第22話 877と510

 カーテンの隙間から洩れる、薄明るい光を見ながらベッドから身を起こす。まだ5時か……結局ほとんど寝付けなかったな。それもそのはず。今日は、いよいよ門木大学の合格発表の日なのだ。合格か不合格かで、今後の俺の人生が大きく変わる事になるかもしれない。そう考えると、ぐっすり眠る事なんて出来るはずがなかった。


「……ふう。とりあえず起きるか」


 階段を下りて、まだ誰も起きてきていないリビングに入る。牧場で買った牛乳をコップに注ぎ、一気に飲み干した。やっぱりスーパーで売ってる牛乳とは格が違うな。まあ、半分以上は晴香に飲まれてしまったが……。

 ソファーに座り、テレビを付ける。特に興味のないニュース番組の中で、ラッキーカラーやラッキーアイテムなどにはついつい耳を傾けてしまう。既に合否の結果は出ているのだから、今更そんな物に頼っても無意味な事は分かっている。それでも、不安な気持ちを少しでも和らげたいと思うのは、いけないことだろうか。


「あれ、兄貴早いね。おはよ」


 休日なら10時過ぎまで平気で寝ている晴香が起きてきた。


「緊張してよく眠れなかったんだよ」


「ああ、そっか。今日だもんね。後藤先輩と行くの?」


「いや……別に約束はしてねえけど」


「なんで? 一緒に行けばいいじゃん。後藤先輩も当然発表見に行くんでしょ?」


 もちろんそうだ。俺だって後藤さんと一緒に行きたい。でも、駄目だ。もし……後藤さんが合格して、俺が不合格だったら……俺はどんな顔をすればいいんだ。後藤さんにも余計な気を遣わせる羽目になる。優しい後藤さんの事だ。きっと目一杯の慰めの言葉や励ましの言葉をかけてくれるだろう。

 でも、そういう言葉をかけてもらえばもらうほど、俺の心は抉られていくに違いない。最悪、その場で泣いてしまう可能性もある。慰められるぐらいなら、「あれだけ私が勉強教えてあげたのに、どうして不合格なんですか?」などと、罵倒される方が遥かにマシなのだ。


「いいんだ。俺1人で行きたいから」


「ふーん。そっか」


 何となく俺の気持ちを察したのか、晴香は口を閉ざした。朝食を食べても時間は余っている。ゲームや漫画で時間を潰そうにも、あまりそういう気分にはなれない。何もしないまま、時計の針だけが進んでいく。

 ……そろそろ時間だ。自室に戻って着替えてから、再びリビングに戻ってバナナを頬張った。バナナを食べると何となく勇気が湧いてくる。よし……行くか。

 受験当日と同じように、母さんと晴香に見送られながら家を出て、徒歩で駅を目指す。門木大学前駅までの切符を買いホームへ。ちょうどやってきた電車に乗り込み、端っこの席に座った。日曜の朝というだけあって、車内はすこぶる空いている。しかし目的地に近付くにつれ、俺と同じぐらいの年齢の乗客が増えてきた。私服だから分からないが、恐らく門木の受験生がほとんどだろう。

 余裕な態度で友達と雑談する者もいれば、俺のように強張った顔で俯いている者もいる。中には、手を合わせてブツブツと何かを呟いている者もいる。気持ちは分かるが、今更祈ったって掲示板に自分の受験番号が書き加えられる事はないのだ。

 俺は無意識に後藤さんの姿を探していた。この車両にはいないようだ。他の車両にいるのだろうか。それとも、まだ家にいるのか。会いたい……でも会いたくない。合格さえ出来ていれば、すぐにでも吉報を持っていきたいのだが、その保証はない。


『えー、間もなく門木大学前~。門木大学前~。お出口は右側に変わります』


 俺は覚悟を決めて立ち上がった。他の大勢の受験生達と共に電車を降り、駅を出て門木大学を目指す。さっきから心臓がバクバクと暴れている。こんなに緊張するのは生まれて初めてだ。程なくして、相変わらず威圧感たっぷりの門木大学の校舎が見えてきた。既に結果は貼り出されているようで、歓喜の声や、胴上げをされている者の姿が見える。

 俺は鞄から受験票を取り出し、改めて番号を確認した。510番……これが俺の受験番号だ。校舎の前で一度立ち止まり、空を仰いで大きく深呼吸した。そして再び歩き出す。

 掲示板前は受験生やその家族でごった返していた。勝利の雄叫びを上げる者、死んだ目で呆然としている者。今この国で、最も喜びと悲しみが同居している場所は、間違いなくこの場所だろうな。

 ざっと掲示板を見ると、かなりの虫食い状態だ。やはり相当競争率が高かった事が窺える。後藤さんの受験番号は、確か877番って言ってたな。俺はまず後藤さんの番号を探した。


 855……862……871……874……877!


