第4話 「ご近所トラブル完全防止マニュアル」

 ゴールデンウィークが明けて、最初の土曜のことだった。


「選挙?」


 本日最後となる3時間目の授業を終えた後、鷹尾周は岡本との雑談の中で間抜けな声を上げた。


「おーうよ。選挙。知らなかった?」

「知ら……いや、忘れてた」


 確か菜々ちゃん会長がそんなことを言っていたような気がする。ゴールデンウィーク明け、最初の土曜の終礼終了後に生徒会役員選挙があるのだとか。すっかり忘れていた。


「もう帰れると思ってたのにな」


 完全に『今日は学校終わり』モードに切り替わっていただけ、けっこうショックだ。


(って、そんなこと言ってる場合じゃないな)


 家を出る前、月子に「何もなかったらまっすぐに帰ってくるし、何か用ができたら電話する」と言ったのだ。重ねて言うが今日は土曜日。月子は昼食を作って待っているに違いない。


(電話、しとかないとな)


 周はこの後のスケジュールを思い出す。担任の先生がきて、終礼。その後、立候補者による校内放送での演説があり、投票。クラス委員が集めた投票用紙を選挙管理委員のところに持っていく。ぜんぶで1時間弱といったところか。最後の工程は周には関係ないが、それでも先生がきてしまえば後はノンストップ。月子に連絡するなら今しかない。


「悪い。ちょっと」


 断って周は席を立った。

 廊下へ出る。今は3時間目が終わった直後、担任がくるのを待つだけの時間だが、廊下に出ている生徒もいくらかいた。周は窓にもたれて携帯電話のメモリィを呼び出す。


 藤堂月子。


「あ……」


 その名を見て小さく発音する。

 気づいたのだ。これが月子への初めての電話になるということを。


 それを意識した瞬間、周は端末を握ったまま動きが止まってしまった。


「……」


 じっとそれを見る。


 わけのわからない緊張があって、次の一歩が踏み出せない。


 とは言え、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。いずれ担任がくる。そして、月子は有能なメイドだから、周が帰宅するタイミングに合わせて昼食を用意しているはずだ。そこを連絡もせずに遅くなったりしたら、有能なメイドであるところの月子の手からは地獄突きヘルスタッブが飛んでくることは火を見るより明らかだ。


「……」


 いや、有能なメイドさんはそんなことしないような気もするが。


 兎も角。

 何かあれば連絡すると言った以上、その約束を違えるのは周の主義に反する。


「ええい、くそ」


 電話一本かけるだけとは思えないやけっぱちな意気込みで、ついに通話ボタンを押した。

 端末がメモリィから電話番号を拾い上げ、自動でダイヤル――そして、コール。


 1回。

 2回。


 落ち着け落ち着け。周は自分に言い聞かせる。たかが電話だ。緊張するようなことじゃない。


 3回

 4回。


 コールが繰り返される。


 5回。

 6回。


「あれ……?」


 思わず口からそんな言葉がもれる。


 出ない。


 今日の月子は大学の講義もなく、一日家にいるはずだ。もちろん、買いものに出かけたりはするだろうが、電源を切ったり電波の届かないところにいっているとは考えにくい。自室に端末を放り出したままキッチンで仕事でもしているのだろうか。


 だんだんと緊張がほぐれてきた。出ないのならどうしようもない。「いやあ、ちゃんと電話したんだけどさ、月子さん出ないし。そのうち先生もきたしな」、などと帰ったときに言う台詞まで考えているときだった。


