあの崖にはね…よく来るんだよ。食い詰めた庶民たち、何かの諍いに敗れ、都から落ちのびる元貴人、

そして、大学寮での厳しすぎる勉学で精神錯乱を起こした学生」

と言葉を切って真魚を見る。戒明のひとみが、灯火の中で光ったように見えた。


「わしの役目は、崖から身を投げようとする人びとを説得し、或いはその後の生計を立ててやったりもする。いわば崖の庵の説教坊主じゃ」


「お見立ての通り私は大学寮から逃げて来ました。でも、学問に疲れた訳じゃなくて…」

と真魚は自分がここまで来るようになったいきさつを語り出した…


満月は次第に西に傾いて、真魚が話し終えたときにはすっかり真夜中になっていた。


「そうか…長岡京の惨状は噂に聞いていたがそんなに酷いものだったのか。

おまえさん、お上の限界を自分のまなこで見てしまったんだねえ。

政では人は救えない、か。それも一つの真実だ…おまえさん年は?」


「年が明けたら十九になります」


「どうせ行く当ても無くここまで来たんだろう?」


「はい…」


真魚は自分のこれからと現実を考えて、うなだれてしまった。

何をしようか一向に思い浮かばない…


「お若いんだから、ゆっくりと自分の身の振り方を考えるがいいさ。

わしも年で体が思うようにいかなくてね、冬越えするまえに誰か使用人を雇おうと思っていたところだ。

ひと冬、身の回りの世話をしてくれないか?出家の身ゆえあまり給金は出せないが…」


と戒明はくりや(台所)と座敷と、書棚には経典の巻物しかない自分の庵を見回して、真魚に提案した。


「いいえ、置いてくれるだけでも有難い!給金は要りませんが、その代わりに」

「何だね?」


真魚は久しぶりに目を輝かせて、言った。

「漢詩を、唐語を教えていただけませんか!?面白いし、もっと知りたい!」


「よろしい。唐語も話し相手がいなくては忘れてしまうでな」

と戒明は快諾した。


やがて、山に冬が訪れ、明け方と晩には体も動かしたくない程の寒さになった。


庵の戒明と真魚も、厠と水汲み以外には火鉢を二人で囲んで衣を着込み、漢詩、史記、論語などを唐語で暗唱して寒さをしのいだ。


戒明は、真魚の学習能力に驚嘆しながらこう洩らした。

「李白をはじめ、王維、孟浩然、さらには聖武朝の懐風藻かいふうそうまで覚えるとはな…真魚よ、お前さん明経科ではなくて文章科に入った方が良かったかもな」

「しかし、文章では出世できないと叔父に言われました」

「で、こうして出世とは真逆の道にある坊主の話し相手になってる顛末かい?」

と戒明は笑って皮肉を言った。


もう他には仏教の経典しか読ませるものが無いぞ、と老僧が呟いて経典を取ろうとした時、

「私は仏教は嫌いではありませんが、東大寺の僧たちは大嫌いです」

と真魚は平城京での失望と屈辱を思いだして顔を怒らせて言った。


あんな醜い坊さんたちの仲間になど、なるもんか!


「訳は最初に聞いたよ、奈良の僧侶たちにいじめられたそうだね…

わしも今の東大寺の有り様が嫌でこうして山に引っ込んでいる身だ。


しかし、僧たちの全てがならず者ではないし、仏教を否定されるのは、わしが一生かけて学んだことを否定されるようで、

正直、心が傷つく」

と本気で戒明は傷ついた顔をした。


「申し訳ありません、悪気はないんですが」

と真魚は首をすくめた。


「じゃあ、これから話す事は年寄りの独り言と思って聞いてくれ。むかし、天竺(インド)の釈迦族に生まれた王子の話だ」


仏教の祖、釈迦の一生なんて何度も故郷の寺で聞かされた話じゃないか、と思って真魚は老僧の話を形だけ聞き始めた。


「…豪華な宮殿と王子という身分、美しい妃と可愛い子に恵まれながらも、王子の心は虚無に満ちていた。

一日一日を生きていくのさえも、苦しいと思っていた」


「なぜですか!?」

とつい聞き返したくなるくらい、戒明の語り方は魅力的だった。


「人生の最初から、全てを持っていたからだよ。

いいかい?真魚。人は、地位、家財、家族を多く持とうと出世を目指して人生を送る者がほとんどだ。だが、持ちすぎた瞬間から…


人生さえもつまらなくなってきて死にたくなるくらい絶望するものなんだよ。


王子だけではない、これは、都の貴人から海の漁夫いさりおまですべての人が抱えている心の問題だ。


真魚、仏教とはな、生きるため、人を生かすための道なのだ。ここから釈迦の出家ばなしをするが、覚悟はいいかい?」


「はい!」と真魚は改まって姿勢を正した。


佐伯真魚十九歳。唐帰りの僧、戒明によって本格的に「仏への道」が開かれた。



釈迦二十九歳で出家から八十歳で入滅するまでの物語は、なんと華厳、法相の経典を教材にして真魚に読ませながら語られた。


戒明も、人が変わったように厳しくなり、真魚も大海のような釈迦の教えの言葉たちの中に溺れそうになりながらも、

必死で老僧の講義に喰らいついていった。


或る王子の一生の中で伝えられた言の葉の…なんと膨大なことか!



