駆出し陰陽師

宗谷 圭

駆出し陰陽師

駆出し陰陽師と夜桜の君

駆出し陰陽師と夜桜の君

 いずれの御時かはわからねど、平安の代。蝶が舞い飛ぶ、春の事である。

 麗らかな春の日差しを浴びながら、死相を浮かべて大路を歩く青年が一人。直衣に冠姿なので、恐らく仕事帰りなのだろう。

 青年は角を何度か曲がり、四条の小路沿いにある邸へと足を踏み入れた。今をときめく藤原氏の邸とは比べ物にならないが、それでもそこそこに広くて立派な邸だ。

 門をくぐり、青年はため息を一つ吐く。そしてとぼとぼと階を上り、渡殿を渡り、簀子縁を歩く。そして、ある一角まで来ると下ろしてあった御簾を掻き上げて体を中へと滑り込ませた。ここが、青年が自室として使っている区画なのだろう。隅に置かれていた脇息にもたれかかり、青年はほっと息を吐く。

 ……が、安らぎを得たのも束の間。

「若君、帰っておいででしたら、すぐに参るように、との姉君様からの言伝でございます」

 御簾の外から女房に声をかけられ、青年はがくりと項垂れる。そして

「わかったよ」

 力無く返事をすると、手早く狩衣と烏帽子姿に着替えた。そして、再び御簾を掻き上げて南庇に出、簀子縁に降り、西の方角へと歩き出した。ここは邸の東対屋。先ほど彼を呼び付けた姉がいるのは、西対屋だ。

「姉上、お呼びでしょうか?」

「遅い」

 目的の場所へ辿り着き、御簾の前で声をかけた瞬間に、御簾の奥から静かな罵声が飛んできた。

「私があなたに来るよう、女房を遣わしてからどれほどの時が経ったと思っているのですか? 待ちくたびれて、物語を三冊も読み終わってしまいましたよ?」

 決して、のろのろとしていたわけではない。寧ろ、急ぎに急いで着替えてきたほどだ。

 だが、姉の発言も真らしく、彼女の傍らには決して薄くは無い草子が三冊、綺麗に積み上げられているのが御簾越しに見える。一体どれほどの速度で読めば、彼が着替えてここまで来るだけの短い間に、あれだけを読み終える事ができるのだろうか。

 そう、疑問を頭に浮かべ。そして、彼――豊喜とよきの季風すえかぜは姉に知られぬよう密かにため息を吐いたのだった。



  ◆



「それで、季風。近頃、お勤めの調子はどうなのですか?」

 許しを得て御簾の向こうに入った途端に、これだ。そう問うてくる姉の口調は、弟の近況を訊きたいという優しい口調ではない。ちんたらしていないでさっさと現状を報告しろ、と催促する、姉というよりは上司の言うようなそれだ。

「あ、近頃というのはやはり、その件で……」

 もごもごと季風が問うと、姉は深くため息を吐いて見せた。

「つい五日ほど前の事ですよ? まだ十七だというのに、そのように覚えが悪いとはどれだけ弛んでいるのです」

 別に、弛んでいるつもりは無い。職場でも弛んでいるなどと言われた事は無い。ただ単に、姉が近況を訊いてくる回数が多過ぎるだけではないか、と思う。……が、言わない。言い負かされるのは目に見えている。

「五日前に、廃れた九条の襤褸邸で育ちかけのがしゃどくろを調伏したところまでは聞きました。その後の五日間、一度文を寄越しただけで全く何も話しに来て頂けないから、わざわざこのようにお呼びしたのですよ?」

「あ、近況というのはやはり、小さな事一つたりとも漏らさず全て、という意味でしたか」

「この場合、他にどのような意味があるというのですか?」

 取り付くしまもない。すると、姉は今までとは一変、何かを期待するような表情を作った。

「それで、どうなのですか? 何か面白そうな話は無いのですか? 折角あの陰陽寮の特殊部署で、あなたが陰陽師として働いているのです。たった五日しか間が無くとも、そろそろ何か、新しい話が舞い込んできた事でしょう? あなたがお勤めのさ中に文を寄越して私の意見を求めてきたのは、そういう事なのではないのですか?」

 そう言う姉の目は、きらきらと輝いている。

 これだ。こんな顔をされたら、例えいつもは暴君のような姉であっても、何か喜ばせてやりたくなってしまうではないか。

 そんな想いを胸に秘め、季風は軽く苦笑した。



  ◆



 豊喜季風は、今年働き始めたばかりの駆出し陰陽師だ。本来なら、先輩陰陽師たちの指導の下、日々雑用に追われ、時には儀式の手伝いをする立場である。

 ……が、現実の季風の仕事は、そんなまともな物ではない。

 陰陽師とひと口に言っても、陰陽、天文、暦と専門分野が分かれている。その中で季風は陰陽学生として学び、今年めでたく正式に陰陽師となれる事になった……のだが。

 配属されたのは、陰陽でも天文でも暦でもなかった。

 どんな部署かと言えば、調伏を専門に行う部署なのである。

 悪霊や異形の者を調伏する事を専門とした陰陽師が集められた部署で、中には元々朝廷に仕えず民の間で細々と活動していた者までいたりする。とにかく実力主義、出自は問わず、で人材を集めた部署であると言える。

 こう言うと、何やらすごい部署であるかのように思える。が、陰陽師になるべく学んだものの調伏以外の仕事がからっきしであったり。真面目に事務をする気も就職する気も無かったが調伏はできる、陰陽を司る家の子息などがいたりもするわけで。

