第269話 防壁内での交渉事
都市間輸送車両の護衛依頼の件が片付いた後、ヒカルは平穏な日々を送っていた。若く有能な者に付き物な傲慢、優秀さ故の上昇志向が、アキラという人物との関わりで得た死地手前の経験によって十分に落ち着いたこともあり、毎日の業務を無難かつ及第点を超えた成果で熟していた。
それによりヒカルの評価は少しずつ上がっており、周囲の者からもいずれは大成するだろうと思われていた。
それでもヒカルはその日々に満足していた。身の程を超えて駆け上がればアキラのような者達と関わる機会が増えると思っているからだ。自分にはキバヤシのような
その日々の中、ヒカルはイナベに仕事があると突如呼び出された。以前のヒカルならば突然の指名を
ヒカルが失礼の無い態度でイナベの執務室に入る。するとソファーに座っていたイナベは部下との話を切り上げて、ヒカルに手で着席を促した。
「座りたまえ」
勧められた向かいのソファーにヒカルがおずおずと座る。するとイナベは部下達に視線で退室を促した。部下達は黙って従い、一礼して出ていった。
ヒカルの顔が僅かに
「……イナベ区画長。その、私に仕事があるというお話でしたが、一体どのようなものでしょうか……。実は今、広域経営部での案件を幾つか抱えておりまして……、抱える案件がこれ以上増えますと既存の作業への影響が……」
イナベからどんな仕事を言われるのか分からないが、やりたくない。ヒカルはその内容を可能な限り穏便に
イナベが表情を
「問題無い。現在抱えている案件は全て忘れて良い。それらは他の者が責任を持って実施する。
「そ、そうですか……」
「具体的な話に入る前にこの資料を読んでくれ。30分だ」
「は、はい」
ヒカルがテーブルの資料を手に取る。資料は普通なら情報端末等で閲覧すれば済むのだが、
「紙の資料であることに対して、説明は必要か?」
「い、いえ」
「そうか。では逆に尋ねよう。これらの資料、なぜ
イナベはそう言って、真面目な視線をヒカルに向けた。これを適当にごまかしたり受け流したりすると、非常に厳しい対処を取る必要が出てくる。尋問ではないが、それに近い。イナベの視線はそう雄弁に告げていた。
ヒカルが冷や汗をかきながら問いに答えていく。
「……単なる印刷物である以上、クガマヤマ都市の閲覧制限機能の外にあります。恐らくこれらの資料には本来私の権限では閲覧できない内容が含まれています」
「成る程。他には?」
「印刷した時点でデータ共有システムから切り離されています。よって、都市のシステムは記述内容の正当性を担保していません。私にとって資料の内容を保障するものは、提供元がイナベ室長であるということだけになります」
「成る程。他には?」
まだあるだろうと、イナベがヒカルをじっと見詰めた。ヒカルが白状するように続ける。
「……この資料が流出しても、既に幾らでも
イナベが真面目な顔で
「それだけ分かっているなら十分だ。実に優秀で何よりと称賛しよう。では、読んでくれ。虚偽の記載部分は、資料の内容を正確に把握すればすぐに気付くものばかりだ。見付けたらその都度私に質問してくれ。紙にも出したくない情報もあるのでね」
逃げ場は無いと悟ったヒカルは、覚悟を決めて資料に手を伸ばした。
資料の内容はアキラとクロエの状況、そしてリオンズテイル社とクガマヤマ都市の間で発生した事態の詳細だった。アキラが500億オーラムの賞金首となり、モンスター認定まで受けたこと。クロエが都市襲撃犯として防壁内に軟禁されていること。そして、都市の幹部会でそれらの対処の会議を行った際に、ウダジマがリオンズテイル社との
ヒカルは10分で内容の把握を済ませた。残りの20分はイナベから内容に関する質疑応答を受けて、内容を十分に把握していることを確かめられた。
確認を終えたイナベが満足そうに
「
違っていてくれというヒカルの祈りは届かず、資料を読んで浮かんだ内容が告げられる。
「内容は、アキラとの交渉だ。今回の件を穏便に済ませる
「ま、待ってください!」
「駄目だ」
イナベはヒカルの必死の訴えを内容も聞かずに断り首を横に振った。そしてヒカルの要望を潰すように説明していく。
賞金首となり非常に警戒しているであろうアキラと交渉する
イナベが知る該当者は3名。イナベ自身。キバヤシ。そしてヒカルだ。だがイナベは都市の幹部会でアキラのモンスター認定解除に専念しなければならない。ウダジマの妨害は必至で、その対抗作業中にアキラと
