第5話 「戦うメイドさん」(後編)

 周と月子が家に辿り着くころには、髪も服も雨に濡れてすっかり湿り気を帯びていた。ずぶ濡れというほどではないが、それでも肌寒さを覚える。


 唯一この家の鍵を持つ月子がドアを開錠した。


 と――、


「周様」


 ドアノブに手をかけたところで手を止め、月子が振り返る。


「帰宅した主を出迎えるのもメイドの仕事だと思います」

「そう、なのかな」


 それが正しいのか判断できない周は、曖昧に頷く。とりあえず月子がそれを仕事のひとつとして自分に課していることは確かだ。


「……」


 2LDKのマンションでメイドが、「お帰りなさいませ」――。人として当たり前の何かを欠落させてしまっているような気がしないでもない。


「ですから先に私が入り、着替えてきますので、ここで10分ほど待っていてもらってもよろしいでしょうか」

「いいわけあるかっ」


 そこまでこだわる必要がどこにあるのか。


「それは俺に風邪を引けってのか」

「では、5分で」

「刻むなっ」

「しかし、あの服はあれでいてなかなか着るのに時間がかかり、これ以上の時間短縮は難しいかと」

「まあ、そうだろうな……」


 周は同意し、心当たりのある過去の映像を思い出し……


「おごっ」


 ていると、喉に地獄突きヘルスタッブが飛んできた。


「忘れてください」


 と、戦闘メイドさんは静かに要求する。


「へ、へい……」


 とは言え、忘れろと言われて忘れられるほど、この件に関する年ごろの少年のシナプス結合は甘くない。なので、周はこの話題は以後タブーとすることにした。このままでは「君が記憶をなくすまで殴るのをやめない」などと、しこたま頭を殴打されかねない。


「とりあえず形式にこだわってないで、とっとと入ろうぜ。風邪ひきそうだ」


 いいかげん家の前に着いてから5分が経とうとしている。


「それでは略式で。……どうぞ」

 そう言うと、月子はドアを開けてから道を譲るように脇に退いた。


「ただいまー」


 周が先に入る。

 声を投げかけるべき相手は後ろにいるのだが、それでも言ってしまうのはドアをくぐるときの儀式のようなものだからだろう。


 そうして玄関で靴を脱ぐ。


「もたもたしてないでとっとと入ってください。後がつかえていますので」

「略式だとここまで扱いが悪くなるのかよっ」


 何か理不尽なものを感じながら、さっさと靴を脱ぎ飛ばして玄関に上がった。

 そこから歩いて数歩の、自室の前。


「くしゅ」


 後ろで小さなくしゃみが聞こえた。


 振り返れば月子が、脱ぎ散らかされた周の靴を並べていた。顔は見えない。代わりにその背中を見て、「小さくて細いな」と周は思った。


「……ま、かがんでるんだから当然か」


 だが、すぐにそう結論する。


 やがて月子が立ち上がる気配を見せたので、周は逃げるように部屋へ這入った。


 閉めた扉の向こうを、軽い足音が通り過ぎていく。

 それが聞こえなくなったのを確認してから、ようやく鞄を床に放り投げた。


 ポケットに入っていたハンカチで濡れた髪を軽く拭く。本日最後の役目だ。しかし、マンションに辿り着いたときに顔と制服を拭くのに使っているので、あまり効果はなさそうだ。後でタオルを取ってこないといけないだろう。