 要は、調伏の実力はすごいが、それ以外は正直言って怪しい者達を掻き集めた部署なのである。そのような部署に配属されたというのは、喜んで良いのか悪いのか……。

 そもそも、何故このような部署があるのか。

 理由は、近年調伏の需要が増えてきて、今までの陰陽寮だけでは全ての依頼を捌けなくなってきたから。

 そして、個人的に陰陽師に依頼をされるとどうしても心情的にそちらが優先されやすく、結果的に伝手を多く持つ、身分の高い者しか悩みを解決してもらえなくなる恐れがあるからだ。

 それに、調伏ばかりしていたら、朝廷の行事や天文の観測などの仕事にしわ寄せがくる。

 それらの理由から、調伏専門の部署が作られた。そして、この部署に所属していない陰陽師は、基本的に相手が誰であろうと通常業務を優先させ、個人的な依頼は余裕がある時だけにしなさい、という決まりができたのである。

 しかし、それではこの部署に所属する陰陽師に伝手を持ってしまえば、結局今までと変わらないではないか。そう言う者もいる。一応個人的な依頼は禁止、と言われているのだが、断りきれない者だっているだろう。

 だが、実際のところ、そういう事例はほとんど無い。何故かほとんどの依頼者が、「陰陽寮を通さない依頼は禁止、身分に関係無く緊急性の高そうな物を優先する」という決まりを破らずに守ってくれているのである。

 そして、破った者はその後姿を見る事が無くなるという噂がまことしやかに流れていたりもする。少し背筋が寒くなる話だが、細かい事を気にしてはいけない。気にしたら負けだ。

 そして、この調伏専門部署を立ち上げたのが、何を隠そう、季風の姉なのである。

 何故女の身である彼女に、陰陽寮の部署を立ち上げる事ができたのか。何故こうも、調伏専門部署に無理を言ってくる者が少ないのか。

 簡単に言うと、姉が言葉での説明が困難なほどに有能だからである。

 瞬く間に物語を何冊も読んでしまう事からもわかるように、この姉は文学の素養が非常に高い。文学だけではなく、漢籍にも歴史にも数字にも強い。筆と文字を使って行う事は何でも苦にせずこなしてしまう。

 もちろん、歌も詠める。絵も上手い。楽器も堪能だし、幼い頃護身の為に学んだとかで、太刀と弓もそれなりに扱えるという話である。そして、当然のように容姿も良い。

 おまけに、どんな手を使っての事か、京中に伝手やら情報網を持っており、呼べばすぐに駆けつけてくれる手下的存在までいたりする。

 まさに万能。欠点と言えば、男に生まれなかったためにその能力を余す事無く活かす事ができないという事。そして、入内どころか男にまるで興味が無く、折角のその美貌や美声を無駄にしている事。と言える。

 そんな姉の行動基準は、基本的に楽しそうか、楽しくなさそうか。そして裏も含めて、あちらこちらに手を回してまで陰陽寮に調伏専門の部署を作ったのは、そういうのがあれば楽しそうだから、という理由に他ならない。

 そして、身内が一人でも所属していれば、詳しい話をいつでも聞く事ができるだろうという期待から、実の弟である季風に陰陽師を目指させ、そして調伏専門部署に配属させた、という無茶っぷりである。

 尚、調伏専門部署に配属する時分には八方に手を回したらしいが、季風が試験を受ける時や、正式に陰陽師になれるか否かの時には何もしていないらしい。

 そして、季風はそんな姉に逆らう事ができず、今に至る。別に、特になりたい物ががあったわけでもないので、その辺りはそれほど気にしていないのが救いである。

 余談だが、姉は世間では「らんの君」と呼ばれている。

 らんは植物の蘭の事であろうと思うのが普通だろうが、その本性を知る者は「嵐の君ではないか」だとか、「乱の君であろう」だとか、言いたい放題である。だが、否定しきれないのが悲しいところだ。

 ついでに言うと、「蘭の君」説を推す者の中には、蘭は蘭でも蘭陵王の事だろうと推測する者もいる。

 これまた、否定しきれない。そして、姉本人がその説を聞いて面白がってしまっているのが始末に悪い。

 そして今日もまた、季風は姉に、求められるままに仕事についての話を語る。

 それは、姉にがしゃどくろ事件の話をしてから、たった二日後の出来事。桜の色に彩られた、美しい夜の話だった。



  ◆



「おい、季風。ちょっとツラ貸せ」

 陰陽寮の一角に急ごしらえ感満載で作られた、調伏を専門とする陰陽師達の室。そこで式神作りに勤しんでいた季風に、上司が手招きと共に声をかけてきた。

 上司の名は、瓢谷ひさごやの隆善りゅうぜん。元々、この部署ができる前から陰陽師として活躍していたそこそこの実力者のはずなのだが……季風の姉に弱味でも握られているのか、恩でも売られたのか。色物集団として名高いこの部署の統括役を本来の業務と兼任で担っている。

 尚、季風の名は本来であれば〝すえかぜ〟である。しかし、勤務中は〝きふう〟と有職読みで呼ばれる事が多い。隆善も本来なら〝たかよし〟だが、普段は〝りゅうぜん〟と名乗るようにしている。

 本来の読み方が相手に知られる事で、呪われてしまう事もあるからだ。呪詛や解呪、調伏を行う陰陽師は、死と隣り合わせの危険な仕事なのである。少なくとも、季風の感覚では。

 それはさておき、その上司のお呼びである。季風は恐る恐る小刀と紙を机に置き、隆善の許へと足を運んだ。

「何でしょうか? あの……先日の報告書に誤字があったとか……?」

「このクッソ忙しい時に誤字なんてつまんねぇ失態やらかした奴を、こんなに優しく呼ぶわけがねぇだろ?」

「別に優しくはなかった……いえ、それで、何の御用でしょうか?」

 ここのところ依頼が立てこみ、下っ端の季風は勿論、上司の隆善もかなり忙しい。寧ろ、統括役である隆善が一番忙しいだろう。

 つまり、最近の隆善はとにかく機嫌が悪い。元々機嫌の良い日の方が少ないぐらいなのに、輪をかけて少なくなっている。そして、隆善は元来気が短く、怒るとすぐに手が出る。手が大きくて握力が強いので、頭を掴んで五本の指で圧力をかけてくる事もあり、これがまたすこぶる痛い。

