嵯峨野の月

白浜 台与

菜摘

第1話 菊花

昔、とある貴人のお屋敷に風変わりな娘が仕えていた。


女性が白粉を塗って化粧しているのが当たり前なこの時代に、娘はずっと素顔で居た。


可哀想に、化粧道具も持たされなかった位実家が貧乏なのね…


と家に仕える他の使用人たちは陰でくすくす笑って娘を遠巻きに見ていたが、直接苛めたり嫌な言葉を投げつける事も無かった。


それはなぜか?


不吉な娘、と噂が立っていたからだ。


娘は3つの頃に父親を亡くし、その父親、つまり娘の祖父は…罪人だったらしい。


だからここに仕えるしか道が無かったのよ。放っておきましょう、あれでもそつなく仕事が出来るのだし、


うかつに近づくと、祟りがあるかもよ…


タタリタタリってかまびすしいわね。この国の人って「見えないもの」を恐れ過ぎなのですよ!


ひとりぼっちの娘にも、話し相手が出来た。1つか2つ年下の女童で、自分は海の向こうの王家の末裔だと言った。


もう滅びた国ですけど、と何の感慨もなく明鏡みょうきょうという名のその女童は言った。


王家と言っても傍系も傍系で実家は貧乏、あたしもこうやってお偉いさんの屋敷に仕えて行儀見習いでもしてろ、って追い出されたクチなんです。


ああだからこの子は幼いながらも彫りの深い顔立ちをしているのか、と娘は思った。


「でもここのご主人はすでに正妻さまがいらっしゃるし、浮気者だし、今お手が付いたとしてもその他大勢ですよ。あーあ、運が無い…」


「わたしはこのままでいいのよ」と娘も明鏡の屈託の無さに心を開き、毎夜枕を並べてひそひそお喋りをするようになった。


「欲の無いひとですね…あなたなかなかきれいなのに。せめて簪(かんざし)くらい挿して下さいよ、垂髪のままで変わり者だと言われてますよ」


急に静かになったな、と娘が思って見ると仕事に疲れた明鏡はすでにくうくう寝息を立てていた。


こうして一日が過ぎていくだけで、いいの…


実家を出た日、太陽の近くで五色に輝く雲を見た。


おお、見なさい。これは彩雲…吉祥なり!と後見役の親戚が大袈裟に言っていた横で、自分はぼんやりと違う事を考えていた。



あの雲みたいに高い所まで行けたら、自分はどんなに気楽だろうか。



日に焼けた両掌の上には、二股に分かれた菊の花が載せられている。


きっと鷹狩の帰りに野で摘んだのだろう。若者は花を娘に差し出して、「…名は?」と問うた。


この時代、男に問われて娘が名乗るのは、求婚を受けたという意味である。


このお方は判っていらっしゃるんだろうか?そうとも知らない無骨な人なのかしら、と思って娘はふと若者の顔を見た。


白目が青みがかって、実に澄んだ眼差しをしている若者だった。鼻梁がすっとしていて顎が細い。


健康そうに日焼けしていても品の良さがにじみ出ている顔だちだった。


あ、明鏡ちゃんに似ている…と娘は若者の顔を見つめていたが、すぐに事の重要さに気づいてひゃあっ!と悲鳴を上げて両袖で顔を覆った。


「申し訳ありませんっ…申し訳」


「いい、悪かった」と頭上から声がして、しばらくしてから顔を上げると若者は居なくなっていた。


自分の前髪に違和感があったので触って引き抜いてみると…先程の野菊が挿されていた。


かんざしくらい挿して下さいよ。


という明鏡のことばを思いだして娘は急に自分が恥ずかしくなった。


娘は自室に持ち帰った花を花瓶に生けると、部屋の隅にある厨子の中の小さな仏像に供えて両手を合わせて拝んだ。


この時だけが自分は心が休まります…娘はこの日に限って、長い時間仏像に向かって拝んだ。


窓の格子からすっと夕陽が入り込み、娘の横顔を神々しく照らすのを



美しい…と魂奪われたように見入る人影があった。



それから数日は何事もなく過ごしたが、夕方近くになると1本、野の花が投げ入れられている事が何度かあった。



その夜は、明鏡は早めに寝入っていたので娘はなんだか寂しい気持ちで長い髪を垂らし、頭を枕に預けた。


秋も深まって来て風がひんやりしている…と思いながらも自分は寝入ってしまったようだ。


野原の中で一本の紫色の菊花が咲いている。それを摘もうか摘むまいか迷っている自分が居る。そんな夢を見た。


それが夢ではない、と気づいたのは、実際にその花が目の前にあったからだ。


例の若者が自分の寝所に入ってきている。両手に一本の野菊を添えて「…名は?」と問うた。


「嘉智子…橘の、嘉智子」と思わず娘は名乗ってしまった。


若者は初めて表情を緩めて「私は親王、神野」と名乗ってからにこっと笑った。


しまった、名乗りが成立してしまった!


