3762年4月31日

午前6時50分 T-12にある監獄

 蕭々と降る雨音が罅割れた窓ガラスから忍び込み、ヴェラは壁に備え付けられた固いベッドの上で目を覚ました。昨日の疲れが抜け切らない重怠い体に鞭打つように起こし、ぼやけた視界に喝を入れて部屋の内部を見渡す。

 天井一面に広がる剥き出しのコンクリートには水漏れによる染みが黒に近い灰色の地図を描き、この建物が建てられてから長い月日が経過したことを彼女に語り掛けてくる。室内を照らす傘の付いた裸電球の光は弱々しく、時折点滅を繰り返して今にも切れてしまいそうだ。

 これだけ見れば普通の部屋にしか見えないだろうが、部屋と通路を隔てる堅牢な鉄格子が普通と言う概念を大きく打ち砕く。そして自分が来ている鼠色の囚人服……それらを交互に見遣り、彼女は自分の居る場所を嫌でも認識せざるを得なかった。

「そう言えば……拘留されていたんだっけか」

 ヴェラは昨日の出来事を思い返し、苦虫を噛み潰した表情を片手で覆いながら天を仰いだ。


 あの後、比較的に安全とされるT-12への進入を果たしたヴェラ達だったが、残念ながら向こうの態度は歓迎ムードとは懸け離れた……いや、対極に位置するものであった。

 犯罪者か重要参考人を移送するかのように屈強な兵士達に囲まれながら歩く姿は、宛ら罪人を町中に連れ回して晒し者にする大昔の罪科のようだ。しかも背後の兵士に至ってはヴェラ達の誰かが変な真似でもしようものなら即座に射殺出来るよう銃口を突き付けているのだから、生きた心地が全くしない。

 そしてユグドラシルに埋もれたT-12に足を踏み入れた途端、僅かに残された地上で慎ましく活動していた市民の視線が一斉に突き刺さる。好奇心・疑念・嫌悪……様々な思惑が籠っているものの、残念ながら彼女達の身を案じてくれる好意的な眼差しは無く、また注目を浴びているというプレッシャーが彼等の胃と精神をダイレクトに痛めつける。

 そうして連れて来られた先が此処―――嘗ては犯罪者を収容する監獄という名目で利用されていた建物だった。今ではT-12で活動する自衛隊の基地代わりとなってるらしく、大勢の自衛官の姿が見受けられた。

 そこの尋問室にてヴェラ達は入れ代わり立ち代わりで様々な尋問を受ける羽目になった。日本へ来た目的、ヴェラ達が此処へ来た経緯、どうしてT-12に来たのか……等々、全ての尋問に終えて牢屋に放り込まれた頃には、既に時計の針は深夜二時を回っていた。当然シャワーなんて浴びせてくれる筈もなく、そのまま泥沼に沈むように深い眠りに落ちていったのであった。


 大して長くもない睡眠を貪ったヴェラだったが、やはり寝不足の上に昨日の疲れが抜け切れていないせいもあってか、頭の内側からガンガンと杭を打たれるような鋭い片頭痛が走り、思わず皺の寄った眉間を抑えながら軽く俯いた。

 すると牢屋の置かれた区域を隔離する為に設けられた鉄扉の開錠音が鳴り響き、ヴェラは弾けるように俯けていた顔を上げて、通路の方を見遣った。コツコツと厳格な軍靴の足音の後に、キィキィと草臥れた車輪の音が続く。やがて通路の右側から現れたのは、三人の男性だった。

 一人はヴェラ達を問答無用で連行した2m近い巨体を誇るスキンヘッドの男、もう一人は齢80過ぎと思しき小柄の老人で、両足が膝下から存在せず車椅子に乗っている。そして最後の一人は老人の車椅子を押す、中年の軍医だ。

 ヴェラは彼等三人の姿を訝し気に観察していると、最年長である老人が物寂しい空気を打ち破った。

「ロレンス大尉、彼女を出してあげなさい」

「はっ」

 ロレンスと呼ばれた巨漢は年寄りの指示に文句も言わず、ポケットから取り出した鍵で鉄格子の扉を開けた。しかし、扉を開けてもヴェラは動かなかった。いや、動けなかった。ヴェラの中にある警戒心が動くなと彼女に指示を出していたからだ。だが、例え指示が無くとも突然の釈放に頭が追い付かず動けなかっただろう。