 急にコール音が途切れた。


「ッ!?」


 そして、


『は、はひっ』


 出た。


 月子が電話に出た――のはいいが、なぜか声が裏返っていた。


「……」


 遠くで携帯電話が鳴っているのに気がついて、慌てて駆け寄って取ったとか、そういう状況だろうか。


『シュ……、周様ですかっ?』

「あ、ああ、そうなんだけど……えっと、大丈夫か?」


 思わず聞いてしまう。


『な、何がでしょうか?』

「いや、なんかすっげぇテンパってるみたいなんだけど」

『そ、それはその……』


 と、そこで月子は、んんっ、咳払い。


『だ、大丈夫でふ』

「ぜんぜん大丈夫に見え……いや、いい。大丈夫ならいいんだ」


 さっきの咳払いは何だったのだろうか。ぜんぜん仕切り直せていない。だが、周はこれ以上触れないことにした。


「で、えっと、だな」

『は、はい』

「俺もすっかり忘れてたんだけど、今日、今から選挙があるんだ。生徒会の。だから悪いけど、いつもより遅くなる」

『わ、わかりました』


「……」

『……』


「以上」

「はい……」


「……」

『……』


 話が途切れた。

 これで用件は伝え終えたはずなのだが、もう少し何か話したほうがいいだろうか、と周は首をひねる。クラスメイトなり中学時代の友人なりが相手ならテキトーに雑談も交えるのだが、月子相手ではそれも何か違うような気がしないでもない。


「えっと、月子さん?」

『は、はひっ』


 電話の向こうの月子は、相変わらず反応が過剰だった。


「そっちからは何かある?」

『い、いえ、こちらは特に』

「そっか」


 何となくほっとする周。


「じゃあ」

『あ』

「な、なに?」


 そして、今度は予期せぬ時間差攻撃に焦る。


『い、いえ別に……』

「……」


 しかし、意味はなかったらしい。


「じゃ、そういうことで」

『わかりました』


 そうして通話を切る。


 振り返ってみれば、用件をひとつ伝えただけなのだが、やけに疲れてしまった。周は体から無駄な力を抜くようにして、長く息を吐いた。極力月子には電話をしないようにしようと思う。


(月子さん、電話苦手そうだしな)


 人に言えた義理か。


 やるべきことを終えて教室に入る。


「んで、岡もっさんよ」


 席へと戻り、横座りで隣の岡本哲平に向かう。


「その生徒会選挙とやらは、立候補者はどんなもんなんだ? 興味のない俺からしたら、そんなもんに出るやつの気が知れんのだが」

「そーうよ、それそれ。乱立してるわけじゃないけど、それなりにいるみたいだーな。思惑は人それぞれ。本気の本気だったり、内申書の足しにしたかったり。でも、ま、菜々ちゃん一派で鉄板だろうけんど」

「菜々ちゃん一派?」


 周は思わず頭にデフォルメされた菜々ちゃんの集団を思い浮かべた。6人の菜々ちゃんが、1列目にひとり、2列目にふたり、3列目に3人、と三角形に並んでいるのだ。もちろん、思い浮かべた後、全員から飛び蹴りを喰らったが。


「……なんだ、そりゃ?」

「去年後期の生徒会長だった菜々ちゃん会長が、仲間を引き連れてまた出てきたんだよ」


 岡本曰く――、

 まず会計が会長と同じく2期連続の立候補。副会長は菜々ちゃん会長が自ら見つけてきた生徒で、なかなか評判のいい優等生らしい。


「書記は?」

「これがなんと1年生なんだ」

「へえ」


 1年生が立候補してはいけないという決まりはないのが、上級生に比べたらどうしても弱い。そこを補強するのが菜々ちゃんの推薦であり、就任後を見越して入学直後から生徒会の手伝いに入っているという実績である。


 そう言えば菜々ちゃん会長がそんなことも言っていたな、と周は思い出す。名前は果林といったか。思い起こせば、初めて菜々ちゃん会長を見たときにおともとして一緒にいた眼鏡の女の子が、件の彼女だったのかもしれない。


