まっしろな楽園の砂

太ったおばさん

楽園の砂

 巨大な造船所をもつ小さな島国があった。人口は七万人。七万のうち一人にドニプロパトロトリステキヴィスミジキという男がいた。北の海岸に面した家で質素な暮らしを送っていたが、最後にたくさんの人を殺した。人を殺す以前にも禁固刑に服した前科があり、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキを死刑にすべしと島中の雰囲気が沸き立ったが、警察は彼を見つけるのに少し手間取った。それは彼がうまく隠れていたからだ。総動員で彼の捜索が行われている中、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは教会に行った。それは彼の最期の日だった。土曜日だった。彼はバスを乗り継いで、前年に世界遺産のリスト入りした天井画のある教会を見に行った。隠れていた場所のすぐ目の前にあるバス停から島の中心部を経由して、そこから教会までミニバスを乗り継ぐ。初見の観光客にとって最も行きにくいと評判だった教会であったが世界遺産入りしたからか多少アクセスは容易になった。バスに揺られながらぼんやりとドニプロパトロトリステキヴィスミジキはそんなことを考えていた。分厚い雲のせいで薄暗い往来に看板がそこかしこに立っている。世界遺産への道を示している。観光客はいつも通りゼロらしい。バスはがらがらだ。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは変装したりすることなく、ここ最近の普段通りという出で立ちでバスに乗っていた。ボロ雑巾姿だ。すれ違う皆が思う、こんな老人になりたくない。しかしこの老人も昔はこんなじゃなかった。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキはあの嵐以降のことをよく思い返す。あの砂、そして妻のこと。バスが左折した。乗り継ぎの最後のバスだ。教会前まで行ってくれる。アベリアの生け垣を抜けると民家が少なくなり、上り坂、平らなところが見あたらなくなってくる。舗装が十分ではない道は乗り心地は悪いが景色は良い。広い海が見渡せる。山側には様々な看板が並んでいる。島出身の体操選手が最近オリンピックで優勝し、同時にバレーボールの代表も銀メダルを獲ったために国はこのところスポーツに力を入れるようになった。アスリートがたくさん生まれる国、看板の一つにそういう標語が書かれている。生まれるのは赤ん坊だけだ、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキはそう思った。

 地球全体がきわめて細かい砂の玉か塊になっていて、千年ごとに一粒の砂がなくなるとしよう。あなたは、次のどちらかを選ぶことが出来る。砂がなくなるまでにかかる途方もない時間の間は幸せで、砂がなくなってしまうと不幸になる。それとも、砂がなくなってしまえば幸せになれるが、これほどたくさんの砂が千年に一粒しかなくならない間、ずっと不幸である。どちらを選ぶだろうか