と嘉智子が思った時には自分のからだは若者に組み敷かれてしまっていた。


嘉智子は助けを求めるように床の隣の明鏡に顔を向けたが、明鏡はすでに起きて床の上で拝跪し、指示待ちをしている状態だった。


「朝になったら迎えに参れ」という若者の言葉には、とだけ言って明鏡は部屋をするりと抜けてしまった。


明鏡ちゃん!?


どうして、どうして!?と混乱している嘉智子の震える顎を若者は片手で引き寄せ、


「やはり美しい…」と頬擦りをしてから「恐れないで、全て、私に任せればいいのですから」と囁いてから自分の唇を嘉智子の唇に押し当てた。


もう一方の手は慣れた仕草で夜着を剥いで、嘉智子の白い肌を撫でていく。


若者の愛撫にしぜんな反応をしてしまう自分の体に驚きながらも、嘉智子は自分が一番望まない事態がとうとう来てしまった自分の運命を恨んだ。


どうして…どうして人は、自分の思うようには生きられないのでしょうか?


この夜、桓武帝第二皇子神野親王、後の嵯峨天皇と後の檀林皇后、橘嘉智子の初枕にいまくら(初夜)が執り行われた。


延暦20年(801年)のうすら寒い日の朝、神野は嘉智子の残り香の中で目覚めた。


床の隣を探るとひと時前まで肌を合わせていたひとがいない。


神野は慌てて夜着の前をはだけたまま起き上がった。


夜着がはらり、と落ち、貴人の男子にしては筋肉が発達した15才の裸体が露わになる。


「どうぞ、お風邪を召さないよう…」と横から小袖を掛けてくれたのは、


前髪に簪二本と笄を差して後ろ髪を一髷にまとめ、吉祥天女を元にした宮中侍女の礼服姿の嘉智子だった。


…これは驚いたぞ。


他の女人は初めての契りの後では泣くか拗ねるかするのに。


このひとの落ち着きぶりはどうだ?


宮中に来て初めて顔に薄く化粧をし、眉間に緑色の四弁の花びらを象った花子かしを付けた嘉智子の顔はまた美しく、神野はずっと見ていたかったが嘉智子は自分の後ろに回って櫛で髪を整えて帽子もうすを被せてくれた時に


「わたくしは、親王さまづきの侍女ですから」


とか細い声で言われた言葉に神野は寂しさとすまなさの入り混じった苦しい気持ちに襲われた。


思わず帽子を整える嘉智子の手を掴んで、


「夜になったら…また来る」と言った。朝服を着せられた神野が部屋を出る時振り返って、


「昨日の今日だから仕事はほどほどにしていい。私から他の者に言い含めておくから」


と言い置いて部屋を出て行った。



「夫」になったばかりの若者を見送ってひとり嘉智子は佇んで…やがて切れ長のからは涙がはらはらとこぼれ出る。



これが…これが、実家の橘家と、後見になってくれた藤原北家の目論見だったのです!