 こうして菜々ちゃんは完全に布陣を固めて選挙に挑んでくるらしいのだ。


「後でそのメンバーの名前おしえてくれ。俺もそこに入れるから」

「あーいよ」


 菜々ちゃんから自分でよく考えて投票するようにと言われた気もするが、これまで立候補者の選挙活動には見向きもしてこなかったのだからよく考えても何もあったものではない。


 結局この後周は、投票用紙に書かれた菜々ちゃん一派の名前の上に、ぐりぐりと丸をしたのだった。





 いつもより遅い土曜日の帰り道。


 周の通学路を学校側から見た場合、途中までは駅へ行く道と重なるのだが、中ほどで住宅街へ入ることになる。よって、友人たちと一緒に学校を出ても、途中でひとり離脱を余儀なくされる。平日ならばよく駅まて行ってひとしきり遊んでから帰ったりもするのだが、今日はそれもなし。真っ直ぐ帰宅である。


「さすがにちょっと腹が減ったな」


 思わず独り言が口をついて出る。


 登下校の所要時間は15分程度。もう半分を過ぎているので、後5分少々で家に着き、程なく食事にありつけるだろう。


「じゃ、これ食べる?」

「おわっ」


 いつの間にか横に女の子が並んでいて、周は飛び上がるほどに驚いた。淡い栗色の長い髪に、小顔ながらくりっとした大きな瞳。確か名前は――、


「えっと、フルイチさん?」

「そういう君はタカオ君」


 噛み合っているのか噛み合っていないのか、よくわからない会話。


 そう、ゴールデンウィークの合間に学校で会った古都翔子ふるいち・しょうこだ。


「いつからそこに?」

「タカオ君が『あー、超お腹減ったし』って言ったところ」

「……」


 そんなことは言っていない。


「というわけで、はい、これ」


 そう言って差し出してきたのは、銀色の包み紙に包まれたもの。飴か、ソフトキャンディか。


「なに、これ?」

「ぷっちょ。しかも、このあたりじゃレアなご当地ぷっちょ。いよかん味」

「……」


 果たして初対面も同然の女の子からもらっていいものだろうか。なんとなく試されている気がしないでもない。図々しく受け取ったらアウト、もらわなかったらアウト、みたいな。どっちもアウトかよ。とは言え、これがあれば残り5分少々の間、腹の足しになって助かるのは確かだ。


「せっかくだからもらっとくよ」


 葛藤の末、周はそれを手に取った。

 包み紙を開き、口の中に放り込む。噛めばソフトキャンディとグミの食感。もちろん、いよかんの味だ。隣りでは翔子もスカートのポケットから同じものをもうひとつ取り出し、食べていた。もしかしてそこにバラで突っ込んであるのだろうか。


 ふたりは止めていた足を、改めて踏み出す。


 周は横目でちらと翔子を見た。目鼻立ちのはっきりした、なかなかの美少女だ。手足もすらりと長く、大きな目を前に向けて歩く姿には躍動感があり、非常に快活、且つ、綺麗だ。


「フルイチさんも家、こっちなんだよな」


 口の中のものを飲み込んでから、当り障りのない話題を振ってみる。


「うん、そう。もう少し先。……タカオ君は?」

「俺ももうちょい」


 もうすぐ見えてくるころだ。


「あ、じゃあ、けっこう近いのかも。このへんマンション多いもんね。学校も近いし、便利」

「でも、今はいいけど、夏になったら死にそうだな。学校に着くころにゃ溶けそうだ。チャリンコ通学って手もあるな。……こっちに持ってきてないけど」

「あれって申請いるんじゃなかったかな?」

「マジか。そりゃ面倒だな」


 そうこうしているうちに周と月子の住むマンションが、目の前に迫ってきた。建物の前の敷地は植え込みでお洒落に飾られていて、その向こうにエントランスホールが見える。


 周は話しながらそこに入っていく。

 翔子も入る。


「もしそうなったら後ろに乗せてってもらおうかなぁ」

「本気で勘弁。ゴ高の前って坂なんだからさ」


 護星高校――背後に山が迫る天然の要塞である。


 ふたりはそのまま自動ドアをくぐりエントランスへ入った。周はついでに集合ポストも覗いていく。自分のところを開けて出てきたのは、賃貸物件や自転車修理云々のチラシばかり。