庵のきびしい冬が終わり、やがて、山笑う春が来た。


荷車を驢馬に引かせて歩く、ひとりの僧が崖の上の庵に向かっていた。

今年四十になる中年ながらも、僧の体つきはしなやかな筋肉で引き締まっている。


庵の入り口に着くなり僧は戸をばんばん叩いて

「おーい、じいさん生きとるかー?わーしやわしや、勤操ごんぞうやー!」

と銅鑼を鳴らすよりもけたたましい声をわざと張り上げた。


「はいはい、あるじはいらっしゃいますよ…なんと騒がしいお客なんですか!?」

と戸を開けて応対してくれたのが小柄な若者だったことに、勤操はけっこう驚いた。


「なんや、じいさん使用人雇ったんかい」

と勤操は真魚を押しのけるように庵の中に入り、文机に向かっていた老僧が自分を見つけて元気そうに手を挙げるのを見てほっとした。


「じいさん生きとったんか!毎年この時期になると、独りで冷たくなって庵の隅に転がってないかと心配でたまらなくなるんだが、

使用人雇ったんなら一安心や」


どうやら戒明さまは来訪した僧と昵懇らしいが…来るなり滅茶苦茶口悪いな!と真魚は呆れて勤操の精悍な横顔を見た。

「真魚。この行儀の悪い僧は勤操というてな、こうやって定期的に食糧などを運んでくれるのだよ。弟子の一人のつもりだ」


つもりって…と勤操は絶句した。


「じいさん四か月ぶりに会う弟子に何ちゅう言いようや!せっかく食いもん持ってきてやったのに。ほら、若者。荷車から食料をとっとと運べ!」


と真魚に用事を言い付けて、勤操はごろり、と戒明の傍で横になる。


「じいさんが好きな『あれ』も持ってきましたで」

と寝たまま顔を上げ、勤操はにいっと笑った。


「ご苦労」

米や野菜や干した海藻を厨に運ぶまでは良かったが、最後に一抱えもある大きな壺が二つあり、さすがにこれは真魚の腕力では無理だった。

「あーあ、若いのに情けないな」と勤操も手伝ってやり、荷物を全部所定の位置に運び終えた。


「ええと、勤操さまでしたっけ?この壺の中のものってまさか」

と壺の口から真魚が苦手な「あの液体」の匂いがぷんぷんする。


「酒だよ」

と勤操はそれが何か?としれっとした顔で答えた。


ああ!それよりな、と僧衣のふところから紙を出して読み始める。


「都から捜索の願いが出ている若者がおるんや。なんでも偉い学者の親族で、大学寮から逃げ出した将来有望な若者らしい。

ええと、特徴は、年は十九から二十だが、体格は小柄、色白で、女人のようなつらをしていて、顎の中央にある黒子ほくろが一つ…」


とそこまで読み上げてから、真魚の顔をまじまじと見た…勘の良い真魚はさっと転がるように走り出す。


「待たんかい!」勤操と真魚は庵の中をぐるぐる回って追っかけっこをしていたが、「ばかめ、脚じゃわしに敵うもんおらへんのや!」


とたちまち勤操は真魚を押さえ付け、その小さな背中を片脚で踏みつけてしまった。


「さて勤操、真魚をどうするつもりかね?」

戒明は届いた壺の口を開けて、早速中の酒を杯でぐびり、と一口飲んで「いい酒だ」と満足そうに肯いてから尋ねる。


「もちろん金や。その偉い学者さんにこいつ引き渡してたんまり褒美貰うに決まっとるやんけ」


ぐっふっふ…と勤操は両手の指でなにかを揉みしだくような動作をした。


「相変わらず金銭欲と物欲のかたまりだねえ…お前、それでも大安寺の僧か?」


「昼間から飲んどる坊さんに言われたくないわ!じいさん縄はあるか?」


中年僧に組み敷かれながら真魚は、

ああ…私はどうして、会う僧会う僧みんな、破戒僧ばっかりなんだろう!?と泣きたい気分になった。


「わしに免じて真魚を許してやってくれないか?」と戒明は文机に杯を伏せて、しばらく考え事をした。

「叔父の大足どのと大学寮にいつまでも心配をかけるのはいけないし、消息は知らせておかないと…

そうだ勤操、大安寺のお前預かりということで、近く正僧(東大寺で出家した正式な僧。僧尼令では国家公務員待遇)に

するべきだ、と文を送れば阿刀大足も納得するじゃろうて」


「阿刀大足ぃ!?皇族の侍講(家庭教師)やってる大学者やないか!お前、その甥か」


と勤操はまだ踏みつけている真魚を見下ろして、本気で驚いた。


「わしの大事な『弟子』じゃからな」


戒明が真魚を弟子、と認めたことに、勤操はぴくり、と眉を跳ね上げた。


「まさかじいさん、一冬かくまっている間に仏道を教えたんじゃ」