 また、忙しい時に上司に呼ばれる、という事ほど嫌な予感がする事は無い。こういう時は大抵、余計な仕事が増えるものだ。

 何が言いたいかと言うと、隆善と話をするのが怖い。

 しかし、だからといっていつまでも引き延ばしていると更に怖い事になりかねないので、季風はすぐさま本題を問うた。

 すると、隆善はぴらりと一枚の紙を手渡してくる。反故らしいその紙を裏返して見てみると、そこには走り書きで誰ぞの邸の所在が簡単に書かれていた。

「新しい依頼だ。お前、こないだまで受け持ってたがしゃどくろの調伏が終わったところだし、今なら手ぇ空いてるだろ。今からちゃちゃっと行ってこい」

 その言葉に、季風はがくりと項垂れた。「やっぱり……」という言葉が、呻き声と共に口から漏れる。

 助けを求めて回りに視線を配ってみるが、誰も彼もが忙しそうだ。調伏以外の能力が著しく怪しい者が多い部署とは言え、報告書ぐらいは自分で書かねばならない。そして、ここのところ依頼が立てこんでおり、いつでも必ず誰かが外に出向いている状態であり、手が空けばすぐさま次の依頼を担当させられるという具合であり。

 つまり、ここに居る者は全員、報告書の作成中か、現在抱えている依頼を片付けるために調べものをするか誰かに相談している者なのである。暇な人間がいるはずがない。

 隆善の方を見てみれば、目が「ぐずぐずしてねぇでさっさと行け」と言っている。このまま季風を呪い殺せそうな眼力だ。

 命の危険を感じ、季風は即座に机の上を片付けた。

「それじゃあ、行って参ります!」

 そう言うと、返事も待たずに室を出る。

 このままぐずぐずしていたら、冗談抜きで己が調伏される側の存在にされかねない。



  ◆



「桜の木の下に、女の鬼が出るのじゃ」

 訪ねた邸の主人が、季風が問いかけるのも待たずにこう言った。そんな彼が指差す先には綺麗に整えられた庭があり、ちょうど満開を迎えたらしい桜の木が見えた。中々立派な木で、年季を経ていそうだ。ちょっとした古木である。

 ひとまず桜の木について問うてみると、数年前に山から運び出してきて植樹した物だと言う。どこの山かと問えば、覚えていないという答が返ってきた。

「それで、出るんですか? あの桜の木の下に……」

 本題に移ったところ、邸の主人は首を千切れんばかりに勢いよく振って見せた。

「そうなんじゃ! 桜の花が咲き始めてから、毎晩毎晩! 最初のうちこそ、見目麗しい女人よ、どこの姫が忍んで来たのかと思うておったが、家人でその女の事を知る者は誰一人としておらぬ! 誰の手引きも無しに敷地に入り、毎晩桜の木の下で一晩中立ち続けておる! ここまで来ると、見惚れる前に気味が悪くなってしまってのう……」

 まぁ、たしかにその状況では、ただの人ではあるまい。ただの人であっても無断で敷地に入ってこられたら薄気味悪い。

「家人達も次第に気味悪がりだして、里に帰るの帰らないのと言いだす者まで現れてのう。それで、何とかあの夜桜の君を調伏して欲しいと、陰陽寮に頼み込んだ、というわけじゃ」

「夜桜の君?」

 突然出てきた単語に季風が首を傾げると、主人は「おぉ、うっかり」と苦笑した。

「あの女を美しいものと思って見惚れておった頃に、戯れに名を付けたんじゃ。夜にのみ、桜の木の下に現れる、夜桜の君、とな」

「なるほど……」

 頷き、そして季風は靴を履いて庭に降りた。すぐに結界を張れるぐらいには警戒しつつ、桜の木に近付く。

 そして、桜の木の真正面まで進んだ時、季風は唖然とした。

 木の周りに、全体的に掘り起こされたような跡がある。土竜などの動物では、このような跡はできない。明らかに、人が道具を使って掘り起し、再び埋めた跡だ。

「……あの、これは……?」

 恐る恐る季風の後ろから様子を窺っていた主人に、木を指差して問うてみる。すると、主人は事も無げにこう言った。

「いや、何。いきなり呼び付けてしまっても悪いと思ったものじゃから、まずは自分達で調べてみたのじゃよ。ひょっとしたら、屍か、呪いの品か……何か埋められておるのやもしれんと思うてな。わしは、こう見えて書を読む事が趣味でな。呪術に対抗するすべも、いくつかは知っておる。じゃが、何も出てこなかった。ひとまず埋め戻して塩を撒いておいたが……」

 その言葉に、季風は思わず頭を抱えた。こういう、中途半端に知識を持つ素人が一番怖い。

 何故こういう人種は揃いも揃って半端に手を出して事態をややこしくしてから本職を呼び付けるのか。下手に手を出さず、最初から丸投げしてほしい。その方が、まだ面倒が少なくて済むというのに。

