第28話 体温

 リャスミーの街に温泉宿を構えたのは、イオナの曾祖父だった。

 この街は湧き出る温泉の恵みのおかげで、幾人もの旅人が立ちよる。たいていは町の中心に近い宿に上客が入り、その広い湯を堪能する。

 イオナの宿はそこまでの高級店ではなかったが、それでも旅人たちが途絶えることはない程度には繁盛していた。4代目として、そこそこの満足を覚えている。そろそろ、後継ぎに仕事を覚えさせて、自分は楽に暮らすことを考え始める時期だ。

 そんな時だった。


「女将さん、大変ですよ!」

 宿で雇っている小間使いの一人が、血相を変えて駆け込んできた。元気はいいが、少々落ち着きがないのが難点。そんな若者だ。

「なんだい、騒々しい。あんた、風呂の衝立はもう直したんだろうね?」

「そ、それどころじゃないんです。丘から、竜が!」

「竜って、あんた竜を見たことあるのかい?」

「い、いや、そりゃ、ねえですが……」

「見たことないのに、なんだって竜だとわかるんだい」


 あきれたようなイオナの物言いに、若者が目を泳がせる。

「いや、しかしですね。ものすごくでっかくて……」

「いいから、仕事に戻んな。天気も悪くなってきたし、火を起こす準備をしとくんだよ」

「へ、へえ」

 若者がいそいそと奥へ引っ込んでいく。まったく、とため息をついてから、不意にイオナは背筋を震わせた。

「にしても、今日は冷えるね……」


 と、引っ込んだはずの小間使いが、再び血相を変えて戻ってきた。

「女将さん、今度こそ大変ですよ!」

「全く何だってんだい!」

「お、温泉が……凍ってやがるんです」

「なんだって!?」

 今度こそ、イオナは声をあげて、表へ飛び出した。


 通りで、誰もが北の丘を見上げていた。

 単なる丘だと思っていた一角が崩れ落ち、そこから巨大な何かが覗いていた。

 全身に氷柱つららを生やした不格好な亀のような何か。

 竜。

 魂の底から湧き上がってくる恐怖がイオナにもはっきりと分かった。



 ■



星弾シューティングスター!」

 明星術師の放つ光弾が、巨大な竜の鱗に迫る。だが、鈍く透き通ったその鱗にはじかれ、焦がすこともままならない。

「く、っ、これでは……」

 ダメージを与えた手ごたえはまるでない。悔しげにキャンディスがつぶやく。

 バーンは動かない右腕の代わりに、左腕の盾を掲げる。拳と盾の間から炎が迸り、真っ赤に燃え上がった。


灼拳ヒーターナックル!」

 燃え上がる左拳を竜の胸に激しく叩きつける。

 が、体に命中する直前、分厚い氷の壁がせりあがり、その拳を防いだ。

 衝撃が壁を砕く。わずかに触れた鱗には、氷壁で削がれた衝撃と熱がわずかに伝わっただけだ。


「ああっ、くそっ……!」

 バーンの背後からそれを見ていたロビンは、悔しさに歯噛みした。

 すでに、遺跡の中の温度は氷点下を下回っている。それでも、バーンが全身から発する炎の魔力のおかげでなんとか耐えられているのだ。

「これじゃ、攻めようがない……」


『ムダだ……』

 低く、腹の底に響くような声。目の前の竜が語っているのだと気づくのには、時間がかかった。

『お前たちでは、俺を傷つけることはできない』

「ウィードか!? 聞いてくれ、こんなことはやめるんだ!」

『ムダだ……』

 機械じみた冷徹さで、竜が言葉を繰り返す。


『この者の魂を食らいつくし、私はより強くなる。もはや、止められん』

「だったら、その前にお前からウィードを引き離す!」

 叫び、拳を掲げるバーン。だが、すぐにその前方に分厚い氷壁が現れる。

「くっ……。これじゃ、近づくこともできない」

「冷気が増せば、竜はますます力を強める……これじゃ、時間が経つほど不利です」

 スターの中で、キャンディスが小さくつぶやく。

「冷気さえ、何とかできれば……」


 司書が思考を巡らせる中。不意にロビンの頭の中に、閃光のような思い付きが走った。

「……そうだ!」

 反転し、壁際へ。霜が降りた床は走りにくいが、そんなことにかまっている場合ではない。

 転びそうになりながらも、壁の一角……複雑な計器が並べられた箇所へと駆け寄る。

「そうか、この遺跡が地熱を制御してるなら、それを解放すれば……!」

 その装置と、壁に埋められた真機石の機能を思い出し、キャンディスが声を弾ませる。