よって担当者は消去法でヒカルとなり、代わりはいない。イナベからそう説明されたヒカルは、自分のような小者ではなく、イナベやキバヤシのような者を担当にした方が良いという提案を、話す前に潰された。
「これが君を今回の件の担当者に選んだ理由だ。説明内容に不備があるなら聞こう」
ヒカルは必死になって思案し、説明された内容を反芻し、自身を担当から外す
そこにイナベが更に続ける。
「気が進まないのは理解できるが、君のやる気を引き出す
「……私達、ですか?」
ヒカルは思わず
「そうだ。私達だ。ハンターが都市に大きな被害を出した場合、その原因となった者は必ず責任を追及される。事態の発生を導いた様々な要因に対してだ。そこにはそのハンターにそれだけの力を与えた者の責任も含まれる」
「それは理解していますが……」
「君に閲覧してもらった資料の中にはアキラの戦闘能力も記載されているが、内容に誤りがある。正確には、彼の今後の戦闘能力に対する推察が著しく甘い。君はアキラの戦闘能力を都市間輸送車両の護衛依頼を基準にして考えているのだろう。その認識では、非常に
「……と、言いますと?」
「彼が近い内に最前線並みの装備を入手する確率が非常に高いのだ。ハンターランク100相当の強力な武装をだ」
ヒカルの顔が驚きに満ちる。イナベの顔も険しく
「彼はランク50程度の装備であれだけの成果を出すのだ。そのような者がランク100相当の装備を手に入れた上で都市を襲えばどうなるか。君にも想像は付くだろう」
「そ、その装備の入手の阻止は出来ないのですか?」
「入手元に対しての工作は極めて困難だ。その装備は坂下重工からのアキラへの報酬だからな。下手なことをすると坂下重工への敵対行為となる。そして、彼にその入手手段を提供したのが、私と君なのだよ」
ヒカルが絶句する。そして話の規模が予想外に大きくなっている上に、それに自分が訳も分からずに巻き込まれていることに平静を大きく欠き、イナベに向けて思わず悲鳴のような声を出す。
「ど、どういうことなんですか!?」
「教えるが、坂下重工が絡むことなので紙にも出せない内容だ。よって口頭で伝えるが、君もこの情報の扱いには留意してくれ」
アキラは以前から自身のハンターランクによる使用制限を超えた強力な装備の入手を求めており、キバヤシやイナベを通して受けた依頼の報酬に、その調達への協力を求めていた。そしてヒカルから受けた都市間輸送車両護衛依頼を契機にして、
しかし坂下重工はその制限を部分的に解除した。輸送は再開され、アキラがその装備を手に入れるのは時間の問題となった。
善良で倫理的なハンターに強力な装備の調達を協力したが、そのハンターが予想外の事態により都市と敵対することになった、ということであれば、イナベも多少は責任を問われるだろうが、その地位を揺るがすような致命的な事態にはならない。
しかし人格面に著しく問題がある者ならば話は別だ。大きく責任を問われることになる。特にヒカルはアキラを都市間輸送車両の護衛依頼にかなり強引に
それらの説明を聞いたヒカルが震え出す。イナベはその震えを相手が事態を正確に認識した証拠だと理解した。
「改めて言おう。私達には後が無い。この事態を穏便に済ませなければならない。細かい指示は出さない。キバヤシから称賛された能力を存分に発揮して事態の解決に動いてくれ。私への秘匿回線への接続コードを渡しておく。何かあれば連絡を入れろ。以上だ。すぐに動いてくれ」
イナベからそう告げられても、ヒカルは動けず、返事も
「……まあ、衝撃も大きいだろう。落ち着くまでは、
イナベはそう言い残してソファーから立つと、執務用の自席に戻り部下を呼び戻した。部屋に入ってきた部下達は座ったままのヒカルを見て少し
それから
部屋から出て、背後で扉が閉まる音を聞いても、ヒカルはそのまま
「……分かったわよ。やってやろうじゃないの!」
退路が無いなら進むしかない。
賞金首となったアキラはクガマヤマ都市から車で数日といった辺りの荒野に潜伏していた。キャロルのキャンピングカーのお陰で寝床は十分、弾薬類も余裕があり、食料も数週間程度は保つ状態だ。事態に何らかの進展が出るまで隠れていようと大人しくしていた。
そこで秘匿回線でキバヤシから連絡があり、前にアキラが機械化兵隊蜂を倒したことを、汎用討伐依頼に
撃破報酬は5000万オーラムだった。大金であるが、アキラは微妙な表情を浮かべていた。
そのアキラの様子をキバヤシが相手の口調から察する。
「何だ、額が不満か?