 しかし愚痴を言ったところで始まらない。季風は、さっさと仕事に取り掛かる事にした。

 ざっと見たところ、木自体に呪がかかっている様子は無い。周囲の土も同様だ。特に何かが仕掛けられている様子も無く、妙なものが巣食っているわけでもなさそうだ。

「……となると、夜を待ってみるしかないか……」

 そう結論付け、季風は邸の主人に、庭で夜明かしする許可を求める。要望は、勿論即座に受け入れられた。

 全ては、夜になってから。

 夜を想い、気を新たに引き締めつつ。季風は桜の木を見上げた。

 雪と見紛うような花びらが、ひらひらふわふわと、舞い落ちている。

 綺麗な桜だな、と、季風は何気無く思った。



  ◆



 陽が落ち、夜はすぐにやってきた。

 庭石に腰掛けたまま、季風は桜の木を見張っている。薄暗くなった中、白い花びらがふわふわと舞い落ちる様は昼とはまた違った美しさがあると、季風は思った。

 やがて、ひらひらふわふわと。舞い落ちる花びらの量が増え始めた。

 ひらひら、ふわふわ。ひらひら、ふわふわ。

 花びらはどんどん増える。大雪かと見紛うほどに降り注ぐ。咲いている花よりも多く、これ以上落ちたら木が丸裸になってしまうのではないかというような量が。止む事無く、降り続く。そして、咲き誇る花は減る様子が無い。

 奇怪な。だが、不思議と恐ろしさは感じない。それどころか、闇夜に降り続ける花の雪、その光景の美しさに酔いそうだ。

 やがて、吹雪のようなその花びらの中に、うっすらと人の姿が見えるような気がし始めた。それは次第に、見えるような気がする、から、見える、に。

 薄花桜の襲。黒く流れる髪には、何で作られているのか淡い白の髪飾り。

 儚げな顔。切なげな表情で、一点をじっと見詰めている。

 季風は思わず、息を呑んだ。

 その、美しさに。夜桜の君と呼ばれる彼女が纏う、気の清浄さに。

 ……そう、清浄だった。穢れを知らぬであろう、純粋で、清浄な気。

 あまりに清浄故に、その気だけで彼女が人ではないのだと知れる。そしてそれと同時に、鬼でも有り得ないと、季風は感じた。

 多くの鬼は、人に害を成すもの。もしくは、人が人を呪う気持ちが姿形を得、人々の目の前に現れ出たもの。それがこんな清浄な気を発しているとは考えにくい。

 悪いものではない。

 そう判断した季風は、警戒をやや解き、ただ夜桜の君自信と、その周辺へと視線を配った。悪いものではないとは言え、彼女が現れるようになった原因、どうやったら現れなくなるのか、を見極めなければ、依頼を解決した事にはならない。

 依頼をいつまで経っても解決できないと、隆善に何を言われるかわかったものではない。ひょっとしたら、拳も飛んでくるかもしれない。仕事で苦戦していると知られれば、姉にも小言を言われるだろう。

 それらの恐怖が頭を過ぎり、真剣に観察する。幸か不幸か、夜桜の君は季風に一切興味が無いらしく、ずっと見詰めていたところで、怒りだす事も無い。

 季風はまず、夜桜の君が何を見ているのか。その視線の先を追ってみた。

 門だ。この邸に入るための、門が見える。門の周辺には何も、誰も見えない。だとすると、彼女が見ているのは門そのものか、門の先にある物か。

 夜桜の君に、突然消えてしまいそうな様子は無い。そこで、季風は少しだけ桜の木から離れて、門の先を見に行った。

 何も無い。門を開けてみても、そこにあるのは路だけだ。

 首を傾げて木へと戻り、そしてまた夜桜の君や木の周辺を観察する。夜桜の君は、一向にこちらの興味を示す様子が無い。すこしだけ、寂しい。

 木を調べていて、季風は「ん?」と呟いた。何となく、だが、木の内側から何者かの気配を感じる。それは、今そこに見える夜桜の君と同種の気配のような、違うような……。

 よくわからない事に固執して考え続けていても効率的ではない。その点を考えるのは後回しにして、季風は更に辺りを調べ続けた。

 だが、調べども調べども、特に何も見付からない。ただひたすら、地面に花びらが降り積もり続けているだけだ。

 そうこうしているうちに、空が白み始めてしまった。舞い落ちる花びらの量が次第に減り、夜桜の君の姿も透けていく。

 そして、鶏の鳴き声が聞こえて……夜桜の君は、完全に姿を消してしまった。それと同時に、あれだけ降っていた花びらもまるで見えなくなってしまう。これまでは地面が見えないほど積もっていた花びらが無くなり、今では土の面の方が多いぐらいだ。

 何の成果も無かった事に溜め息をつきつつ、季風は辺りに散っている花びらを何枚か拾い始めた。どう見ても普通の花びらだが、陰陽寮に持ち帰って調べれば、ひょっとしたら何かがわかるかもしれない。

 一枚一枚を丁寧に拾って、懐紙に載せていく。そして、ある花びらを手にした時、季風は眉をひそめて首を傾げた。

 今手に取った花びら、感触が植物のそれではない。ざらざらしているし、持ち方を変えるとつるつるともしている。

 徹夜明けの頭ではそれが何なのかすぐに判断する事が出来なかったが、それでも少し間を置けばわかる。

「……何で、こんな物がこんなところに……?」

 呟き、季風は手に取ったそれをまじまじと見る。

 それは、桜のようであれど桜にあらず。桜の花と似た色をした、貝殻だった。



  ◆



「何なんだろうな、これ……」

 陰陽寮に持ち帰った花びらと貝殻を眺めながら、季風はぽつりと呟いた。

 調べてみたところ、これらに特に呪のようなものはかかっていないようであった。ただの花びらと、貝殻。ひとまず、安心である。

 しかし、呪がかかっていなかったとなると、この貝殻は何故桜の木の下にあったのだろうか。誰があの場に置いた? 何のために?