部屋の隅でしゃくり上げる嘉智子の背中をそっと撫でてくれる小さな手は明鏡のものだと解っていた。


「嘉智子さまぁ…」


「あなたが手引きをしたのね?」


明鏡の手がぴくっ、と止まった。すいません、すいません…と鼻をすすり上げる童女の声が背に覆いかぶさる。


「皇子さまの命令には逆らえませんでした…すいません…」


「そうよね、もう引き返せないのよね。泣くのはもうこれきりにするから、今だけ…」


と嘉智子は明鏡の小さな体を抱き寄せて嗚咽する。


嘉智子と明鏡は抱き合って、思う存分泣いた。



その日の昼遅くのこと。


明鏡は神野親王の私室に入るとまた、部屋中が漢詩文が書かれた紙で散らかっていた。


親王さまったら、また!と明鏡は呆れたが、神野が筆を走らせる時は、


すこぶる機嫌がいいとき、なのである。


「墨が乾くまで触るな」と横顔に微笑みを浮かべながら神野は言った。


「嘉智子は落ち着いたか?」


「やっと落ち着かれました。が、あれは抑え込んでいるのです。しばらくお慰めしなくては」


「おまえのことだ、どうせ嘘泣きをしたんだろう?」


「子供の嘘泣きには誰でも弱いものです」


と言って明鏡はぺろっと舌を出した。


「で、昨夜はどうでしたか?」


「子供がそんなことを聞くものではない」と神野は筆を止めて明鏡のほうを向いた、が、その表情はなにか陶然としていて、


「今まで生きてきて、良かった…」とほう、とため息まじりに言った。


この御方は!と明鏡は舌打ちしたくなったがもちろん高貴の御方を前に出来る筈はなく、はあ、とだけ返事をした。


「橘家の娘が入侍して二か月…あんなに強情な女人は初めてだったよ。


懐柔策にお前を嘉智子に近づけて正解だった。


明鏡、おまえに何か褒美をやらねばな」


は、と明鏡はかしこまり「ですが、要りませぬ。こうして親王さまに仕えるだけで満足です」と首を振った。


「そう言うと思っていた」と神野が笑って筆を置いた時、侍女を二人連れて異母妹で正妻の高津内親王こうづないしんのうが私室に入って来た。


高津は神野より一つ年下の十四歳。父桓武帝の第十二皇女である。


なかなかの美少女なのだが、目元に生来の勝気さが出ている。


高津は足元に散らかった紙を見ると侍女に「乾いた紙から片付けなさい」


と煩わしそうに命じた。そして床の空いた場所に座ると、夫、神野のばつの悪そうな顔を見ながら


「お兄さまは、やっと季節外れの金柑(橘)をもぎ取りなさったようで」


と袖で口元を隠しながらくすくす笑った。


「嫌味な言い方をするなよ…それにいい加減『お兄さま』はやめろと言うのだ」


面倒なことになる前に、明鏡はそそくさとその場から辞退した。



「まったく、名族なれど落ちぶれきった橘家の娘との縁組なんて…父上は何をお考えなのかしら?

お兄さま気を付けてね。橘の家は呪われているのだから」


と高津が念押しして自分を見上げる眼差しは、本気で自分を心配してくれている。


生意気だが、性根の悪い妹ではないのだ。その瞬間、急に高津が愛しくなる。


「そんなにこまっしゃくれた事を言う口を、どうしてくれましょうかねえ?こうしてくれようか?」


と神野は高津の細い体を抱き上げると口づけで高津の花びらのような唇を塞いで帳張の中に連れ込んでしまった。


あ、しまった…お喋りが過ぎたらいつもお兄さまにこうされてしまうのだから。と高津は息を弾ませながら今頃後悔した。



事の起こりは三か月前、父、桓武帝の御前に呼び出された神野が告げられたのが、


「橘家の娘と婚姻せよ」という命令だったのである。


「なれど父上…いえおほきみ、『あの』橘奈良麻呂の孫ではないですか?」


四十六年も前のこととはいえ謀反の疑いをかけられ、獄死した橘奈良麻呂。その死にざまは杖で打ち据えられながらの凄惨な拷問死だったと伝えられる。


その後、橘の家は衰退の一途を辿っていると聞く…


「だからこそなのだよ。神野よ」


と灯火の光の中、久しぶりに対面する桓武帝は齢六十四。帽子からのぞく髪も髭も真っ白になり、お顔も細くなった。


父上は随分老け込まれたな、と会う度に神野は思う。


それもそのはず政争と粛清の嵐の中生き残った父に皇位が転がり込んで来たのは四十四歳の時。


藤原式家の娘で皇后乙牟漏こうごうおとむろとの間に神野が生まれたのは、桓武帝四十九歳の時であった。


「奈良麻呂の謀反、あれは冤罪だとちんは思うておる。わかるか?


『まだ何も起こっていない内に』密告と拷問による自白だけで奈良麻呂は殺され、四百人以上が粛清された。


これは藤原仲麻呂と女帝、孝謙による一方的な言いがかりだ…


朕は奈良麻呂の罪を濯いでやりたいのだ。頼むよ、神野」


頼む、とまで父に言われたら意見も抗弁もする途はない。


「また政略結婚ならお受けしますが、しかし橘家に宮中に入る支度金はあるのですか?」


こしゃくな口をきく息子よ!と桓武帝はからからとしゃがれた声で笑った。


「娘の後見は北家の藤原内麻呂が引き受けた。衣装も道具もすべて整えてある。吉日を選んでひと月後には入侍させる」


なるほど、いわくつきの橘家の娘だからこうして夜御殿よるのおとどに自分をこっそり呼び出して婚姻の話を持ち出したのだ。


しかも、自分の知らない内に話は整っているのだ。食えない父であるよ!


「神野よ、藤原だけでなく様々な氏族と婚姻を結んで力の均衡を保つのも帝王のつとめであるぞ」


我らが直系の祖、天智帝はそうやって国家を一つに束ねて来たのだ…と幼い頃から父に聞かされてきたのを、神野は思いだしていた。


「謹んで、お受けします…」


神野はそう言って父の元から下がると、最初は、まったく、父上はいつも二言目には「帝王として」だ!


と幼い頃から自分を学問だけでなく、体術の師匠に妻高津の叔父にあたる坂上田村麻呂を付けて、厳しく教育されてきたことに腹を立てていたが、


怒りが収まると次第に借り物の衣服と道具で自分と縁づくその娘の事が、いたく哀れになった。


橘家といえば女性で初めて文武帝から「橘」の姓を賜った県犬養宿禰美千代あがたいぬかいのすくねみちよと皇族美努王の血を引く名族ではないか。


正式な妻としてではなく侍女のひとりとして宮中に入るなんて…


よし、橘家の呪いだろうが、祟りだろうが、引き受けてやろうじゃないか!


この都はタタリなんぞ吐くほど喰らいつくしているのだ。


疫病、水害で長岡京を捨て、この平安京に都が移ったのは神野が七歳の時。


二度の遷都で国家が疲弊し、地方には飢えた民もいるこの世情に「平安」の「平」の字も「安」の字も人々の心に見いだせない。


平安初期とは、そんな時代であった。

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