「いや、そういう訳じゃないけどさ。ほら、前にタンクランチュラって賞金首がいただろう? あいつの賞金は8億オーラムだった。そのタンクランチュラより桁違いに強かったのに、報酬が5000万オーラムってどうなんだろうって、ちょっと思ってさ」
「そりゃそうだ。賞金首の賞金額は相手の強さで決まるんじゃなくて、どれだけ死んでほしいかっていう基準で決まるんだからな。普段上空を飛んでいて、地上の流通ルートに悪影響を及ぼさない相手に、高額の討伐料は支払えねえよ」
「うーん。そういうことか。でもなぁ……、あんなに強かったのに……」
納得しきれないアキラにキバヤシが根拠の補足を続ける。
「諦めろ。それにそもそもこの地域では、あの手の大物を倒しても初めから割に合う報酬は支払えないんだよ」
仮に機械化兵隊蜂の討伐に対して割に合う報酬が支払われた場合、十分に強いハンターが上空のモンスターを
それらの都合もあって、機械化兵隊蜂を倒して採算を得たい場合は、もっと東に行って倒す必要がある。同様に、同程度のモンスターを倒しても東側の地域の方が撃破報酬が高い傾向にある。これは有能なハンターの活動地域を徐々に東に移らせて、いずれは最前線地域に到達してもらう
報酬額の説明を聞いて納得したアキラに、キバヤシが更に補足を続ける。
「だから、お前に500億オーラムの賞金が懸かっていても、お前がそれだけ強いって意味にはならない。いや、俺はそれだけ強いって思ってるぞ? 他のやつらがどう思うかってことだ。モンスターではなく人間に懸けられる賞金額には、体面とか制裁とか、恨みつらみとか、隠れてるから見付け
「分かってるって」
「よし。また何かあれば連絡する。じゃあな」
キバヤシとの話を終えたアキラに、キャロルが少し心配そうな顔を向ける。
「私が言うのも何だけど、そのキバヤシって人、信用できるの?」
「多分な。利害の一致って意味でだけど。あいつは俺が死んでも構わないけど、死ぬ時は可能な限りド派手に死んでほしいって考えで、金や組織の
「そう。まあアキラがそう言うのなら、私がごちゃごちゃ言うことじゃないわね」
ある意味でアキラらしい考え方だと思い、キャロルは楽しげな苦笑を浮かべていた。
「それにしても、アキラは500億オーラムの賞金首になったっていうのに随分落ち着いてるのね。何でそんなに余裕なの?」
「開き直ってるだけだ。今更慌てふためいたって状況が良くなる訳じゃないしな」
「ふーん」
普通はそうはならないと思いながらも、キャロルは
「それにキャロルのお陰で野宿は免れてるんだ。荒野でもキャンピングカーだから風呂もベッドもあって、しかも俺の家より良い設備なんだ。そこでしっかり食ってしっかり寝れば、十分落ち着けるよ」
それを聞いたキャロルが誘うように笑う。
「そう? でも食う寝る殖えるなら、要素が一つ足りてないんじゃない? 残りも提供できるわよ?」
「悪いな。色気より食い気は継続中なんだ」
「危機的な状況の中、男女が二人きりなんだから、そこはお決まりのパターンに流れてもいいんじゃないの?」
「危機的な状況ではないし、危機的な状況にするつもりもないから、お決まりのパターンにはならないな」
「全く、相変わらずつれないわね」
キャロルは駄目で元々と思って言ってみただけであり、誘いを断られても少し
アキラも自分としてはいつも通りの
アルファだけが、その
クガマヤマ都市の防壁内、中位区画と上位区画の境目付近で、一時的に軟禁を解かれたクロエがウダジマと一緒に坂下重工管理下の領域に向かっていた。既にラティス達とも合流しており、二人はクロエの背後に控えている。
クロエに頼まれて
「くれぐれも失礼の無いように頼むぞ。お前はリオンズテイル社の者として交渉に行くんだろうが、そこで何かあれば、仲介した私も破滅なんだ」
クロエが上品に余裕のある
「
「そういう意味ではない!」
思わず声を荒らげたウダジマに向けて、クロエが軽く首を横に振る。
「お静かに。そろそろ坂下重工の管理領域です。クガマヤマ都市の身分は通用しません。失礼の無いように御注意を」
ウダジマは顔を
坂下重工の管理領域の境界に到着したクロエ達は、まずは都市の警備員から身体検査を受けた。そしてクガマヤマ都市側の案内役であるウダジマとここで別れた。つまり、クロエ達の保護責任はこの時点で坂下重工側に移った。
クロエも
絶対に失礼の無いように。そう改めて
