第30話珍妃の井戸

 べきら色に壁に挟まれた狭い路地を通り、やっと目的地である珍妃の井戸にたどり着いた時には、すでに夕暮れていた。

 特別にガイドに頼み、ツアー客から別れての行動だった。

 何の変哲もない場所であった。

 柵に囲まれて小さな井戸跡らしきものがある。

 これが歴史上の有名な残虐行為が行為が行われた場所かと疑問を感じつつ、名残を探そうと目を凝らしたが、無駄であった。

 珍妃と言う時の皇帝である光緒帝の寵愛を一身に受けた妃が時の権力者「西太后」の怒りに触れて、生きながら投げ込まれた井戸である。

 子どもでも投げ込むには小さな井戸である。

 長い幽閉生活でやせ細った女性と言えでも投げ込むことができるとは信じがたい小さな井戸である。


 事件が起きたのは清朝も末期の千九百年のことである。

 清帝国は乱れ、西欧列強は清帝国の富や領土を食い潰し、民は貧困に喘いだ。

 このような時代に山東省で起きた義和団と言う、義和拳で肉体を鍛え、ある主の呪文を唱えることで孫悟空のように雲に乗り、日本の東京へも一瞬で移動もでき、銃の弾に当っても死なないと信じる狂信的な団体が民の怒りを吸収しながら北京まで押し寄せて来た。

 彼らは清を助け西欧列国を国内から追い出そうと声高に叫んだ。

 その叫び声が西太后の心を動かした。彼女は乱を鎮めるどころが、愚かにも西欧諸国に宣戦を布告をしたのである。

 西太后が宣戦布告をしても、軍隊は命に背いた。

 二か月間、紫禁城の東南に隣接する西欧列国の公使館区域に砲撃を続けたが、公使館は無傷であった。西太后の軍隊は空砲を撃ち続けていたのである。


 今、紫禁城を棄てようとする西太后一行が聞く砲声や歓声は味方のものではなかった。 狭い租界に閉じ込めれた自国民を救うために、はるばる海を渡り、押し寄せてきた列強の軍隊である。

 珍妃は紫禁城を棄てることを拒んだ。

 皇帝も彼女の気持ちに従うかのように見えた。

 西太后は激怒し、宦官に彼女を井戸に放り込むように命じた。

 宦官は両脇から泣き叫び抵抗する妃を抱え、井戸にまっさかに突き落とそうとした。ところが頭、顔、長い幽閉生活でやせ細った肩まで、かろうじて狭い井戸に入った。ところが臀部や太ももは収まらない。

 珍妃の悲痛な悲鳴は、紫禁城の外の砲声にも負けなかった。

 宦官も必死だった。

 まるでビンにコルク栓をするように彼女を井戸の中に押し込もうした。

 そのおぞましい姿を想像している間に、周囲は薄暗くなっていた。

 振り返ったが、付き添いのガイドの姿がいない。胸騒ぎを感じ、正面の井戸を見た。

 すると目の前の井戸の端に女性が立っていた。

 髪の毛も眉毛も逆立ち、顔も目も真赤に充血している。唇も鼻も恐怖に満ちている。服の袖には井戸の泥が付着し、ムカデが這っている。自分が想像していた珍妃の姿、そのままである。

 僕は恐怖に駆られ、逃げた。

 言葉も通じぬ異国の地での出来事であり、恐怖ははてしなかった。

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