2 緋衣の獣

ヒノエとシロ


          1


 ――ヒョー、ヒョー

 ――ヒョー、ヒョー



 あぁ、虎鶫とらつぐみの声が聞こえる。



 ――ヒョー、ヒョー

 ――ヒョー、ヒョー



 否、これは虎鶫じゃない。

 鵺だ。


 まん丸な大きな目を腫らして泣く幼い幼い鵺の声。


 憎らしい生き物の子だ。


 掴めば、握ってしまえば折れそうな脆く儚いその手、その指。



 ――ヒョー、ヒョー

 ――ヒョー、ヒョー



 か細い声で鳴くそれは痩せ細った手を伸ばす。庇護をなくし死を待つだけのそれ。



 ――やめてくれ。



 お願いだからそんな目で吾を見ないでくれ。


 お前が憎いよ。憎くて憎くて仕方がない。

 いっそ、ひと思いに喰ろうてやろうかと思うのに。



 ……どうして愛おしいと感じてしまうんだ。



 伸ばした指先。


 長く鋭い爪におののきながらも掴んだそれ。

 酷いしかめっ面に、それでも笑い返してくれた。



 嗚呼、弱々しい。今にも壊れてしまいそう。

 正体不明の不安に胸がざわめく。



 どんな言葉も要らない。その笑顔だけでもう十分だ。




 ――吾は涙がこぼれんばかりに嬉しいよ。




          *     *     *



 日吉大社の大神に仕える神使は、総じて真っ白な毛並みを持った神猿まさるだという。故に狒々は皆、かつて御山を守護した大神を敬い奉り、自分達もその眷族として日吉大社をひっそりと守ってきた。


 狒々達は信心深く忠実だ。


 しかし、人は移り気な生き物だ。信じていてもすぐに忘れて、すぐに裏切る。

 社を建てたのは他ならぬ人だ。神を産んだのもまた人の心。人は忘れっぽい生き物だからそうして、形なき物にも何かしらの輪郭を与える。

 だというのに、移り気な彼らは別の神を祀ると、その社を棄てた。

 信仰をなくした神がどうなるかなど、人が気にする故もなく。信仰とは人の思いであり、人の思いが神という不確かな存在に形を与えるのだ。当然、人がその存在を忘れてしまえば、人から生まれた神は形を失う。

 日吉の大神は天帝が創った神ではなく、人の作った神話から生まれた、人が生み出した神である。人々に必要とされなくなった日吉の大神は社を離れて雲間に隠れた。

 そうなると、神使の神猿達は次々と力をなくしてただの猿へと成り下がり、山へと散っていった。


 ただ一人、緋衣ひのえを除いて。


 緋衣だけは、その身に宿した甚大な神通力を失うことはなかった。

 山にも馴染めず、人里へ下っても『白子』だ『獣』だと爪弾きにされるだけ。居場所など何処にも見つけることができなくて、緋衣は次第に物を口にすることもなく衰弱していった。

 しかし、力尽き倒れていたところを先代大猩々・鵺に拾われた。

 狒々達が新たに建てた日吉の大神を祀った廟。そこを守る神使として、新たな命と居場所を見つけた彼は、狒々の里に生きることを決めた。

 だが、人を愛した神使の姿はそこにはなく、人を憎悪して白かった髪を黒く染めた。

 それでも、狒々達とは上手くやっていた。人とは違う彼らは緋衣を狒々の仲間として受け入れ、緋衣もまた彼らの懐へと入ることを何一つ厭わなかった。とりわけ、まだ若かった猫と熊とはまるで兄弟のように仲がよかった。


 緋衣が彼らと距離をとるようになったのは、鵺が嫁を迎えた頃のこと。


 鵺は生贄として屋敷にやってきた人間の娘を見初め、娶ったのだった。

 その間に生まれた猿田彦も狒々でありながら憎い人の血を引いている。他にもそういう仲間はざらにいて、緋衣は次第に彼らから離れていった。




 けれど、十年ほどたったある日。彼はあろう事か人間の子供の手を引いて帰ってきた。

 やせ細った小さな少年。年は贔屓目に見て三つか四つに思えたが、彼が指で示したのは七つだった。なのに、ろくに言葉を話すこともできないようで、大人の狒々達をひどく恐れていた。

 痣だらけの体に小柄な形。心労から白くなった髪を見るに、親に見放されたことは明白。

 理由はすぐに解った。人の身には余る甚大な神通力のため。幼子は鳥獣と話し、風を操り、人心を読んだ。

 言葉など知らなくともよかったから話せなかったのだった。


 彼は緋衣によく懐いた。けれど、当の緋衣は幼子を鵺に押し付けるとすぐに、姿を眩ました。ただ一つ、幼子に『白』という名を与えて。

 何が二人にあったのかは知らない。人を憎んだ神使は、けれど、白だけは受け入れていたように思う。




 再び緋衣が姿を現したのはそれからまた七年後のことだった。


 年の割にまだ幼すぎる感が拭えないが、白は立派に元服を済ましていた。

 成長したのは体だけでなく、その霊力も。鵺の手ほどきを受けて自在に術を操るようになった彼は、木々が張り巡らせた枝の上を走るように渡り、風に乗って空を翔た。まさに天狗の子。

 それを見た修験者達の間で『高尾の子天狗』と称された。


 人界と縁を絶って育った少年も、それでも人の子。好奇心を抑えることはできなかったらしい。


 ある日、唐突に人里へと下りた。




 しかし、それが間違いだった。



 天狗の子を恐れた人間は、石礫を投げつけては罵詈雑言を彼に向け、挙げ句の果てには殺してしまえと武器を手に取った。白は拒絶されることを恐れ、抗う事もできなければ逃げることもできなかった。


 そんな彼を庇ったのが、養父である鵺。


 白に向けて鍬を振り下ろした男をその場で喰い殺したのだそうだ。後にそう、白が語った。

 緋衣はそれを知っている。ずっと、白を見守っていたから。彼の養父でもある鵺が穢れを纏うのを何もできずに見ていたのだから。当然のように白を責めた。


 どういう話がなされたのか、猿田彦以外の狒々達には知らされなかった。


 大猩々・鵺は白の手に掛かってその生を終え、猿田彦が父の跡を継ぐこととなる。それは三人が話し合って決めたことであり、大猩々の遺志でもあるのだろうと狒々達は全てを受け入れた。


 また、緋衣だけを除いて。


 緋衣は二度、人の為に『親』を失ったのだ。人である白と人の血を引く猿田彦を前に正気を保てるはずがない。鵺を葬り、大猩々の座を奪った二人に牙をむいた。

 ずっと、言葉にも態度にも示さなかったが、慈しみ見守って来たはずの白さえも憎しみの対象となり、緋衣は暴走。沢山の狒々たちがその牙にかかって命を落とした。

 白はやむなく、緋衣を調伏し、鵺を祀るために建てた塚に彼を封じた。自らの霊力の半分をかけて。


 そうして、白は狒々の里を去り、勒穏院で十年の修行を積んだ後に『白勒』と名を改め、栄戸へと下った。



          *     *     *



 ああ、にくい。


 ひとがにくい。


 どうして、そこにいてはいけないの?




 ――ヒョー、ヒョー


 ――ヒョー、ヒョー




 泣いている。


 雛鳥が泣いている。


 醜いが為に捨てられ泣いている。




 ――ヒョー、ヒョー


 ――ヒョー、ヒョー




 ころしておくれ。




 ――ヒョー、ヒョー


 ――ヒョー、ヒョー




 愛してあげよう。




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