第324話歎異抄 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ
(原文)
わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を 回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土の さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめ りとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
(意訳)
念仏というものが、自分の努力により励む種類の善行であるならば、その念仏を振り向けて父母を助けることができるのでしょうが、(そうではありません)
自力というものを完全に捨て去り(ただ阿弥陀仏の名を唱えおすがりして)、速やかに浄土に生まれ変わり仏の悟りを得てしまえば、輪廻の世界の中で、あらゆる苦しみに沈んでいる人であったとしても、不思議なその人にあった救済の力を行使して、まず仏縁のある人々を成仏させることができるのです。
ここで大切なことは、「自力」ではなく「阿弥陀仏の他力」にすがることだと思う。
不完全で不徹底な「自力」ではなく、ひたすら阿弥陀仏の「御力(他力)」にすがる。
そうすれば父母が輪廻の世界で苦しんでいるならば、そのほうが完全に救うことができる。
ただ「形式的に」仏事を行えば、それで父母への回向となる、それは間違いなのだと言っているのではないだろうか。
阿弥陀仏の救いの力を信じること、そして阿弥陀仏にすがることなくして、本当の救いはない。
まずは、信じ唱えること。
法然、親鸞へと受け継がれた信念は、徹底している。
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