第20話 葵先生と呼ばせて欲しい

 体力回復にはプロテインが良いよと言われて、帰りに薬局でプロテインを買って練習後に飲むことを始めた。確かに幾分か翌日に残る疲労は少なくなったと思う。

 一週間が経って、全身が軋みをあげて痛み始めていた。ジムは日曜日だけが休みで、休みの日はひたすら家で寝ていたら終わってしまった。

 朝起きて、なんとなくバスケ部で真面目にやってたころと同じように朝走って、学校に来て眠くなったら適当に寝て、授業を片手間に、適当にこなしていく。

「ねえ、何か悪いものでも食ったの?」

 那波が休み時間に聞いてきた。

「俺はいつも通りだけど。どうしたの?」

「あのねぇ、病気の人が自分は病気じゃないですって言うのが一番危ないのよ」

「そうなのか。でも俺は、割といつもと変わらないような気がするんだけどなぁ」

「太一、いつもと同じならこんなに寝ないし、先生に怒られてもいない。もっと無難にこなすはずでしょ?」

 葵が会話の間に割り込んできた。

「そうなのか?」

「そうなんだよ」

 どうやら俺は、自分に起こった変化を察知する能力が乏しいらしい。

「ねえ、先週から様子がおかしいけど、そんなにあのことに入れ込んでいるの?」

「あの事って?」

 当然、当事者ではない那波は聞いてくる。

「こないだ、私が格闘技の試合をして、こんど同じ大会に出るって太一が宣言したのよ」

「へー…………」

 那波はどこか興味なさそうに答えてしばらく固まった。

「って、ええーーーーーー!」

 そのあとで、弾んだように立ち上がって、クラス全員の注目を集めてしまっていた。

「どうしたの? 落ち着きなよ」

「どうしたもこうしたも、どっからつっこんでいいのか……。えーとまず、小林さんは格闘技をやっていた。それで試合に出た」

「うんそう」

「それで、赤木くんも、どっかのタイミングで初めてて、こんど試合に出る……と?」

「そうそれ。で、なんかそれで太一の調子おかしいんじゃないかなーって」

「いや、そりゃもう、変な感じになるでしょ。っていうか、二人が格闘技やってるなんて情報どっこにも無かった……どんだけそこが知れないのよ……葵ちゃんは……」

「まあ、言ってなかったからね」

「そうだね」

 すごくいろいろなことを言いたそうな顔をしていた那波だったが、そのまま黙って席に座った。

「試合っていつの出るの?」

「んー、一ヶ月ちょっと先にあってね」

「私はここ一週間練習サボってたからなんとも言えないけど、太一、追い込み練習始めたね。露骨に授業態度に出すぎだよ。あんなりがっつり寝ないし普通」

「そんなもんかなー」

 授業中眠くなっったら寝ていたし、いつも通りのつもりでいたが周りから見るとそうでもないらしい。

「太一、がっつり格闘技にハマってきたね」

 そう言って葵は嬉しそうに笑うのだった。

「ねえ、ところで葵ちゃんの試合の動画とかある?」

 那波が聞いた。

「あるよ。iPhoneで撮ったやつがね。見る?」

「見たい!」

「あ、止せ!」

「諦めろ! ジム経由でようつべアップロード済みだ!」

 というわけで、葵の徒手格闘でもやばい強いって伝説は公式のものとして新聞部から発表された。



 学校が終わると練習を終えて帰路につく。プロ練は週に二回だ。今日は技術の習熟に勤めた。終わった時にしごいてくれるトレーナーもいなかったのでストレッチをして家に帰ることにする。

 葵が同じトレーニングに出ていて、一緒に家路につくことになった。

「頑張ってるんだね。ほんとに。内田さんとかもすごい見てくれてるし」

「頑張ってる方に入るのかな。なんかあんまり実感なくって。努力って、もっとこうさ、辛くてキツくてシンドくて、ってまあ今まさにそうなんだけど、あんまり苦しくないって言うか」