 あった! 流石だ。当然のように合格している。もし落ちてたら、間違いなく俺の勉強に付き合ったせいだ。償いのしようがない。しかし、それも無用な心配だったようだ。

 俺は視線を左の方に移し、自分の受験番号510を探し始めた。頼む……頼むぞ……。後藤さんは受かった。後は俺が受かってればいいだけなんだ。俺だって、馬鹿なりにやれるだけの事はやったんだ。あの勉強漬けの日々が、全て無駄になるなんて事があっていいはずがない。


 479……482……488……499


 息を飲んだ。いよいよ500番台に入る。


 502……507……509…………511……。




「……」


 俺はもう一度502番から見直した。そして、受験票も確認した。510……間違いなくこれが俺の受験番号だ。そして掲示板には、509と511の間にあるはずの数字が無い。

 落ちた……のか。俺の手の中から、受験票がポロリと落ちた。それを拾い上げる気力は、今の俺には無かった。厳しい……あまりにも厳しい現実。やはり俺は、特別にはなれなかった。自分の身の程というものを、結果は容赦なく突きつけてくる。あと何問正解すれば合格だったのか……いや、そんな事を考えても無意味だ。不合格は不合格。事実は変わらない。その事実が、俺の肩に重く重くのし掛かる。

 帰ろう……もうここには用はない。2度と来る事はないだろう。俺は踵を返し、ゾンビのような足取りで、俯きながら校門へと引き返した。


「猿山君?」


 聞き覚えのある声が俺の名を呼んだ。俺は顔を上げた。

 ……後藤さん。そこには、周りの受験生達の注目を一身に浴びる後藤さんの姿があった。


「……くっ」


 俺は後藤さんの横をすり抜け、走り出した。


「さ、猿山君! 待って!」


 足が止まらない。止まって振り返って、後藤さんの顔を見てしまえば、心が無力感と罪悪感に押し潰されてしまいそうだからだ。

 ごめん、後藤さん……本当にごめん。俺は君に、何も応える事が出来なかった。



 *



 翌日、俺はいつも通り登校した。別に立ち直ったわけではない。部屋で塞ぎ込んでいても、家族に心配かけるだけだからだ。未だに俺の心にはポッカリと穴が空いていて、その穴を冷たい風が通り抜けている。受験前の熱意が噓のように、身も心も冷め切っていた。


「いよう猿山! 結果はどうだったよ? 奇跡は起きたのか? んん?」


 校門を抜けたところで、朝とは思えないテンションで乾が肩を叩いてきた。俺は壊れかけのロボットのように気怠くゆっくりと振り返り、乾と目を合わせた。


「……」


「……あ。いや、いい。言うな。何も言わんでいい」


 乾は一瞬で察した。まあ今の俺を見れば、合否の結果は聞くまでもなく誰にでも分かるだろう。乾は気まずそうに頭を掻き、続く言葉を探している。


「あー……まあ、なんだ。結果としては残念だったけどよ。それでも紺具大には行けるんだろ? 凄えじゃねえか。これで門木大まで合格してたら、出来すぎってもんだ。一生分の運を使い果たしちまうぞ?」


「……そうだな」


「それに後藤と違う大学になったからって、別に関係が途絶えるわけじゃねえ。卒業までに告って、無事に恋人同士になれればこっちのもんよ。そうだろ?」


「……え?」


「え? じゃねーよ。もう卒業まで時間ねえぞ。さっさと告っちまわねえと」


 告白……か。俺は門木に合格した暁に、後藤さんに告白するつもりだった。しかし、今となっては……。


「いや……もういい。無理だ」


「は?」


「告白どころか、会わす顔もねえよ。後藤さんは俺に門木に合格してほしくて、あんなに熱心に勉強を教えてくれたんだ。俺はその期待を裏切り、踏みにじった。半年間も無駄な時間を使わせちまったんだ。紺具大の俺と、超名門の門木大の後藤さんとじゃ釣り合わねえ。俺の恋は、これで終わりだ……」


