第12話戦争男(患者十六号)
私はいつもの部屋でいつものように待っていると、突然、扉が開いた。
薄暗い廊下を背景に、背の高い痩せた医師が立っていた。彼も白衣を身に着けているから医師であることに疑問を挟む余地はない。それに若い医師である。
彼は無言で、スタスタとスリッパの音も軽やかに部屋に入って来た。
「患者十六号は、大変、面白い症状を呈しています」といきなり話し始めた。
「彼は今、この国、日本が交戦状態にあると信じ切り、主張するのです」
「こうせんじょうたい。どういう意味でしょうか」
彼の言葉の意味が理解できずに、思わず反芻した。
「この国が第三国と戦争状態にあると信じているのです」と医師は言葉を変えた。
「日本は平和であるはずです」
「私はそうは思いません」
と医師はいきなり切り返してきた。
「それでは、単に社会に対し、誤った認識を抱いているだけですか。彼が誤った認識を抱くようになった理由があるのですか。」
多くの人は疑いもしない事実であるはずである。ここは電波やテレパシーが飛び交う特殊な世界である。私はこの事実を忘れて質問を発していた。
「テレパシーや電波が頭脳に直接、語り掛けると言う分裂病の一種ですか」
「違うようです。現状認識に通常の人間とは大きなギャップが生じたようです。彼を病院に連れて来た家族の説明によると、テレビで放映されているニュースを見ている内に、彼は悟ったように叫んだと言うのです。そして、それ以来、彼の考えは変わらず周囲の者に説き続けています。もちろん彼が見たのは日本国内のニュースではありません。中東の様子を放映するニュースだったようです」
「戦争が起きたら彼の日常生活も大きな影響を受けるはずです。現実に戦争が起きたら大変なことになるはずです。家族はその大変さを説明して、彼を説得できなかったのでしょうか。例えば彼は仕事をしていますか」
「ええ、立派な仕事をされていました」
「それなら戦争が起きたら、今のように仕事など行けなくなる。学校も休みだと言って説得できないのですか。でも、今、現在はあなたは仕事に行き、子供は学校に行けると現実に即して彼の誤った現状認識を正すことはできなかったのですか」
医師は待ち構えていたようである。
戦争が起きたら、仕事をしなくていいのか
と患者十六号は激しい勢いで反論をして来たそうです。戦争が起きても漁師は魚を採りに漁に出掛け、農家は畑を耕し作物を育てなければ国民は生きていけない。学生では学校に通わねばなければ、将来、国は破滅する。もちろん先生は学校で子供に授業をしなければならない。戦争が起きても日常生活は変わらない。あなたは実際にテレビで放映されいる戦争の場面が他国での出来事であり、あるいは遠い過去の出来事と証明できますか」
代弁をする立場に過ぎないはずの医師は異常な興奮し、声も身ぶりも大きくなった。そして険しい表情で代弁するのである。
まるで代弁者の姿ではない。彼本人が自己を弁解をしているように見えるのである。
これまで各症例を話してくれた医師の中にも、このような姿を現わすような者がいた。
医師は私の疑念に感付いたように急に冷静になった。
「すでに日本は戦争状態に陥っている。戦線布告がされていないので、国際法上では戦争状態に突入したと認められないが、貿易摩擦や資源の奪い合いなど現実には戦争状態にあると言うべきである。今後はこの戦争状態がこれ以上、悪化しないように注意するしか生き残る道はない」と医師は宣言した。
代弁者の語り口ではない。
患者十六号が主張するように、この国が第三国と交戦状態にあると認めるべきではないかと私は同意しかかった。
だが踏み止まった。
「テレビの映像は遠い中東での出来事であると正しい認識を持たせなければ、正常な社会活動に戻ることはできないはずです。この誤った認識だけを正常に戻せば彼は正常な社会生活に復帰できるのでしょう。医師として全力を尽くすべきです」
と私は若い医師を励ました。その後、改めて彼の表情を伺い見た。
「彼は、まだ退院をせず、この病院に入院をしているのですよね」と。
医師はうなづいた。
もちろん肯定を意味する返事である。
「治療経過は如何ですか」
このような生意気な質問を許す気安さが彼にはあった。それは彼が若いと言う年齢のせいでもあろう。
質問に医師はかぶりを傾けた。
経過が詳しく把握していないのかも知れない。
「やはり分裂病ですか」
「そうは断言できません。正常な日常生活に戻りたくないだけかも知れません」
「病気を装っているだけですか。虚病ですか。怠慢ですか」
と続けざまに質問した。
医師はやはりかぶりを傾けた上で、言葉も続けた。
「それも違うかも知れません。彼は正常で誤りを認めたくないだけかも知れない。だから日本は第三国と交戦状態にあると固く信じ込んでいるにすぎないやも知れない。そう信じ込むことで彼は救われる。しかも彼自身も、この心の逃避行為に気付かない」
「厄介なことです」
私は狂信的な宗教団体に加入し、抜け出ることのできない人の姿を思い出した。
「あなたは彼を特殊な人間だと断罪できますか」と没我の世界に浸った私に医師が質問の矛先を向けた。
問われれば自信が持てない。
多くの人間は自己の信じる狭い世界から抜け出すことができずに彷徨っている姿を見ているのである。彼らには話をしても無駄であることも、最近、気付いた。
あるいは自分自身も、同じように狭い狂信の世界から抜け出せずにいると周囲から見られているかも知れない。
若い医師には私をやりこめようとする意地悪な様子はない。
医師は自分で説明をした。
「彼は特別な存在ではないと思います。彼一人がそのようなことを言うから彼は病院に収容されることになったのです。もし多くの者が戦争だと言うのに、戦争など起きてはいないと主張したら、やはり彼はこの病院に収容されることになるでしょう。彼は裸の王様の少年役になっているにすぎないのです」
短すぎるが、これが患者十六号の物語のすべてである。
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