「そもそも、これってどういう貝なんだろう?」

 ふと、まず季風がこの貝そのものについての知識も持ち合わせていない事に気付いた。どういう名の貝なのか、という事すら。名も知らぬのでは、この貝に何があってもわからないのも当然ではないか。

 名というのは、呪を扱う者にとってはいわば、個人情報の塊だ。名を知る事で正体も知る事ができるし、相手を支配下に置く事だって実力次第ではできる。それを避けるために、季風や隆善は仕事の時に名前の読み方を変えているのだ。

 だから、相手――今回の場合は、この貝――の事を知りたければ、まずは名を知らなければならない。

 まずは、貝の名を調べよう。行動の糸口を掴んだ季風は、若干顔を明るくして、立ち上がった。だが、その顔からはすぐに明るさが消える。

 どうやって調べれば良いのだろう? 貝の絵が載っている書物など、あっただろうか?

 誰かに訊いた方が早いかもしれない。だが、わかりそうなのは誰がいるだろうか? そもそも、周りを見渡せば誰も彼もが忙しそうだ。中には忙しさのあまりに殺気立っている者までおり、下手に声をかけたりしたら呪殺されかねない。

「おう、季風。どうした? 何か面倒事になりそうなら、本当に面倒になる前に誰かに相談しろよ」

 困っている気配を察知したのか、隆善が声をかけてくれた。普段は口が悪く手も早くて怖い人物だが、こういう時は良い上司だな、と思う。

「はい、実は……」

「たかよしさまー。何か来客らしいですけどー?」

 季風が相談しようとしたその瞬間、間延びした声で隆善を呼ぶ者があった。それも、本名で。あっという間に隆善の顔は恐ろしく歪む。

「仕事中はたかよしじゃなくて、りゅうぜんだ、っつったろうが! あと敬称嫌々言ってんのが透けて見えてんのはわざとか? 真面目にやらねぇと呪い殺すぞ、このくそ野郎!」

 最早、隆善に季風の姿は見えていない。そうでなくても来客があったようだし、当分相談に乗ってもらう事はできないだろう。

 なら、結局季風はどうすれば良いのか? 誰に相談すれば良いのか?

 考えに考えたが、結局思い浮かぶのは一人だけだった。

「姉上……以外にいないよなぁ……」

 博識な姉の事だ。貝の名にも通じているかもしれない。だが、今から邸に帰って、姉に相談しているとなると、移動に費やす時がやや惜しい。昨晩は徹夜だったのだ。余分な時があるのであれば、その分どこかで仮眠を取りたい。

 そこで、季風は文を書いた。貝の名や、それに関する知識を得たい旨を、どうとでも取れるように遠回しに書く。下手に仕事のためだとはっきり書くと、話を聞かせろ今すぐ聞かせろ、知識を得たくば帰って来い、ぐらい言いだしかねない。

 あの何でもできる姉であればそれも可能だろうが、季風には無理だ。そんな時があるなら仮眠を取りたい。だが、何でもできる姉にはその理論が通用しない。自分にできる事なら他人にもできるだろうと、世間一般的には無茶に分類される事を要求してくるのが姉――らんの君という人なのだ。

 書き終えた文を折って、鳥を形作る。そして、その背に落ちないように件の貝殻を載せた。

 その鳥を机の上に置き、季風はさっさっと手早く印を切る。そして、小さな声で何事かを唱えると、「疾っ!」と鋭く声を発した。すると、紙の鳥は命を得たかのようにぱたぱたと羽根を動かし、宙へと浮き上がり、そして空へと飛んでいく。

 こうして、姉に力を貸して貰うための文は姉の許へと飛んでいった。あとは返事を待つ他無い。そう結論付けた季風は、辺りの道具を一旦片付け、机の位置を少しだけ動かした。姉から返事が来るまで、ここで仮眠を取っておく事としよう。

 そう決めて、仮の寝床を整えて。さぁ寝ようと横になった、その時だ。

 さきほど鳥を見送った場所から、鳥が入ってきた。季風の鳥が戻ってきてしまったわけではなさそうだ。季風の鳥は白い紙で作った物だが、この鳥は模様が入っていて趣のある紙を折り作られている。

「……早過ぎる……」

 唖然として、季風は右手を差し出した。鳥は迷う事無く季風の手に載り、そして動かなくなる。もう、ただの紙で折られた鳥でしかない。

 開いてみれば、ころんと先ほどの貝殻が転がり出てきた。そして、文の中身はたしかに姉の手による物で、ご丁寧に彼女が普段愛用している香まで焚き染めてある。

 読むのは早いわ、答えるのも早いわ、文を書くのも早ければ、それに短い間に香まで焚き染めてしまい、挙句自分自身も術を使って文を送る事ができる。

 本当にあの姉は、色々と有能過ぎてもう意味がわからない。

 兎にも角にも、折角送ってもらった文だ。仮眠を取るのは後回しにして読み、内容によっては礼の文も書いて送らねばなるまい。

 そう思って、折角移動した机を元の位置に戻し、姿勢を正して姉からの文に目を通す。そして、何度も何度も読み込み、やがて。

「そうか……」

 と、声が漏れた。

「そういう事だったんだ……。だとすると、夜桜の君があの邸に出ないようにするには……」

 ぶつぶつと呟きながら、考えた事を反故に書いてまとめていく。そして、書き終え、筆を置くと同時に「よし」と頷いた。

「上手くいけば、今夜中には何とかなりそうだ。それにしても……」

 独り言を言いながら姉の手紙に再び目を落とし、季風は苦笑した。

「ここまで想定して手を回してくださるとは……。本当に、姉上は有能と言うか何と言うか……何者なんだろう……?」

 考えたところで答えが出るわけではないし、今考えるべき事はそれではない。季風は首を振ると立ち上がり、丁度戻ってきた隆善に一言声をかけて外へと出た。

 仮眠など取ってはいられない。

 今夜、夜桜の君に関する全てを解決するために。手に入れておかねばならない物があるからだ。

 季風は、目的の場所に向かってずんずん歩く。

 夜な夜な現れる美しい夜桜の君。その謎が解けるまでの時は、あと僅かだ。



  ◆



 逢魔が時を迎え、空の色は次第に赤く、そして黒く移り変わっていく。そんな空の下、季風は邸の主人と共に、桜の木の下でゆるゆると酒を酌み交わしている。

「まことに、今宵で終わるのか?」

 疑わしげな目をしながら酒を乾す主人に、季風は「えぇ」と頷いた。

 酒は、夜桜の君が現れるまでの時を潰せるよう、邸の主人が用意してくれた。だが、折角の厚意だが、正直なところ、季風はあまり酒に強くない。完全に酔っぱらってしまう前に、事を済ませたいところだ。