 老人はガチガチに凝り固まったヴェラの警戒心を解そうと、厳格な雰囲気とは相反する年相応の優しい声色で話し掛けてきた。

「貴女が我々を警戒するのは無理からぬ事だ。だが、関門で起こった出来事は聞かせて貰った。救われた兵士に代わって礼を言いたい。同時に、今回の無礼を許して頂きたい」

 車椅子の上で窮屈そうに頭を屈むだけで、物凄く申し訳ない気持ちがヴェラの中に沸き起こる。「頭を上げてください」とヴェラが慌てて告げると、老人は緩慢な動きでゆっくりと頭を上げた。皺くちゃの顔には小さい花が咲いたような微笑みが浮かんでいた。

「色々と話をしたいのは山々だが、こんな所でするのもアレだ。場所を変えよう。何なら、キミの仲間達も一緒でも構わないが……どうだろうか?」

 老人からの申し出にヴェラは即答を避け、暫し思考を巡らした。既に彼女の警戒感は頑なな拒絶から、『どう行動すべきか』という慎重を期する段階へ移行していた。そしてヴェラなりに思考を総動員させて考えた末、ぎこちない表情のまま鉄格子を潜り抜けた。



 昨夜の尋問以降、バラバラになっていた一同は監獄の地下に設けられた食堂にて暫し振りに顔を揃えた。本来ならば収監された囚人達が飲み食いを行う場なのだが、今この場に居るのは彼女達以外には、銃を構えた監視役の兵士が数名ばかしだ。

 使い古された長机には食べ汚しの染みが所々に点在しており、シンプルなスツールに至っては皮張りの座面が破け、中に詰めてあったスポンジが飛び出ている。室内全体の暗さも考慮に入れると薄汚いという印象が真っ先に頭に浮かぶが、ユグドラシルがウジャウジャと生えている外に比べれば遥かにマシな環境だ。

「失礼させて貰うよ」

 再会と互いの無事を喜び合っていると、食堂に車椅子の老人とそれを押す軍医、そして最後にロレンス大尉が現れた。老人は微笑を浮かべているが、ロレンスの方は相変わらず強面の顔を不機嫌そうに顰めている。いや、これが素の表情なのか?

「とりあえず、座りなさい。話はそれからにしよう」

 そう老人に勧められて長椅子に沿って置かれたスツールに腰掛けるも、やはり座り心地は御世辞にも良いとは言い難い。しかし、その文句を堂々と口に出す者は誰一人として居なかった。

「初めまして、私は此処の地区を防衛している自衛隊の総指揮官を務めるアマダだ。先ずはキミ達に対して不当な扱いをしてしまった事を詫びたい。キミ達が若者を救ってくれたという話は、部下達を通じて聞いている。キミ達に事情聴取をした結果、疑わしい点は無く、それぞれの話を照らし合わせても目立ったズレもない。概ね事実であると判断された」

「それは即ち……僕達の疑いは晴れたという事ですか?」

 スーンが恐る恐る尋ねると、アマダは「そう受け取って貰っても構わない」と告げた。その一言に肺を締め付けていた不安の鎖が緩み、何人かの口から安堵の息が零れ出た。しかし、直ぐに「但し――」という意味深な言葉が続き、再び不可視の鎖が彼等の肺をギュッと締め付け、それに釣られて背筋を伸ばした。

「それはあくまでも私個人の意見だ。周囲には疑いが無くとも、キミ達をよく思っていない人もいる。それを忘れないで欲しい」

「そう言えば――」ヴェラがある事を思い出し、唇に指を添えながら呟いた。「私達がアメリカから来たと聞いて、門番をしていた兵士達は何やら急に殺気立ちました。それに関係があるのでしょうか?」

「それに付いては後々で説明しよう。それよりも今は……我々がこの地獄で生き残るのに必要な話をしよう」

 アマダは車椅子に深く凭れ掛かり、正面に座る一人一人に目を配らせながら胸の上で手を組んだ。

「既にそこに居るリュウヤという人間から、この国を取り巻く事情は聞いている筈だ。この日本は五年前の災厄で滅亡し、我々日本人もまた『まもりびと』という化物の台頭によって絶滅の縁に立たされている。最早この国に意気地になって残り続けるよりも、いっそのこと脱出した方が良いだろう。いや、それしか生き残る術はない」