「クロエ様で御座いますね? ご案内致します。どうぞこちらへ」
クロエ達が職員の案内で奥に進んでいく。施設内の警備の人員は全て坂下重工側の者であり、交換可能な警備装置なども坂下重工によって交換されている。それらにより、辺りにはまるで現在でも稼働中の遺跡奥部のようなどこか異質な空気が漂っていた。そしてある部屋の前に到着する。
「こちらです。どうぞ」
そう言って丁寧に頭を下げる案内役の職員を通路に残し、クロエ達が中に入っていく。室内にはクロエの交渉相手の男と、その護衛がいた。
クロエは改めて覚悟を決めると、席に座ったまま自身を迎えた男の前に立ち、リオンズテイル社の創業者一族、ローレンスの者として
「クロエ・レベラント・ローレンスと申します。お見知り置きの程をお願い致します」
「スガドメだ。私も忙しい。君に時間を割くに足る有益な交渉を期待している」
「
スガドメとハーマーズ、坂下重工の重役とその護衛、権力でも武力でも到底勝ち目の無い者達に対してたじろがずに応対する
シロウが隠れ家で不満そうな顔を浮かべている。
「……ったく、待機時間だって馬鹿にならないってのに」
指定の時間辺りに通信を入れるので、必ず連絡を取れる状態にしておくこと。スガドメからそう指示されたシロウは外へ調査に行くことも出来ず、時間の浪費のような感覚を味わって焦りを募らせていた。
クロエがスガドメとの会談を望んだ表向きの理由は、ミハゾノ街遺跡で起こした騒ぎの謝罪だ。ハンターオフィスの前とはいえ所詮は遺跡内での出来事であり、どの程度の問題として扱われるかは状況による。クロエはその釈明と謝罪代わりの交換条件の話し合いをスガドメに嘆願し、ウダジマの仲介でそれを通した。
そしてスガドメの前で改めて事情を説明する。まずはオリビアのカードの貴重性、重要性、危険性を伝える。その上で、やむを得なかった事情を説明していく。
一介のハンターが偶然にもそのカードを部分的に所持しており、自分はその状況を危険視して譲渡交渉をしたが、十分な報酬を用意したにも
それらを非常に申し訳なさそうな態度で話し、どうしようもなかったのだと訴えて理解を求めた。
「危険な遺物の拡散が東部にどれだけの悪影響を及ぼすかについては説明など不要でしょう。坂下重工様も東部の安全の
「理解はしよう。しかしその程度の話であれば私との会談など不要だろう。両社の交渉役で問題無いとすれば良い。君と私の時間を
スガドメから暗に無駄な時間を取られたと告げられ、クロエが内心の緊張を高めながら話を続ける。
「まずは、
そこでクロエが白いカードを取り出して提示する。
「そしてここから本題となります。これがそのカードで御座います。今回の件の謝罪と致しまして、私にはこのカードをそちらにお譲りする意志が御座います」
クロエの背後に控えていたラティスとパメラの表情が
「それでもこのカードの価値を考えれば、
クロエは白いカードをスガドメに見せ付けるように持ちながら、緊張を顔に滲ませながらもしっかりと
沈黙が流れる。クロエはその沈黙に耐えながら笑顔を維持した。頬に冷や汗を伝わせて、スガドメの返答をじっと待ち続ける。クロエの緊張はラティス達にも伝わり、従者達の顔を僅かに堅くさせていた。
そしてスガドメが態度を変えずに答える。
「成る程。君が私に時間を使わせるに足ると判断したことは理解しよう」
クロエが
「ありがとう御座います。では、まずは私の方から条件の提示をさせて頂きたいと思います」
「いや、その必要は無い」
その返答に、クロエが思わず
「……失礼ながら、謝罪の品という意味を持たせても、無条件での譲渡は
「それは理解する」
「では、なぜ?」
ますます困惑するクロエに向けて、スガドメが態度を変えずに告げる。
「譲渡の意思のみで謝罪としては十分だ。そのカードを手放す必要は無い。そのまま持って帰りたまえ」
有り得ない返答を聞いたクロエが無意識にその
「
それを防ぐ名目でも欲しいはずだ。要らない、などとは有り得ない。クロエはそう判断して揺さぶり返してみた。少なくともクロエ本人はそのつもりだった。
だがスガドメはそれでも態度を崩さずに、口調も変えずに、大したこともないように軽く答える。
「では君を殺そう」
クロエが固まった。
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