姉妹と兄弟


          2


 顔がないはずなのに、そののっぺらぼうは確かに泣いていた。涙はなかったが、それでも風華には彼女の涙が見えていた。

 桐辰はそう思っている。


《ウチ、姉さんが嫌いやったんや》


 菊乃が奉行所の同心に連れて行かれた後のことだ。のっぺらぼう『菊乃』は風華にそう告げた。すると、白い霧となり朝靄の中に溶けるように消えていった。そこには、彼女の立っていた場所には、ちゃんと草履の跡があった。


 けれど、幻だったかのようにも思える。


 それを将寿に言えば「どちらも真であり、嘘であり、人の作り出す想いとはそういうもの」だそうだ。解ったような解らないようなことだ。

 ただ、菊乃の風華に対する想いも『菊乃』の姉を思う気持ちも、どちらも正しく偽りのない真だったはずだ。

 ならば、思いが妖怪を作り出すという将寿の言葉が正しいのであれば、『菊乃』は確かにこの時この場所に存在したのだろう。




「――嫌いやったら、あんなことしはらへんかったやろうに」

 将寿の部屋で肉桂餅にっきもちを頬張るぼたんはそう言った。もう、桐辰にも隠す必要がなくなったからか、女将が出て行ったとたん息をつくと同時に頭巾も目元を覆う布も外してしまっている。

「兄弟姉妹ってのはそんなもんなんだよ」

 いつものように窓縁に座り煙を嗜んでいる将寿が答えた。

「そない解ったようなこと言わはって、将寿はん、とは仲ようしてはったんやろ?」

「……仲良かないよ。アタシが勝手に依存してただけで、兄さんはアタシをそりゃあ心の底から嫌ってやしたよ。無関心だったのかもしれないねぇ」

 将寿は肩をすくめる。

 と、桐辰は口元に手を当てる。彼の口から両親以外の家族の話が出るのは初めてのこと。渋ることも勿体ぶることもなく、自然と話しているが、それにどこか違和感を感じる。


 「嫌っていた」


 嫌われていたのは彼自身のはずなのにまるで他人事のように聞こえる。




「──何だい? 旦那」

 徐に足を組む。着物がはだけて裾が遊んだ。しかし、だらしがなくみっともないはずのその様が妙に艶がある。男のくせに綺麗な足が余計に色っぽさを醸し出す。

 桐辰は目をそらした。

「何でもない」

「あらそう……兎に角、女同士、男兄弟以上に張り合うものなんでさぁ。アタシにも少しばかし経験があるが、なかなかどうして、素直になんてなれたものじゃあないねぇ……これ、薬代です」

 将寿はかつての思い出を振り返るように天井を仰ぎ見ると、ぼたんに袱紗を突き出した。

「ふぅーん。おおきに」

 ぼたんはそんなものかと頷きながら銭を数えて袱紗を返す。

 桐辰はそんな風に自然とやりとりする二人を襖の傍に座して見ていたのだが、ふと、首を傾げた。

「あの……ぼたん殿は本当に何ともないのだろうか? その、首を一突きにされて殺されたように見えた……というか、殺されていたが」

 目の前のぼたんは何事もなかったかのようにピンピンしている。顔を赤くしながら襟のはだけた首元を見てみても傷痕はなく、そればかりか肌理の細かい滑らかで白い肌が覗いていた。


 ぼたんは口端を上げる。


「間違いなく、死にましたで。言いましたやろ? ウチは『八百比丘尼やおびくに』――人魚さんの肉喰ろうて不死になった化け物やって」

「あの瞬間、生き返るまで聞いていない」

 菊乃に刺された瞬間、将寿に止められていなければ出て行っていたに違いない。桐辰は自分が話した所為で彼女が死んでしまうのではないかと肝を冷やした。否、実際に死んでいたのだから、冷やすどころではい。最後にはむしろ冷静になって傍観していたほどだ。


 『八百比丘尼』


 そう、聞いて納得した。

 人魚の血や肉は不死の妙薬と聞く。もちろん、桐辰もそんなのは噂にすぎないと思っていた。しかし、目の前で生き返る様を見てしまっては事実と認めざるを得ない。



 ――彼女の真名を浪奸ろうけんという。


 その昔、仙を志し道を説いていた彼女の父は海の底で桃原を見た。

 そこに住む美しい女仙に、手土産にと不死の妙薬を賜ったのだとか。魚の肉を干したものに見えた。しかし、自力での昇仙を目指していた彼女の父はそれに手を着けることはなかった。

 ところがある日、何も知らなかった彼女は薬などと疑うこともなく美味そうな干し肉だと酒の肴にして食べてしまった。

 そうして仙となり、不老長寿となった彼女は父が亡くなり旦那が死に孫の顔を見た頃に、神山を越えて海を渡りこの倭へと行き着いた。『八百比丘尼』という尼の話は、はじめにいた村で聞き、その後にその名を語るようになったのだとか。

 西方訛は京の都が思いのほか居心地がよく、三百年以上居着いてしまった結果染み着いたものだそうだ。



 とりあえずこの話を聞いて思ったたのは、時に酒は人生を狂わせる。だろう。


「姉さんでなけりゃ、あんな無茶はさせられない。アタシが囮役に成り代わってやしたよ」

「あら。ウチやったら死んで構はしまへんのだすか? 薄情やないの。ウチにも鈍くはなっとりますけど、痛覚はまだありますのやで」

 ぼたんは首をさすって身を震わせた。

「ぼたん殿には本当に申し訳ないことをした。俺の不徳が招いた結果だ。民を守るのがお役目だというのに……」

 桐辰は失礼を承知の上で離れたところで頭を下げた。

「草薙様が気にしはることとちゃうんよ。ウチが勝手に引き受けたんどす。どうせ、ほんまに死んだところで、ちょうど、月影の門の向こう側の世界がどうなっとるんやろかって気になってたとこでおます」

「月影の門?」

「大陸に、伽弥国かやこくに伝わる古い古い言い伝えどす。もう、神職くらいしか信じとらんやろうけど、この世いうんは二つあって、それを双ツ世と言いますのんや。生き物の魂はその双ツ世の彼岸と此岸の間を行き来している、って仙人の教えどす」

「姉さんは仮にも、端くれと言えど仙でしょうが。行きたきゃ自由に行き来できるんだろ? 迷信だと」

「そうどすな。迷信やと」

 やたらと迷信押しの二人が気にならなかったと言えば嘘になるだろう。だが、追求しない方がいい。

「なら、迷信だと言い張るその言い伝えが本当だったとしたならば、あののっぺらぼうの――『菊乃』の魂ももう一つの世とやらに行けたのだろうか」


(姉には会えたのだろうか)


 将寿は煙を苦揺らせると珍しく莞爾かんじとした。



「さぁね」



                                終

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