「ええ、それに関しては私達も同意見です。しかし、方法はあるのですか?」

「実を言うと、私達は早々に……日本が災厄に見舞われた直後から日本脱出を計画していてね。T-10にある通信施設の修理を進めているのだ」

 そう言うとアマダは背後に控えていたロレンスに目配りをする。彼は脇に抱えていたT-12を中心とした航空写真を机の上に広げ、ヴェラ達に見せた。写真にはヴェラ達が通って来たT-10も入っており、その東側に赤い丸が四つ――三つの円が三角を作り、一つの円を取り囲んでいる――描かれていた。

「この真ん中に置かれた円が電波を発信する送信所、周囲の三つの丸は電波を経由する基地局だ。これで救援を求めのだ」

「じゃあ、これが上手くいけば日本とおさらばって訳か! ははっ、そりゃツイているぜ!」

 真っ先に喜びを露わにしたオリヴァーの喜色が他の人々にも伝染し、笑顔が綻ぶ。しかし、アマダは固い口調で「いや」と否定の前置きを口にした。

「残念ながら、事はそう上手くは運ばないのだ。この送信所は元々一般のラジオ局のもの。出力を最大に上げても、電波は日本国内にしか行き届かないのだ」

「では、結局救援は呼べないという事ですか?」

 トシヤが結論を口にすると、全員が目に見えて落胆した。助かるかもしれないという一縷の希望が現れたと思ったら、次の瞬間には呆気なく失われてしまう。まるで地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようだと思ったのは、日本オタクのスーンだ。だが、アマダの話はそこで終わりではなかった。

「確かに他国への救援は無理だ。だが、今ならば呼び掛ける相手がいる」

「相手?」

 思い浮かぶ相手が居らず眉をへの字に曲げると、アマダは意地悪そうに唇の端を釣り上げた。

「キミ達を日本へ連れてきたのは、何処の誰かな?」

「……アメリカ海軍!」

 ヴェラが叫ぶのと同時に、目から鱗が落ちたと言わんばかりに一同の両眼が大きく見開かれた。どうやら誰も彼もが一連の騒動で頭の回転が鈍り、自分達を日本へ連れてきたアメリカ海軍の存在をすっかり忘れ切っていたようだ。

「その通りだ。それに本隊が日本に下ろした部隊の安否も確認せずに撤退するとは考え難い。恐らく内地で起こった異変を把握出来ず、歯痒い思いをしながら東京湾付近で待機しているだろう」

 しかし、だからと言って派遣された海軍が長期間東京湾に居続ける保証はない。彼等の船に搭載された物資の量を逆算すれば、精々東京湾に居続けられるのは四日程度だろう。

 それ以上が経過すれば彼等は本国に帰還するか、近場にあるアメリカ軍の駐留基地へ補給を受けに向かうだろう。その前に何としてでもSOSの情報を電波に乗せ、東京湾に居る海軍に届けなければならないのだ。

「つまりだ。キミ達が日本にやって来たという事実は、我々にとっても千載一遇の好機が到来したも同然なのだ。何としてでもアメリカ海軍に我々が置かれている状況を伝え、救助を求めたいところなのだが……」

 それまで老いを感じさせない明朗な台詞運びを見せていたアマダが口籠らせ、話の先行きに暗雲が漂い始めた。彼の不穏な態度に誰もが不安そうに見詰める中、敢えて沈黙を破って話の続きを促したのはヴェラだった。

「何かあったんですか?」

「うむ。実は修理はほぼ終了しているのだが……まだ未了の場所があるだ」

「何処ですか? 基地局の方ですか?」

 スーンが軽く机から身を乗り出して尋ねると、老人は地図に描かれた四つの内の中央の丸に枯れ木のような指を落とした。

「此処だ。送信局から発する電波を安定して送る為に必要となる放送機(放送波送信機)を始めとするモジュールの修理が途中なのだ。何せ、災厄の傷跡が酷い上に材料も無いに等しい。おまけに、まもりびとの目を掻い潜って材料を見つけ出すのも至難の業だ。特に、ここ最近は奴等の動きも活発化している」

「つまり……生きて脱出する為には修理が必要不可欠。だから、私達に修理に必要となる機材なり材料を探して来いと?」

「理解が早くて助かる」

 ヴェラがストレートに尋ねると、アマダはさも当然と言った口調と共に頷いた。だが、当たり前の様に言ってはいるが、要はまもりびとが蠢く危険地帯で探し物を見付けて来いという不条理甚だしい内容だ。それを聞いたオリヴァーは沈黙という選択肢を投げ捨て、椅子を膝裏で押し退けて立ち上がるや二人の会話に横槍を出した。