 辺りはどんどん暗くなり、やがて、いつも夜桜の君が現れる刻限となった。だが、不思議な事に、いつまで経っても夜桜の君は現れない。

 主人は不思議そうに首を傾げ、酒をどんどん乾していく。やがて、その酒も無くなり、する事が無くなった主人が赤らんだ顔を季風に向けた。

「不思議じゃ……まことに不思議じゃ。いつもならとうに現れておるはずの、夜桜の君の姿が一向に見えぬとは……。もしやそなた、既に……わしの知らぬ間に、夜桜の君を調伏してくれたのか?」

「いいえ」

 多少、酔いが回ったのだろうか。少々緩慢な動作で首を振り、季風は否定の言葉を口にした。

「調伏はしていませんし、夜桜の君はまだここにいますよ。ここに」

 そう言いながら、季風は懐をまさぐった。取り出したのは、何かを丁寧に包んでいる懐紙。それを開くと、ころん、と貝殻が転がりだした。桜の花と同じ色をした、貝殻だ。

「これは……貝か?」

「そうです、貝です。これを、こうして……」

 言いながら、季風は貝殻を地面に置いた。地面には、今までに舞い落ちた桜の花びらが薄らと積もっている。

 そして、貝が地面に完全に置かれたか否かの時だ。

 ひらひらふわふわと。舞い落ちる花びらの量が増え始めた。

「これは……いつもの……!」

 邸の主人が目を見開く。そんな彼に言葉をかける事も無く、季風は目の前の光景をじっと見詰めていた。今後二度と見る事は無いかもしれないこの美しさを、目に焼き付けようとするかのように。

 ひらひら、ふわふわ。ひらひら、ふわふわ。

 花びらはどんどん増える。大雪かと見紛うほどに降り注ぐ。咲いている花よりも多く、これ以上落ちたら木が丸裸になってしまうのではないかというような量が。止む事無く、降り続く。そして、咲き誇る花は減る様子が無い。

 やがて、吹雪のようなその花びらの中に、うっすらと人の姿が見え始めた。

 夜桜の君だ。

 彼女は姿を現すと、昨夜と同じようにただ一点……門の方ばかりを見詰めている。その姿に、季風は笑いながら声をかけた。

「こんばんは。また、お会いしましたね。夜桜の君」

 声をかけても、夜桜の君は微動だにしない。それほどまでに一途に、一体何を待っているのだろうか。

 それは、季風にはもうわかっていて。そして、それはもう、すぐそこに用意してあった。

「お待たせして申し訳ありません。お入り頂けますか?」

 季風は突然声を張り上げ、門の外へと呼びかけた。すると、門から三人の人影が姿を現す。

 一人は九か十くらいの年ごろであろう童。一人は、童より一つか二つ下であろう女童。どちらも中々良い着物を着ている。良家の子だろうか。

 三人目は洗いざらしの水干を着た、若い男。恐らく、童達の家に仕える舎人か何かなのだろう。

 その三人に、季風は言葉を発しないまま、頷いて見せる。それだけで伝わったのか、童と女童も頷いた。

 童が、少し間の悪そうな顔で懐をまさぐり、懐紙を取り出す。それには、先ほどの季風が持っていた懐紙同様、桜色の貝殻が包まれていた。

「何と、同じ貝が二つ? それに、この者達は……この童は、孫の……」

 目を丸くする邸の主人に、季風は苦笑した。

「同じ貝が二つ、ではありません。元々この貝殻は、二つで一つだったんですよ」

 そう言いながら、童から貝殻を受け取り、先ほどと同じように地面に置く。

 すると、ただでさえ吹雪の様に舞い落ちていた桜の花びらが、更に増えた。花びらは舞い落ち、積もり、そして渦を巻くように舞い上がる。

 その花びらの渦の中に。いつしか一人の貴公子が現れた。

 品のある美しい顔立ち、背は高く、柔和な表情をしている。身に纏っている単と狩衣は、夜桜の君の薄花桜の襲と似た色合いだ。呼び名は……今の状況に合わせて、仮に〝花吹雪の貴公子〟……とでもしておこうか。

 夜桜の君と、花吹雪の貴公子。二人はそこにいる者達には目もくれず、ただ互いに見詰めあっている。

 やがて、先に動いたのはどちらであっただろうか。二人は共に近寄り、腕を広げ。そして、力いっぱい抱き合った。人目をはばからないその様子に、季風と邸の主人は思わず顔を袖で覆い、舎人は二人の童の目を両手で隠した。

 そして、時が経つにつれてそろそろと覆いとした袖を下ろしていく季風と主人の眼前で。抱き合ったまま夜桜の君と花吹雪の貴公子の姿は薄れていく。

 薄れて、薄れて。やがて、二人の姿は完全に見えなくなった。それと同時に、あれほど降り続いていた花吹雪も、ただちらちらと舞い落ちるだけとなる。地面にも、それほどの量は積もっていない。いつもと同じだ。

「な……何だったんじゃ、今のは……」

 唖然とする主人の前で、季風は地面からある物を拾い上げた。それは、先ほどの桜と同じ色をした貝殻。別々に置いた筈なのに、今はしっかりと組み合わさって一つになっている。

