濡れない無限
きのさきし
濡れない無限
0.0. 春時雨
今朝、わたしは天気が雨であるのを知って、すぐに外へ出る決心をした。洗面台の鏡に映るわたしの睫毛がこころなしか伸びているように感じた。きっとこの土地、この季節特有のアレルゲンへの防衛がはたらいている。そんな身体の些細な抵抗がかわいらしいと思う。わたしは身支度を整えて、フード付きの赤いレインコートを羽織って家を出た。朝食は近所のパン屋で調達するつもりでいた。
玄関扉を出るとひんやりとした雨の外気に包まれた。空気が洗われたかのように色彩が鮮明だ。実際、大気中のアレルゲンは雨で洗い流された。清浄な春の空気を胸いっぱいに吸い込むと、全身の細胞が沸き立つ。濡れたタイルが景色の光や影を反映し、滴る水が新緑を一層艶やかにする。車や人通りの少ない、ゆるやかなカーブのかかった沿道で、フードに落ちる雨音だけが聴こえる時間が流れる。
――急に激しく雨水を弾く音がして、前方からわたしより背の少し高い男の子が傘も持たずに駆けてきた。瞬く間に横を通り過ぎると、後ろ姿は道のカーブで見えなくなった。朝から元気だな、と思う。
雨が小降りになってきていた。ふいに手を握ると伸びた爪が手の平に触れた。握った手を軽く解き爪の伸びているのをほとんど無意識に眼で確かめた。視線を前にもどすと、車道側の低い草むらの近くに無地の黒い傘が開いたまま放ってあるのが見えた。骨の多いしっかりした傘で、壊れてない。この天気の中置き忘れていくものではないし、すぐに持ち主はさっきすれ違った男の子だろうと察した。なんとなくそうすべきだと思って、落ちていた傘を公園を囲む黒いフェンスに立て掛ける。ふいに、奇妙だと思った。わざわざ丈夫な傘を投げ捨てて走り去っていく理由。静けさを道全体にならしたような、平坦な代わり映えのない道の途中だ。ここで数分前に何かが起きたことを暗示しているのは、この傘だけだ。考えても、何を考えたらいいのかわからない。このまま立ち止まっている意味を感じないから、また歩きだす。散歩のおかげかほどよい空腹を感じ始めていた。
気がつくと雨はすっかり止んでいた。まばらになりはじめた雲間から、日差しが視界にコントラストを与える。フードを脱いで、風を感じた。雨滴がきらめいてる。大気の塵が洗い流されて、目が痒くなるアレルゲンはもう舞っていない。もっとも心地のいい晴れだ。歩いてきた道と垂直に交わる大道路の信号で立ち止まる。いくつかの人影がみえる。グレーの冴えない車両が数台、シャリシャリと水気を弾いて走り抜ける。
――青信号。背後からさっそうと自転車が風を切って抜けていく。中央分離帯に近づくころ、前から来た赤いレインコートの子に目を惹かれた。わたしより髪が少し長くて、背は同じくらい。向こうはまったくわたしに見向きもしていない。そのとき、何もなければわたしもすぐに視線を外したはずだろう。けれど、奇妙なものを見た。彼女の細い首筋に、シャボンのような淡い虹の光が漂っている。よく見ると全身の肌に光の模様が漂っているようだ。思わずわたしは立ち止まる。白い肢体を滑るように流れていた光の模様は、徐々に流れる速さを増していく。光の流れがあまりに速く水面のきらめきのようになったその刹那、彼女の躰は周囲の景色を曇りなく映し出す鏡になった。有機的な曲線に無機的な光沢を併せ持つ異常な肌の質感は、わたしに水銀を連想させた。
すれ違う瞬間、彼女はわたしに一瞥もしなかった。ただ何かをつぶやいた。信号は赤に変わり、私は中央分離帯に取り残された。
思考には始まりがあり、私はいつもそれを見ているだけで、いつ始まるのかさえ知らない。
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