 いや、というかなんでこんなきついことしてるのか、正直わからないっていうか。

「じゃあ、言い方を変えよう。太一はハマってるんだね。今やってることに」

「そうだね。多分それが正しい」

 ハマっているそれが正しい。なんの苦労もなく、のめり込んで苦しいことが苦しくない。バスケ始めて最初の数年間みたいな楽しさを今同じように感じていた。

「ねえ、太一」

「なんだ?」

「手伝ってあげようか?」

 葵が微笑んだ。

「手伝う?」

「トレーニングをだよ。まず、こういう競技向けの追い込み自主練を私がやってたやつ教えてあげる。あとスパーリングとかも全然付き合うし」

「葵と俺の体重って結構違わないか?」

「十キロぐらいでしょ? それぐらいならまあまだなんとかなるレベルだよ。あと何やらせても基本的にボコるから安心して♥」

 やだ、この人怖い。

「それで、どうするの?」

「太一朝走ってるんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、その時間を私に頂戴」

「分かった」

 即答したが、目の前のこの女はあらゆるスポーツを極めただけあって、自分の鍛え方というのはよく理解していると思う。だから、目的もなく朝走るよりも効果的だろうと思った。

「ジムのプロ練もなるべく出るし、私も練習がんばる。頑張って太一が頑張っているところ近くで見るよ」

「なあ」

「なに?」

「なんで手伝ってくれるの?」

「そりゃあ、たぶんそれが一番楽しいからさ」

「楽しい?」

「私が私自身の才能や能力で何かを成し遂げるのは、本当にものすごい上のレベルに行った時だけだ。それ以外に楽しいことっていったら、自分が得たものを人に分け与える時だ。それで、与えた人間が何かを得てくれるなら。今はたぶんそれが一番お手軽な、楽しみなんだよ」

「そう、じゃあ、俺はその恩恵にあずかるとするよ」

「うん。任せろ。私のしごきは鬼のように厳しい」

 嫌な予感しかしないがとりあえず従うことにする。今の自分は、ことこれについてはどこまでも走っていけそうな気がしている。



「遅い、遅い、ペース落ちてるよ!」

「ぬぅぅぅっぅっぅぅぅあああああああああああああ!」

 神社の階段。

 大体の場合石段はやけに高くて上にたどり着くまで結構な高さがある。朝五時に起きて五時半からここで葵と二人トレーニングに励んでいるわけだ。

 最期の気力を振り絞ってなんとか階段を登りきるとその場に崩れ落ちた。

「おおお……死ぬぅ…………」

 階段を上から下まで一気に駆け上がって駆け下りる。一回上まで登りきるのに大体一分程度。これをワンセットとしてゆっくり階段を下ってまた下から一気に駆け上がる。これを三セットやって死ぬ。それで休憩を挟んで三回繰り返して干物になる。

 葵が一緒に同じトレーニングをこなしているのだが、こいつはわりと平気な顔でこなしているあたりおばけかと思う。

「うん、良いね。よく耐えてる。きっちりクールダウンして、ジョギングであっためる、その後でアジリティトレーニングね」

「りょ、了解」

 死にかけの体をよろよろ起こして、ストレッチをして、体を休めすぎないようにジョギングをする。

 そのあとでアジリティのトレーニング。

 全力でのジャンプスクワット。

 左右どちらかにボールを転がして、それをかがんで拾ってパスをして戻る。

 足踏みしたところから合図でバーディー。

 前向きに軽く走って急停止、全速力で後ろ向きに走って戻ってまた走る。

 このようなトレーニングを全力でやらされてまた干物にされる。でも葵はわりと平気な顔をしていて、これが日課ですとでも言わんばかりである。

「死……死ぬ……」

 プロ練もクソみたいに辛いが、これはそれ以上のキツさがあった。

 内田さんから聞いたが、プロは実際にジムだけのトレーニングで技術と基礎体力を磨き、スタミナはフィジカルは外できっちり鍛えるということは知っていたが、まさかここまで過酷だとは思ってもいなかった。

「ふむ、基礎体力はやっぱりバスケやってたこともあってきっちりしてるね。ただ、いかんせん体力なさすぎでしょ」

「なさすぎってアンタ……俺、バスケやらなくなって一年経ってんだぞ……?」

「まあ、とりあえずこれは週四回やろう。あと、体幹トレーニングとかもやっておくと良くなる。学校いったら本あげるね」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 そう言って笑う葵はとても嬉しそうに見えた。


 ジムでも葵は容赦がなかった。寝技のスパーリングで組まされれば、葵が上になろうが下になろうが必ず一回は決めてきて手も足も出なかった。

 打撃のスパーリングも基本的に技量で圧倒されていたわけだが、リーチは俺の方が長いので多少は戦うことができた。

 スパーリング中。

 俺の左のミドルキックをキャッチされて、右ストレートが飛んでくる。なんとかガードをして、耐える。そのまま葵が組みついてくる。首相撲になりかけるが逆に距離を詰めて思い切り押し返す。