 横に座っていた妻が突然そう言った。スウィフトの言葉を引用したのかもしれない、そんなことを書いていた気がする。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは景色から目を離した。それは人間には単位が長すぎてよくわからない。途方もない過去と途方もない未来。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキにも未来のことばかり考えていた時代があった。高校を出てすぐにドニプロパトロトリステキヴィスミジキは螺旋工場で働いた。その頃の同期の友人にホニャという人がいた。メガネをかけていて、アフロヘアーがチャームポイントの男だった。二十代の、まだ前半、ホニャはある日、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキにアンコウ鍋を食べようと提案した。そのとき二人はボーナスが出て若干テンションが上がっていた。彼らは当時アンコウを金持ちの象徴みたいに思っていた。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキが材料を買ってきてセッティングして、仕事の覚えが悪いホニャが残業を終えてドニプロパトロトリステキヴィスミジキの部屋に来た。ホニャはアンコウ鍋は肝がとても美味しいのだと噂に聞いていて、楽しみにしていた。だがアンコウの肝なんてホニャは見たこと無かった。スーパーに普通にあるのに。自分と違う世界のものだと思って視界から排除していたのだろう。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキはアンコウの肝がどういう外観をしてるのか以前から知っていたがそもそもホニャほどアンコウに憧れを持っていなくて肝が美味しいと言う話も知らなかった。意識に完全にズレがあり、そのためにすれ違い、悲劇が起きた。他の材料が悪かったのか鍋にアクがすごく浮いていて、ホニャはおたまでアクを掬って捨てていったのだがその時にたまたま鍋の表面に上がってきていたらしいぶよぶよの肝も捨ててしまった。ブヨブヨで同じような色だしアクって出過ぎるとなんか固形化すんのな、とか思って捨ててしまった。それで掬い終わってさぁ食おうという段になり、ところでアンコウの肝どの辺にあるんだ、とホニャが言ったがドニプロパトロトリステキヴィスミジキには意味が分からなかった。さっき捨てたじゃないか、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは憮然と言った。ホニャ、ゴミ入れを見る。確かにアクとは何か違うものがある。どうして止めてくれなかったんだ、ホニャ嘆く。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキ答える、肝って食べないもんなんだな、と思ったんだよ、知らないしさ、そもそも、アンコウって何なんだよ、この生物は。何でこんな目に会うんだろう、とホニャが泣きそうになっているのを見ながらドニプロパトロトリステキヴィスミジキは何が悪かったのか考えていた。貧乏が悪いのかもしれない。ホニャを慰めようか、今アンコウの肝をゴミ箱に捨てたのはお前だが捨てさせたのは金持ちの陰謀の仕業だ、とか言おうかと思ったが、いや、滅茶苦茶だ。しかしホニャが結果的に似たようなことを言った。全部資本主義が悪い、格差というシステムが悪い、そのシステムを牛耳る何かが悪いんだ、オレたちから搾取し続ける支配階級の傲慢さが無知を生み、悲劇を野放しにする……資本主義が悲劇を生むんだ、資本家め、みろ、そう言ってホニャはゴミ箱を指さした。「食べ物を粗末にしやがって!奴ら!」そして『全員ぶっ殺してやる、ぶっ殺すからな!並べ!』と叫んで窓から飛び降りて死んだ。享年24歳。死体から流れる血は見えなかったが、そこから立ち上る湯気は見えた。

 その瞬間からドニプロパトロトリステキヴィスミジキは人生このままでいいとは考えなくなった。ホニャの葬式に出席して、たくさんの花に囲まれて眠る遺体を前に、焼香の順番がやってきて自分の一つ前の人の見よう見まねでよく分からない砂のようなものを一つまみぱらぱらと香炉に落としたとき、株をやろうと思い立って葬儀会場を走り去った。一番の親友だったものね、堪えきれなくなったのだろう、皆そんなことを言い合って走り去ったドニプロパトロトリステキヴィスミジキの行動の合理的解釈を試み、それを契機に感極まって涙を流す者もいたほどだ。

 図書館で勉強を始め副業で株を始めたドニプロパトロトリステキヴィスミジキ。結果的に成功した。みるみる利益を上げ、32歳で脱サラ、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキは資金をかき集め船を買い、マグロ漁船の船主になった。船主というのは船に乗らないが船の持ち主、運営者、責任者だ。同時に図書館の司書のサロュリと結婚した。サロュリは仕事を辞め専業主婦になった。そして漁船にもツキがあり、水揚げは順調、ドニプロパトロトリステキヴィスミジキ夫妻は40歳になる頃には大金持ちになっていた。子供はいなかった。船は増やしていった。その頃から国が島の周囲に埋め立て地を作り、そこにホテルや観光施設を建てる計画を動かし始めていた。しかし漁師組合や市民らの反対を押し切って埋め立て地がやっと完成したのはかなり後のことだ。ドニプロパトロトリステキヴィスミジキ夫妻は特にそれに何も思っていなかった。マグロ漁船は島の周辺で操業しないので海流などの影響は自分に直接関係してこないし、経済的に島が潤うなら歓迎すべきことじゃないかと思っていた。

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