「あ、ちょっとどいて。その下、うちだから」

「おっと、悪い」


 翔子に言われて場所を空け、


「って」


 そこではたと気づいた。


「「 え? 」」


 ふたり同時に発音し、顔を見合う。……もっと早く気づけと。コントか。それから今度は集合ポストへ目を向ける。


「『古都』でフルイチなんだな」

「あー、タカオってこの字なんだ。『高尾』だと思ってた」


 各々納得する。要するに、お互い普段から字は目にしていたのだ。ただ、読めなかったり、本人の自己紹介からそこに結びつかなかったりしただけで。


「4階?」

「4階」


 ポストの並びと部屋の番号を見れば一目瞭然だ。


「超・ご近所さん!」


 近所どころの話ではない。


「そう言えば、どんなやつが住んでるかなんて、あんまり気にしてなかったな」

「ですです。わたしも」


 ふたりは階段で4階まで上がった。


「どっち?」

「こっち」

「わたしこっち」


 それぞれ反対方向を指さす。


 このマンションは中廊下の構造で、1フロアに4つの部屋がある。階段を中心に左右に廊下が伸びていて、四角形を描くようにその4つの部屋が配置されているのだ。周と翔子の部屋は対角線に位置していた。


「今度遊びにいこうかなぁ、なんて思ったりして」

「いや、それは……まぁ、そのうちに」


 周の口からは苦笑いしか出てこない。


「あ、わたしも部屋、片づけとこうっと。いつでも鷹尾くんがきてもいいように。……じゃあね」

「ん、ああ」


 天真爛漫な笑顔で手を振り、去っていく翔子。


 単身爛漫が故に無防備なほどに無邪気だが、2ヶ月、3ヶ月前までは中学生という肩書きだったことを考えれば、それも無理からぬことなのかもしれない。


「俺も家ん中きれいにしといたほうがいいのかな」


 果たして、きれいにできるだろうか。逆にきれいにされそうな気がしないでもない。


 周も翔子とは反対に向かって歩き出し、我が家のドアノブに手をかけた。


「ただい……おごっ」


 その周を待ち受けていたのは鋭い手刀だった。


「おおおぉぉぉっ」


 それは正確無比に喉に突き刺さる。迎え突きの地獄突きという新技を喰らった周が、思わず喉を押さえてうずくまった。


 本気で痛い。


 涙目になりながら顔を上げると、そこにはメイド服で武装した月子が、いつものように出迎えに立っていた。ただし、いつもより3割増無表情。


「ぁにすんだよ!? ちゃんと遅くなるって言っといただろっ」


 連絡もせずに遅くなったら地獄突きを喰らうかもとは思ったが、まさか連絡しても喰らうとは思わなかった。


「今日から挨拶はこれになりました」

「意味がわかんねぇよ」

「大丈夫です。私にも微妙に意味不明です」


 しれっと月子。


「ますますもって意味がわからんわ。あー、痛……。まさか毎日これかよ」

「周様次第です」

「……」


 どうやら何かトリガーがあるらしい。それがわからないうちは広辞苑でも構えながらドアを開けたほうがいいのかもしれない。実に愉快な帰宅風景である。


「それと、」


 と、月子はつけ加え、


「マンションの廊下での立ち話は近所迷惑になりますよ」


 そして、踵を返してリビング方面へすたすた去っていった。


 ……。

 ……。

 ……。


「おお、それか」


 なるほど。それで制裁の地獄突きだったのか。しばらくしてようやく理解した周は、とんと拳を打ち鳴らし、月子を追うように玄関を上がった。


 もちろん、それが正解かどうかは定かではないが。

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