「おいおいおい! 今さっき恩人とか言っていたけど、いきなりその恩人を危険地帯に向かわすのか!? いくら何でも限度ってもんがあるだろう!?」

「貴様! 口を慎め! 無礼だぞ!」

 オリヴァーの態度に目くじらを立てたのはロレンス大尉だ。鋭く叱責して彼を座らせようと動き出すも、その前にアマダが片手を上げてロレンスを制止した。

 ロレンスは彼の手を見て巨体を止め、一方後ろへ引き下がった。但し憤慨した表情までは解かず、怒りで燃え狂った視線をオリヴァーの顔に縫い付けた。そしてロレンスの動きが止まると、アマダが口を開いた。

「オリヴァーさん、貴方の言う通りだ。私の言っている事は矛盾だらけだし、恩を仇で返していると責められても反論出来ない。しかし、私達には貴方達のようにまもりびとを倒す力も無ければ術もない。だから、貴方達にお願いする他ないのだ。すまない、そして頼む」

 アマダは謝罪と懇願を口にし、年老いて薄くなった白髪まみれの頭部をヴェラ達に差し出した。それを見た瞬間、怒りにしては燃え上がりに欠け、諦めにしては受け入れ難い……とどのつまり『ズルい』という思いがヴェラ達の胸に宿った。

 彼の言っている事は正論でありながら、一方でハチャメチャな……それこそ理不尽とも呼べるものだ。普通の人間ならば懇願するのでさえ思い留めるに違いないのだが、彼は敢えて現実を訴えると共に頭を下げてみせた。

 更に彼の言葉だけでなく、彼の姿そのものが現実の過酷さを訴えている。失われた両端、左目を覆い隠す眼帯の下から食み出した縦線に走る生々しい傷跡。そんな姿をした人間に頭まで下げられれば、断るものも断り切れないというものだ。

 もし彼がそういう点も含めて計算の内としているのならば、老獪な人間だと切り捨てられただろう。だが、彼は本気で日本からの……この地獄からの脱出を心から望んでいる。それは彼一人だけでなく、他の人々も連れてと言う意味で。その思いを汲み取ってしまった以上、最早「卑怯だ」とは口が裂けても言えなかった。だからこそ「ズルい」のだ。

 ヴェラは周囲を確認し、誰も何も言えないのを確認するとチームを代表して口を開いた。

「分かりました。その依頼、引き受けましょう」

「ヴェラさん!? 正気ですか!?」

「命が幾つあっても足りやしないぞ!?」

「だとしても、私達が……此処に残っている人々が助かる方法はこれしかないわ。現時点ではね」

 スーンとリュウヤがヴェラの決断に異を唱えようとするも、彼女から切り出された一言の前に何も言えず再び口を噤んだ。そして二人から視線を外すと、再びアマダの方へ切り替える。

「但し、此方にも条件があります。私達のアーマーの整備、そして大破したオリヴァーのアーマーの修理の為に時間と物資を裂いて欲しい。それと―――」

 尚も言葉を続けようとした矢先、彼女の腹の奥底から空腹の虫が豪快な鼾を上げた。その音にアマダだけでなく、両隣に座っていたオリヴァーとスーン、リュウヤとトシヤも目をギョッと目を丸くして彼女を見てしまう。誰もが気まずく固まる中、その重い雰囲気を破ったのはアマダの柔和な笑い声だった。

「はっはっは。どうやら貴方達の燃料を補給する必要があるようだ。話の続きは、その後にしよう。ロレンス大尉、部下達に食事を届けさせるよう伝えてくれ」

「はっ、分かりました」

 アマダに言われてロレンスが立ち去ると、その後に続くようにアマダも軍医に押されて食堂を後にした。取り残された一同の目は無意識にヴェラに向けられる。彼女は机の上に行儀悪く肘を付きながら、両手で顔を覆い隠していた。黒い耳が羞恥心で赤く染まっているように見えるのは、きっと見間違いではない筈だ。

「あー……何と言うか……ドンマイ?」

 羞恥心で深く落ち込んだ彼女に当たり障りのない励ましを投げ掛けたオリヴァーの脇腹に、ヴェラの肘が鋭く突き刺さった。触らぬ神に祟りなし、全員が今の一件について完全沈黙を選んだのは言わずもがなであった。

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