『させ……るか』

 竜が大きく口を開く。あふれだす冷気が、吹雪のようにロビンへ向けて吐き出される。

「それは、こっちのセリフだ!」

 灼熱剣士が冷たい息コールドブレスの前に立ちはだかる。竜に背を向けたバーンの全身に巡る魔力を燃え滾らせ、白い装甲に熱を帯びて冷気を受け止めた。

「ロビン、早く!」


「わかってる!」

 計器を見つめ、その意味をつかむ。本来なら、制御装置の起動には鍵のようなものか、それとも正確な手順が必要なものなのだろう。だが、今はそれを探っている時間がない。

「無理矢理にでも、起動させてやる……!」

 アームを用いて、制御装置の外装を引きはがす。むき出しになった配線を確かめ、どれが何の役割を果たしているのかを必死に探っていく。


 それきり、アームの動きが止まった。押さえつけられた時の衝撃で故障したのか、冷気で不調になったのか、それとも単なる動力切れか。

「ちぇ……!」

 舌打ち一つ。今は修理している時間がない。ストラップを外し、その場に下した。身軽になって2本の腕で作業するほうがいい。


『いつまで……もつか……』

 竜の吐息に終わりはない。ひたすらに吐き掛けられる冷気が、バーンの全身に絡みつく。

「く……っ、もう、魔力が……」

 晦冥騎士との戦いですでにかなりの魔力を消耗している。ましてや、全身を燃え上がらせて冷気を防ぐこの状態は、消耗も激しい。

 機石に残る魔力はもうわずか。このままでは、バーンの姿を保つのも難しい。そうなれば、ロビンが装置を起動する前に氷漬けにされるだけだ。


 その時だ。

「ソールさん、聞いてください」

 スターがバーンの胸の機石に手を添えて、小さく言った。

「あの竜を倒せるのは、バーンソードマンだけです。だから、私の魔力をあなたに預けます」

 その手からはスターの体に走る魔力回路を通じて、青玉サファイアの機石の中に眠る魔力が注がれてくる。

 再び、バーンの全身に力が宿る。白い装甲が赤熱し、猛烈な冷気をはじき返す。


「キャンディス! ……わかった。ロビンがこの冷気を打ち破ったら、俺があの竜を倒す」

「それから、低体温の処置はまず体を温めること。後でゆっくり、温泉に浸からせてください」

「な、なに?」

 聞き返すより早く、スターの魔力が尽きた。巨人機の姿が粒子になってかき消え、キャンディスの体が残される。


「ロビンさん!」

 すぐさま、振り返って制御装置に向かうロビンへと声をかけた。

「て……手が、震えて、くそっ……!」

 少女の体温も、徐々に下がり始めていた。バーンが竜の吐息を防いでいるとはいえ、遺跡全体を覆う猛烈な冷気はそれだけでは抑えきれない。

 全身が震え、うまく動かない。機械式のアームがない今、その手だけが頼りだというのに。


「落ち着いて。大丈夫です」

 キャンディスが、ロビンの白い手を取った。そのまま、自分のケープの内側、胸の間へと引き寄せる。

「わ、っ……」

 柔らかく、温かい感触。冷えた手に、キャンディスの体温が伝わってくる。

 そのまま、キャンディスの両腕がロビンの細い体を抱き寄せた。密着する体。ロビンの冷えた全身が、司書の体温を休息に奪っていく。


「キャンディス……」

「あなたのやるべきことを、お願いします」

 ぐ、っと、互いの体の間でこぶしを握る。

「うん……ありがとう」

 大きくうなずいて、再び制御装置に向き合う。その背中にキャンディスが身を寄せる。その体温が自分を守る最後の壁になってくれているのだと思うと、どんなに心強いことだろう。


 バーンとキャンディスに守られながら、ロビンは配線の一つをつかみ、強引にねじ切った。

「ぶっつけ本番だから、どうなるかわかんないけど!」

「気にするな、やってくれ!」

 ソールの声が背中を押してくれる。別の配線を同じように切って、その二つを乱暴に継ぎ合わせる。

「うまくいってくれよ……!」

 祈り。なにに祈っているのかわからないが、それでも祈らずにはいられなかった。


 閉じた瞼の裏に、光を感じた。

 思わず目を開いたとき、壁に埋め込まれた天河石アマゾナイトの輝きが目に入った。

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