 そう、もはや月とスッポン。王女と浮浪者。メジャーリーグとリトルリーグ。告白など恐れ多いにも程がある。


「…………ちょっと来い」


 乾が俺の腕を掴み、力強く引っ張った。


「いてて! 何すんだよ!」


「いいから来い!」


 乾はそのまま俺を、体育館裏の方まで乱暴に引っ張っていく。他の登校中の生徒が、何事だという目を向けてくるが、乾はそんなのはお構いなしだ。何なんだ。何をそんなに怒ってるんだ。乾がこんなに怒っているのを見るのは初めてだ。

 誰もいない体育館裏。そこに着くなり、乾は俺の胸ぐらを掴んで壁に叩きつけた。


「うぐっ! な、何しやがる」


「ざけんなよ猿山。お前の後藤への想いはそんなもんだったのか?」


「…………お前には関係……」


 関係ないだろと言いかけて口をつぐんだ。関係なくはない。あれだけいろいろ協力させておいて、戦いもせずに敵前逃亡しようとしてるのだ。怒るのも当然と言える。だが、乾が怒ってるのはそれとは別のようだ。


「お前の気持ちは分かるとは言えねえし、別に分かる必要もねえ。1つハッキリしてるのは、お前は後藤を侮辱してるって事だ」


「侮辱だと? 何でそうなるんだよ」


「自分は門木に行けなかったから釣り合わない? 寝ぼけんのもいい加減にしろ。後藤が、男を学歴や年収でしか評価出来ないような、その辺のクソ女と一緒だとでも思ってんのかよ」


「……!」


 違う。後藤さんは、断じてそんな子ではない。


「お前が頑張ってるところを、後藤は誰よりも傍で見てきたんだろ。その頑張りの結果、お前は紺具大の合格を勝ち取った。それの何が悪い? どこに恥じる要素がある? 後藤の教え方が上手かったから、お前みたいなクソ野球馬鹿が紺具大に合格できたんだ。胸を張れよ。胸を張って、堂々と後藤に想いを伝えろよ」


「い、乾……」


 こいつ、こんな真面目な事を言える奴だったのか? いつもとキャラが違いすぎるぞ。何にせよ、乾は腐りかけている俺を本気で叱咤し、そして背中を押してくれている。押すというよりは突き飛ばされている感覚だが、乾の言っている事は、何も間違っていない。

 そう……門木に落ちた事と、後藤さんへの告白は、何の関係もないのだ。俺は心のどこかで、後藤さんに告白出来ない言い訳を探していたのかもしれない。正直、告白するのは怖い。告白してフラれてしまえば、今の関係すら継続出来なくなる可能性もあるからだ。

 でも、それじゃあ駄目なんだ。このまま告白せずに卒業してしまえば、後藤さんとは確実に疎遠になる。きっと、一生後悔する事になるだろう。


「……すまん。おかげで目が覚めたよ」


 乾がニヤリと笑い、俺の胸ぐらから手を離した。


「本当だろうな?」


「ああ。俺は後藤さんに告白する。それも今日中にな」


「今日!? そりゃまた随分と急だな……」


「時間を空けると、また憶病風に吹かれそうなんでな。善は急げだ。ただ……1つだけ頼まれてくれないか」


「何だ?」


「その……告白する時にさ。近くにいてくれないか。隣にいてくれとは言わない。物陰から見守ってくれるだけでいい。それで充分心強いから」


「……ぷっ。相変わらずだなお前はよ。まあいい、それでも大きな進歩だ。見ててやるよ、お前の散り様をな」


「勝手に散るって決めつけんな!」


 さっきまでの険悪なムードが噓のように、俺達は笑った。あれだけ落ち込んでいたのが、今思うと馬鹿らしくなってきた。

 よーし……俺はやるぞ。やってやる。今日の放課後、俺の想いの全てを、後藤さんにぶつけてやる!

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