「ああ、唐語、漢詩文、華厳と法華の教え。暇じゃから全部教えた…恐ろしい子じゃよ。この庵にある巻物は全部真魚の頭の中にある」


「何だと!」

とやっと背中から脚を離してくれた勤操に真魚は多少の怒りを抑えながらも、どうも、と首をすくめた。


「じいさん、この青年を本格的に仏教の道に?」


「わしはそう思っとる。で、ひとつお願いなんじゃが」


「じいさんの頼みなら何なりと」


と初めて勤操は戒明の前で畏まった。


「真魚に一通りの仏道修行をさせてから、本格的に僧侶になるか、大学寮に戻るか考えさせたい。

真魚の勉学し過ぎで血が上った頭を冷やしてやってくれないか?体を鍛える目的でね」


そう言って戒明はぐすり、と笑った。


な・る・ほ・どね、と勤操は口元に怪しい笑みを浮かべてから、


「拙僧のやり方なので、少々きつく揉んでやってもよろしいですか?」


「思いっきり揉んでやりなさい」


真魚は、嫌な予感がした。


髪を束ねて丸く結ったもとどりを剃刀で躊躇なく落とし、勤操は慣れた手つきでばっさばっさと真魚の髪を梳いた。


そして戒明の衣と袈裟を着せてやり、

「よし、これで形だけはいっぱしの私度僧や」

と断髪して簡素な僧衣を着た真魚の姿に勤操は満足そうに肯いた。


「さて、外に出るで。付いてこい」と勤操は真魚の手を引っ張って杖を持たせて「十日間ほど真魚を借りますわ」と言い置いて庵を後にした。


「いまからどこに?」


寒気がすっかりゆるんできた山中を歩きながら、真魚は勤操の広い背中に声を掛けた。

「今から山二つ越えて、あんたの頭冷やすのにちょうどええ打たれ甲斐のある滝へ向かう」


山二つ!?と真魚は聞き返した。


「冬ごもりで鈍った足腰を鍛えるんに無理ない行程やろ?」

振り向きもせず早足で歩きながら勤操は言った。真魚は、ついていくだけでも息が上がるほどだった。


一時(二時間)も経たぬ内に、目的地の滝に着いた。そこは、緩い勾配の崖から青々とした滝壺が見下ろせる絶景であった。


「勤操さま」と崖の淵から滝壺を見下ろしながら真魚が聞いた。


「どこに、打たれる平地があるというのですか?」


滝の下の水深はかなり深そうだが…


「まあ…人間も風景も、見た目だけでは分からないということもある。四の五の言わずに飛び込め!」


真魚が振り返ろうとする時、勤操が片方の足を見事に垂直に上げ、真魚を崖から蹴り落とした。


悲鳴を上げるゆとりも無かった。

真魚の視界で、風景がぐるぐると回ってやがて、冷たい水の中にどぼん!と体が落とされた。


自分の五体が碧い水の中に沈み込み、溶け込ていくような錯覚を覚える…


ああ…水の中から見る日の光は、なんと美しく優しいのだろう!


ふと目の前を、一匹のうおが通り過ぎた。真魚はそれを捕まえようとしたが、たやすく魚は逃げて行った。


このまま冷たく清浄とした水の世界にずっと浸っていたかったが、やはり…息が続かない!


真魚は水面に向かって泳ぎ、やっと顔を水から出してぶはあっ!と息を吸い込んだ。


「はっはっはあ、こっちまで泳いで来ーい!」と滝の真下で勤操が白衣に着替えて笑って真魚を待っている。


どうやら滝の真下はくるぶしが浸かるまでの深さしかないようだった。


「な?上から見ただけではわからん山のかたちが、こうやって飛び込んでみて初めて分かるのだ。


山を這うて山のことわりを知る。それが、山岳修行というものだ」


真魚も勤操の隣に並んでしばらくの間滝の水に打たれた。


頭頂にかかる水が、学問の疲れや、都に置いてきたもの、叔父の期待やお上への絶望などを洗い流してくれる。


「少し休もか?」と勤操に言われて滝の下で両の目を開けた時…


真魚の周りの風景が滝に打たれる前とは一変していた。


伸びゆく木々、芽吹く若草、水に洗われる石、空を横切る鳥。手から逃げた魚と同じだ。


皆、自然の理の中でそれぞれの生を自由に生きているではないか!


「勤操さま、人も、草木のように自由に生きることができるのでしょうか…?」


真魚の両目からはいつの間にか涙が溢れだしていた。


「それを自分なりに追及するのが仏の道っちゅーもんや」


こうして南都六宗の一つ、三論宗の僧である勤操の指導の元、真魚の厳しい山岳修行が始まった。








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