 距離が出来た瞬間。ああ、ここだと思って迷わずに左ハイキックをけり込んだ。

 葵のガードが下がった瞬間に、直撃してふらつく。一瞬膝をついたがすぐに立ち上がった。

「てめぇ」

 葵が呻くようにそう言うと、目を赤く爛々と輝かせて襲いかかってきた。

 あっ、死。と思ったら最後、ラウンドが終わるまでの間コーナーに詰められてボッコボコにやられて五回ぐらいダウンを取られた。


 一ヶ月はあっという間に経過していった。

 プロ練でボッコボコにされて、葵にボッコボコにされて、練習でボロ雑巾みたいにされて、朝練でボロ雑巾にされているうちに時間はあっという間に経って行った。

「あと二週間ぐらいだけど、どういう風に戦うとかは決めた?」

 内田さんに聞かれた。

「うーん、打撃でリードを取ってグラウンドにはいかない。背中をつけられそうになったらとにかく逃げる……ぐらいかなぁ……?」

「まあ、才能で見ると典型的なストライカーだしな。寝技は一向に上手くなる気配ないし」

「スミマセン」

「極める技術ってのは相当やってないと難しいし、これまであんまり言わなかったけど知り合いがやってる柔術サークルとか紹介するよ。こういうのやってけばより幅も広がるし。ただ、この試合のあとに考えるべきことだ」

「はい」

「今何ができるかってことを考えたら、やっぱりストライカーとして戦うのが一番良いだろう。グラウンドになったら逃げろ。それで良い」

「はい」

「あと、フロントチョークってどうなんだ? 得意って自覚はある?」

 フロントチョークとは、相手の頭を脇の下に抱えて、腕で相手の首を絞める技だ。

「まあ、他の技よりかは感覚は掴みやすいですね。三角締めと、フロントチョークはわりと……」

「なるほどね。これは一つアイディアなんだけど、打撃でプレッシャーをかけて距離が開いたところからのタックルは切るだけじゃなくって、フロントチョークも使えると思うんだ」

「なるほど」

「基本的には立って打撃で倒す。寝技は上になろうが下になろうが基本的にやらない。漬けも太一くんのフィジカルじゃちょっと不安だ」

「はい」

「それでカウンターでのフロントチョークだ。何回かタックルを切ったあとで間合いとタイミングが覚えられたら使ってみよう。一回相手にフロントチョークもあるって認識させれば、警戒して入って来にくくなる」

「はい」

「だから、最後にこのパターンはちょっとイメージしながらスパーリングやってこう。あとはキックボクシングの技術の錬成だけど、これは栗山さんに任せておこうかな」

 栗山さんは指導を受けて改めて思ったけどキックボクシングの技量で飛び抜けていて、打撃の引き出しという点では相当の数がある。おそらくこのジムでこの人のアドバイスを内田さんの次によく聞いていると思う。

「あとはもうとにかく反復練習しかないけど。この試合で準備できることも限られている。実質的にはあと一週間ぐらいしか練習できない」

「? 試合までは二週間ありますけど」

「残りの一週間は減量と、体力回復のために練習の強度は落とす。むしろ練習しなくても良いぐらいだ」

「なるほど」

「残り何キロ?」

「二キロとちょっとですね」

「それなら食事の量減らして調整で軽く走れば良い。二キロなら水分削るだけで落ちるから心配に思う必要もない」

「はい」

 二キロ減らすというダイエットも経験したことがないからよくわからないが、とりあえず一週間食事に気を使えば良いと考えておく。


 残りの二週間、とにかく怪我にだけ気をつけるようにと言われてスパーリングと強度の高い練習を繰り返していく。だんだんぼんやりしてくるようなことが多くなってきていて、それは疲労のせいだとみんなに言われる。

 とにかく繰り返すのは反復練習だ。やるべきことを体に刷り込ませて、体力の限界まで追い込んで、自分の限界値を引き上げていく。

 残りが一週間になった際に出された指示は減量だけだった。

 プロ練習は出ないで一般練習とフリーの時間帯での調整という名目でのトレーニング。

 とりあえず食べる量を減らす。カロリーの多い炭水化物を抜いて、それ以外は普通に食べる。常に飢えている状態が続き、試合に向けて闘争心がみなぎってくるとともに、このまま何もかも放り投げて逃げ出してしまいたいという葛藤が襲いかかってくる。

 何をしていても落ち着かなくて、ソワソワする。練習していてきつい方が何も考えなくても良くて、今が一番辛い時期だった。

 体重の調整をして二日前ぐらいから規定体重ぴったり前後ぐらいで推移できるようになってきていた。

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