第16話
それは『奴』が消えてから数日たったころの朝であった。昨日まで辺りを照らし続けた太陽はすっかり雲の後ろへと隠れ、空は光のない暗黙の雲によって覆われていた。酒場はいつもならば朝には食堂へと変わり、しっかりと睡眠をとった労働者たちが仕事始めの前に朝食をとるために集まり、様々な噂話や井戸端会議によって喧騒に包まれるはずなのである。
しかしその日は違った。その日は旅人が物々しい表情で食堂にはいった日でもあった。本来祝福されるべき旅人は物騒な目つき、険しい顔つきでアルバンのところへと向かった。事情を知るはずもないアルバンは食堂に居た労働者全員を巻き込んで旅人を祝福しようとしたが、旅人はそれを拒否した。そして旅人の放った一言により、食堂の民衆は氷河のように凍り付き、葬儀のように沈黙が続いた。そんな中でアルバンは呆然としたような顔で旅人にこう聞いた。
「それは・・・・・・一体・・・・・・どういうことなんだ・・・・・・?」
旅人はそれに対ししばしの沈黙を貫きながらも恐る恐るその重い口を開けた。
「少し言い方が悪かったな。要するに私があの襲撃現場に行った時には『奴』はいなかった。だな」
「『奴』がいなかったって・・・・・・? そんなはずがない! あの時確かに誰もが『奴』を目撃した筈だ!あのおぞましい形相、驚くほどに我々とは住む世界が違うようなあの青い肌・・・・・・ まるで悪魔みたいなあの風貌、そしてその悪魔が町の民を無残に殺しまわる姿は町の人々のすべての目に焼き付くほどの衝撃であった筈だ! 何より『奴』は確かに酒場を・・・・・・」
当然のことであるが、アルバンは旅人の放った話がどうしても信用できない筈なのでであるのだが、その一方でアルバンの話すその言葉一つ一つには大きく震えるような響きが聞こえ、全身は寒さに凍えているかの如く震えていた。店主であるアルバンがそのようであるならば食堂に居た民衆たちはそれ以上の反応であったことは間違いない。食堂は一瞬にしてゾッとした空気に包まれ、二人の会話に恐れをなして食堂から出る人もいた。そんな雰囲気の中で旅人は話を続ける。
「確かに、『奴』はあの酒場を襲撃していた。私もその現場に向かって、確かにあの悲惨な惨状を見ました。焼け朽ちた遺体、頭部に刺さったナイフ、燃え盛る炎。誰が考えてもそんなことを単独で行う者は『奴』しかいないと考えるだろう。それに関しては私も同意するし、否定するつもりはない。」
旅人はカウンター席に座って、話をつづけた。
「だが、それは全部私が『奴』の場所に来るまでの話だ。私が『奴』の居る場所についたころには確かに『奴』は『奴』であったのは間違いないが、私と『奴』と死闘を繰りひろげていた時にはもう既に『奴』は『奴』ではなかった。私の目に映ったのはただの貧弱な少年の姿だった。もしかしたら私と会った時からもう『奴』はいなかったのかもしれないが。」
「何故それが『奴』ではないと言える!?」
アルバンは鬼気迫る表情で旅人に問い詰める。すると旅人はこう答えた。
「『奴』に立ち向かった者で生きて帰ってきたものは誰一人といない。そう言っていたな。つまりは『奴』と戦って勝てなかった者で生きて帰って来れたものはいないということだな。正直に言うとと私は『奴』との戦いに勝っていない。つまり、私は『奴』と戦ったのではなく、その貧弱な少年と一戦を交わしていた事にはならないか?」
旅人が一通りの説明を終えるとアルバンは狂ったように高笑いを始めた。
「ハッハッハ・・・・・・ そう言って本当は倒したのだろう? やめてくれよなぁそういうオルゴーザ支庁の役人どもたちが言うような脅しは・・・・・・」
「オルゴーザ支庁・・・・・・?」
「お前さんはそう言って何か証明したように思ってるそうだが、肝心の証拠がないではないか!」
「証拠ならこれから出てくる。いずれ時間がたてば証明されるだろう。」
「そりゃあ一体どういうわけだ?」
アルバンがそう言うと酒場の外から駆け足のような足音が聞こえてきた。すると酒場にある男が一人入ってきてこう叫んだ。
「大変だ! また別の酒場で火事だ! 犯人は『奴』みたいな風貌をしているヤツだ!」
アルバンはその一報にひどく驚愕した。彼は立っていたカウンターからそのまま崩れ落ちてしまった。酒場の民衆はその情報による恐怖に怯え上がり、一触即発の状態であった。旅人はそんな状況を眺めながらこう呟いた。
「ようやく現れたか・・・・・・」
それを聞いたアルバンの表情は岩石のように固くなっていた。
「嘘だろ・・・・・・? どういうことなんだ・・・・・・?」
「事情説明は後だ。私はとりあえず『奴』の現れた場所へ向かう。アルバンさんはこの酒場で待っていてくれ」
旅人はそう言うと酒場を出ていき『奴』の居る場所へと向かった。アルバンは自警団の団長でありながら、その旅人の姿を眺めるほかに術はなかった。
「一体どういうことなんだ・・・・・・」
震えながらに呟いたアルバンのその言葉は町の奥まで響く。アルバンもまた酒場の民衆の一人にすぎなかったのである。
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