「これ。……この貝が、夜桜の君と、あの花吹雪の貴公子の正体だったんですよ」

「貝が?」

 季風の言葉に、主人は目を丸くする。見れば、童と女童、舎人も不思議そうな顔をしているではないか。

 そこで、季風はここへ来るまでの道のりを話す事にした。まず頭に過ぎるのは、あの姉から届いた文の事だ。



  ◆



「これは桜貝です。この程度も、ひと目でわからないなど、勉学が足りていない証拠です。嘆かわしい」

 姉から送られてきたのは、大体こんな感じの冒頭で始まる文だった。

「あなたの学が足りない事に関しては、また後日。それよりも、この貝殻が一枚しか無い事が気にかかります。男のあなたには馴染みが薄いかもしれませんが、貝殻という物は二枚で一組となる物なのですよ」

 言われてみれば、そうだ。貝殻は、二枚で一組。そして、例え同じ種類の貝であっても、綺麗に組み合わせる事ができるのは元々一緒になっていた貝殻のみ。

 そう言えば、女人が遊ぶ貝合わせは、この同じ貝殻としか組み合わせる事ができないという貝の特徴を生かした物ではなかったか。たしか、貝のようにぴったりと対になる事ができる、そんな殿方と出会い嫁ぐ事ができるように……というような意味だったような。

 そこで、季風ははっとする。片方しか無い貝殻。ずっと門の外を見詰めている夜桜の君。それが意味するのは、ひょっとして……。

 考えながら姉の手紙に更に目を通す。後の方にも、かなりの量の文字が書かれていた。

 例えば、現在海のある国に国司として赴任している者がある家。

 例えば、最近海のある国に赴き、そして帰ってきた者のある家。

 例えば、市場で干魚を購っている者の家と、その仕入先。

 とにかく、海に関係がある者、あった者。桜貝を手に入れる可能性がありそうな者の名前がずらりと書き記してあった。

 ……いつの間に、どうやってこれだけの事を調べたのだろうか。本当に、あの姉は何者なのだろうか。

 そんないつも感じている疑問は横に捨て置き、姉の文を頼りに季風は京中を駆け巡る事となった。

 季風の考えが正しければ、この京のどこかに……姉の記してくれた人物のうちの誰かが、片方しか無い桜貝の貝殻を持っている筈だと信じて。



  ◆



「結果は、ご覧の通り。この子達の叔父君が先日まで仕事で須磨に行っていたとかで。こちらの妹姫に桜貝を一組、土産として持ち帰ったそうなのですが……兄君がいじわるをしてこの貝を持ち出してしまったと言うのです」

 童は、この邸の主人の孫と仲が良かった。それで遊びに来て、庭で遊んでいるうちに貝殻を片方落としてしまったのだろう。

「あとは、何となくわかりますよね? 対となる相手と離れ離れになってしまった桜貝の片割れが、相手を求めて夜な夜な姿を現していたのです。あの門から、いつか迎えに来るだろう、と。それが、あの夜桜の君だったんです。」

 そして、今宵対となる貝殻は、夜桜の君を迎えにやってきた。花吹雪の貴公子として。

 夜桜の君である貝殻は季風が持っていたのだから、元の持主がわかった時点で返しても良かった。だが、目の前で夜桜の君が消えなければ、この邸の主人は安心できないだろう。だから、舎人を保護者に、童達に貝殻を持ってきてもらう事にした。

 そして結果は、見ての通りだ。夜桜の君は花吹雪の貴公子と無事対面し、二人は再び一つとなった。そして、今こうして元通り一組の桜貝となり、女童の手元へと返される。綺麗な貝が戻ってきた事で女童はよろこび、兄である童は間が悪そうな顔のまま女童に謝った。

 それらの様子を一部始終目の当たりにした邸の主人は、「ふむ」と頷いた。その顔は、とても満足気である。

「つまり、これでもう夜な夜な夜桜の君が出る事は無くなった、という事じゃな。真相を知ると、今後あの美しい女人に会えなくなるのが少々惜しくもあるが……せっかく一つに戻れた二人を、また引き離すわけにもいかないからのう」

 そう言って納得し、そして一つ欠伸をした。

「いかんいかん、夜も大分更けてきおったわ。皆、今日は我が邸で休まれるがよかろう。季風殿も……」

 泊まっていけ、と言う主人に、季風は丁寧に礼を言った。だが、他の者達とは違い。すぐに寝殿の方へ向かおうとしない。

「実は、先ほど頂いた酒が大分回っておりまして。しばらく外の風に当たり、酔いを醒ましておからお世話になりたいと思うのですが……」

 季風の申し出を、主人は快く受け入れてくれた。そして、季風を一人庭に残し、皆寝殿の方へと向かって行く。

 残された季風は、はらはらと花びらを落としている桜の木に向かい、ふっ、と微笑んだ。

「いるのでしょう? 差支えなければ、姿を見せてはくださいませんか? ……夜桜の君」

 季風の声に反応するように、舞い落ちる花びらの量が増えた。そのうちに、一人の女人が姿を現す。

 だが、それは先ほどまで皆が見ていた夜桜の君ではない。桜萌葱の襲を身にまとった、女人。髪は白く、口元には柔らかな曲線で皺が描かれている。随分と齢を経ているようだ。

 だが、齢を重ねているとは言え、その女人は上品で、それでいて、齢を感じさせぬほどに美しかった。

「先ほどの女人は、夜桜の君ではなく、桜貝の君と呼ぶべきだったのでしょうかね。……あなたが、本物の夜桜の君、でしょう?」

 季風の問いに、老女は柔らかく微笑んだ。肯定されたとみて良いだろう。

「おかしいと思ったんです。桜貝の精なのに、彼女が現れる時には花吹雪が舞っていた。そもそも、あの二人は人の姿になるにはあまりに若い。これは、誰か別の精霊が力を貸しているな……と思ったわけですよ」