 次に制服から部屋着に着替え、それを終えてから廊下に出る。目指すは洗面所兼脱衣場。タオルを取りにいくためだ。


 が、脱衣場には先客がいた。月子だ。


「周様。今ガスをつけて、お湯を入れはじめました。入れながらになりますが、風邪を引かないうちに入ってください」


 そう言われたら浴室のほうから湯を出す音が聞こえる。確かに冷えた体を一度温めた方がいいのかもしれない。


 だが、そう勧めた月子はまだ髪を濡らしたままで、服も着替えていなかった。きっと先に風呂の用意をしていたのだろう。


「いや、俺はいい。先に月子さんが入ってくれ」

「は?」

「俺は男だし、ちょっとくらい大丈夫だから」

「……と言いつつ、一時間ほど前はボッコボコにやられてましたが」


 ぼそっとひと言。

 ボッコボコの周を助けるため、相手をボッコボコにしたメイドさんは言う。


「いいんだよっ。それとこれとはジャンルが別だから。兎に角、月子さんに風邪をひかれたくないんだ」

「で、でも……」

「いいからっ。そのまま入れ。風呂に入るまで出てくるなよ。わかったな、月姉っ」


 もはや問答無用とばかりに強く言うと、手近にあったタオル一枚を手に取って、脱衣場を出た。


「ったく、もう……」


 何だかわけのわからない苛立ちを込めて、がしがし頭を拭きながらリビングへ。いつもの座椅子に座り、テレビを夕方のニュースに合わせる。

 月子が戻ってくる様子がないので、どうやら素直に風呂に入ってくれたようだ。ほっとする。


 しかし、得てしてトラブルというものは忘れたころにやってくるものである。


 それから約30分後――、


「周様……」


 ひかえめな月子の声が、テレビを見ていた周の耳に届いた。


 振り返ると月子が、リビングのドアの陰から顔だけを覗かせてこちらを見ていた。乾き切っていない肌と髪が艶っぽい。


 が、それよりもその奇妙な構図は何なのか。


「ど、どうしたのさ?」

「周様がすぐ入れと言ったせいで、着替えなどを用意していなくて……」

「げ」


 要するに今の月子は裸、ということはないだろうが、おそらくバスタオルを巻いた程度の状態なのだろう。


「じゃあ、俺は一度部屋に――」

「ッ!?」


 月子が慌てて顔を引っ込めた。周も立ち上がりかけて、動きを止める。

 部屋は廊下の途中、月子の向こう側である。まさか彼女の横を抜けていくわけにもいかない。


「え、えっと、それじゃあ、俺はこのままテレビ見てるから……」


 月子の私室へはリビングを通らなくてはいけないが、位置的にはテレビを見る周が首を動かしさえしなければ、ほとんど視界に入ることなく行くことができる。


 しかし、落ち着いて考えればもっとよい方法がいくらでもあるのだが、ふたりともよほど頭の回転数が落ちていたらしい。


「わ、わかりました……」


 月子も緊張した声音で首肯した。


 周がテレビに向き直る。

 程なく、トトト……、と小走りの足音が聞こえてきた。


 少し首を動かせばかなりきわどい姿の月子が見られるはず。そう思うと心臓が早鐘を打つ。


 当然、そうしたいという欲求があり、してはいけないという理性がある。

 やがてわずかに絶対値で欲求のほうが勝り、それは結果として横目で覗き見るという行動になって表れた。……目だけを動かし、そちらを見る。


「ッ!?」


 飛び込んできたのは、部屋に駆け込む月子の艶かしい素足だった。


 それはいつもはロングスカートに隠されていて、いつぞやの事故のようなことがない限り絶対に見ることのできないもの。


 それだけで周の罪悪感を煽るには充分だった。


「お、俺も入ってくるからっ」


 声のボリュームを上げて、ドアの向こうに消えた月子に告げる。

 別にわざわざ言わなくても黙って入ればいいようなものだが、もうリビングにはいませんよ、とアピールしておきたかったのだ。


 そうしてから周はその場から逃げ出した。


 結局、その後リビングに戻るタイミングがつかめず、一時間以上も湯船に浸かっていたのだった。





 翌日――、


「何が、ちょっとくらい大丈夫だから、ですか」


 周はしっかり風邪を引いていた。


「だから、先に入れと言ったのです」


 メイドさんはベッドで寝込む主を冷たい目で見下ろし、呆れたように言った。


 実際にはそれだけが理由ではなく、無駄に長時間湯船に浸かっていて、風呂から出た後に湯冷めしたのが原因なのだが。尤も、先に入っていればこうならなかったという点においては真ではある。


「いや、面目ない……」


 そして、謝るしかないのも確かだった。


「周様はいつもそうです」

「死人に鞭打つかよ……」


 文句を言いたいが、熱があるせいであまり力のこもった言葉にならなかった。


「いえ、褒めています」


 昔からそうでした――と月子はほんの少しだけ表情と言葉を和らげる。


「ん、なに? あぁ、頭がぼうっとして何がなんだかよくわかんねぇ……」

「……いえ、何でもありません。それよりも、熱があるのですか?」


 そう言うと月子は周に手を伸ばした。

 そっと前髪をよけ、その額に手を触れる。


 途端――、


「ぶわっ! いいっ! いいんだよ、そんなことはっ」


 周は慌てて月子の手から逃れるように顔を振った。


「熱なんかあってもなくても今さらたいした問題じゃないんだから。兎に角、今日はこのまま寝てるから」


 月子に背を向け、掛け布団を口元まで引っ張り上げる。

 まるで隠れているようだ。


「……わかりました。何かあれば呼んでください」


 そう言って月子は部屋を後にした。

 周はそれを背中越しに耳で確認してから、くぐもった声でつぶやく。


「あー、くそ。今、絶対熱上がったよな……」

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