 独り言にも似た季風の言葉を、老女――夜桜の君はにこにこと聴いている。どうやら、彼女が桜貝達を人の姿にしていたとみて間違い無さそうだ。

「桜の木を……あなたを調べた時に、二つの気配を感じました。一つは、そこにいた夜桜……いえ、桜貝の君の気配。そしてもう一つは、木の内側から、あなたの気配を」

 対となる相手と離されてしまった桜貝を哀れに思い、齢を経て力を持っている桜の古木が力を貸した。

 だから、桜貝の君や花吹雪の貴公子が現れた時に、花吹雪が舞ったのだ。

 だから、貝殻を地面に置くまでは、桜貝の君が姿を現す事が無かったのだ。根を通して桜の木と繋がっている地面。桜の花びらが降り積もっている地面。そこに触れて力を貰わなければ、貝殻は人の姿を取る事ができなかったから。

 夜にだけ桜貝の君の姿を現したのは、人目に極力触れないためか。それとも、逢魔が時を迎えた後であれば、人ならぬ者の力が増すからか。

 どちらにしても、並みの精霊ならやろうとも思わないだろう。何の縁故も無い桜貝のために、そこまでしようなどとは……仮に季風が桜の木の精だったなら、思い付きもしまい。

「優しい方ですね。それに……美しい」

 ぽろりと言うと、夜桜の君は驚いたように目を丸くし、そして苦笑した。年寄りをからかうものではない、と言っているようだ。

「お世辞ではないですよ。本心です」

 少しだけ照れながら言って、そして季風ははにかんだ。すると、夜桜の君も照れを隠すように袖を顔にやる。顔は隠れたが、それでも笑っている事が気配からわかった。

 顔を隠したがる夜桜の君に呼応したものだろうか。ざ、と強く風が吹き、降り積もっていた桜の花びらが舞い上がる。季風が舞い上がる先を思わず見上げれば、夜空に大きく丸い月が照り輝いていて……。

「美しい……」

 月と桜、両方から目を離す事ができないまま、季風はそれだけを呟いた。夜桜の君も、もう顔を隠してはいない。共に、桜の花びらに彩られた夜空の月を眺めている。

 季風と、夜桜の君。二人は言葉を交わす事無く、ずっと空を眺めていた。夜が明けて、夜桜の君が姿を消してしまうまで。

 ずっと、ずっと……。



  ◆



「なるほど。それで二日前、あのような文を寄越したのですね」

 納得した様子の姉に、季風は「そういう事です」と頷いた。だが、これで解放されるかと思いきや、姉はまだ何か訊きたい事がありそうな顔をしている。

「……あの、姉上……まだ何か?」

 恐る恐る問えば、姉は「えぇ……」と疑うような視線を季風に投げてくるではないか。

「……日の数え方を間違えてはいませんか? あなたの話だと、夜桜の君の件が解決したのは、文のやり取りをしたその日の晩……つまり、二日前の夜です。昨日の朝には全て終わっていたのでしょう? なのに、あなたが帰ってきたのはつい先ほど」

 何を想像したのだろうか。姉が少しだけ頬を赤らめつつも、季風を睨み付けてきた。

「丸一日、あなたは一体どこで何をしていたのですか?」

 残念ながら、姉が今想像したような事は何一つしていない。ため息を吐きながら、季風は補足の報告を口にした。

「陰陽寮で報告書を書いていて、それが終わったのが昼過ぎ……。終わってすぐに帰ろうとしたのですが、同じく修羅場でかれこれ十日続けて働き詰めの先輩が動けなくなってしまったので、代わりに調べものと、各種書類の代筆を行っておりました……徹夜で」

 加えて、前の二日間も、季風は夜桜の君の件でほぼ徹夜をしている。実質、三日連続の徹夜である。道理で帰ってきた時、死相が浮かんでいたわけだ。

「あらあら、それでは私は、そんなあなたに話を無理強いしてしまったのですね」

 ごめんなさい、と素直に謝り、姉はそのまま季風を解放してくれた。季風はほっと溜息を吐き、己の室に帰ろうと立ち上がる。

「あ、ちょっとだけ待っていただけますか?」

 解放してくれたと思ったのに、すぐに姉は季風を引き留めた。二階棚の前でごそごそとしていたかと思うと、何物かを取り出し、季風に差し出してくる。

 それは、小さな小さな絹製の袋。匂い袋だろうか? 偶然にも、あの桜貝の君や花吹雪の貴公子が着ていた着物と似た色合いの布地が使われている。

「これは……匂い袋ですか?」

 首を傾げながら、季風は袋の口を開けてみる。すると中から、淡い色をした桜の花びらが数枚、ぱらぱらとこぼれ落ちた。

「あ……!」

 風に攫われたらまずい。咄嗟にそう判断して、季風は慌てて花びらを袋の中に戻す。姉は、そんな季風の様子を眺めてくすりと笑った。

「持ってお行きなさい。話に聞くだけでも美しい桜をその目におさめたあなたなのですから……それを持って床に入れば、夢の中でまた、美しい桜を見る事ができるかもしれませんよ?」

 姉が話の全容を知ったのはつい今しがただというのに、何故このような物が用意されているのだろうか。本当に、この姉は何者なのだろうか。

 考えたところで答えが出るものでもないだろう。眠さにも負け、季風は考える事を止めた。

 今度こそ姉の室を辞去し、三日ぶりに夢を見るべく、己の室へ足を急がせる。

 途中一度だけ、先ほど姉に手渡された匂い袋を取り出し、まじまじと見詰めた。

 気のせいだろうか。桜の香りと、嗅いだ事も無い筈の潮の香りと。二つの香りが鼻腔を掠めた気がして、季風は思わず顔を綻ばせた。



(了)

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