第13話 最後の選択

 「うん、ここは?・・・」

 男はその見慣れない景色に戸惑っていると、ひとりの小さな天使が近づいてきて、こう言った。

 「ここは、天国です。今日の予定者リストには載っていませんが、いったい、あなたはどなたですか?」


 なるほど、そう言えばここから見える風景は、何かの本に載っていた天国のそれに、よく似ている。

 男は名前を答えるかわりに、その天使に尋ねる。

 「予定者リストに載っていないということは、私はまだ、死んでいないということなのかね?」

 天使は、首をかしげる。

 「なんともいえません。死んでなければ、ここへは来れないのですから」

 もっとだ。男は質問の矛先を変えた。


 「天国では、夢のような毎日がおくれると聞いているが、本当なのかね?」

 天使は、これにも首をかしげた。

 「あなた方の言う夢ということが、私にはわかりません。ただ、ここで暮らす人々は、病気もせず死ぬこともありません」


 楽園のような生活を思い浮かべていた男にとって、天使の言う天国はいささか不満ではあったが、病気もせずに暮らせるということには心が和んだ。なぜならこの男、現世では長い闘病生活をおくっていたからだ。

 この日の朝も、激しい痛みに耐えかねて、こんなことなら死んだ方がましだと、大声でわめきちらした。と、そこまでの記憶はあるのだが、そこから先がどうしても思い出せない。

 結局、このあと男は貧血で倒れ、そのまま意識不明となってしまったのである。

 記憶が定かでないにしろ、いま男が天国にいるということだけは確かなようだ。


 男はその天使に、天国で暮らせるよう頼むことにした。

 たとえ戻ったとしても、また、あの苦しみが待っているだけだ。いっそ、このまま本当に死んでしまおうと思ったのだ。


 「私もこの天国に・・・」

 と、言いかけたところに、別の男が湧き出るように現れてきた。それは、見るからに体が弱そうな老人である。


 男は思わず声をあげた。

 「健三じいさんじゃないですか?」

 突然名前を呼ばれたその老人は、その男の方を振り向いた。

 「なんじゃ、同じ病室にいた小林君ではないか。たしか、君はまだ死んでなかったと思ったが・・」

 老人はそう言うと、その天使に小さなお守りのような袋を手渡す。天使はそれを受け取ると、老人の頭に手をかざし、そして尋ねる。


 「森本健三よ。現世で思い残すことはないか?」

 「はい、ございません」

 「うむ。では、天児となることを認めよう。まず、ここでの生活は、穴掘りか石積みのどちらかに分けられるが、そなたはどちらを選ぶ?」

 「石積みでお願いいたします」

 「うむ、わかった」

 天使はかざした手を握ると、老人の背中をひとつポンっとたたく。すると、彼の背中からは小さな白い羽が生えてきた。


 老人は、もうその男の方を振り返ることもなく、人の頭の大きさほどもあろうかという石を一つ一つ積み始める。


 男はさけんだ。

 「健三じいさん、何をやっているんだ!」

 しかし、もうその言葉も、そしてこの男の姿も、老人には見ることができない。

 よくよく見ると、その美しい景色のそこここでも、このようにただひたすら石を積んでいる者や穴を掘っている者の姿がある。


 男は天使に訪ねた。

 「健三じいさんが、さっきあなたに渡したものは、いったい何なのですか? それに、なぜ石積みなんかしているんですか?」

 天使は眉をひそめると、その男にささやく。

 「この袋は、いわば人の魂のようなものです。あなた方は覚えていないことですが、人は生まれる時に、みんなこの袋を手渡されるのです。ですから死んだいま、また返していただかなければなりません」


 男は自分のポケットの中をまさぐった。しかし、どこにもそれらしいものはない。

 天使は続ける。

 「ですから、本当はまだ死んではいないあなたに、このことを、お話しするわけにはいかなかったのです」

 と、突然そこに、またひとりの男が現れた。ずいぶんと若く見えるその若者は、不思議そうにあたりを見回すと男に尋ねてきた。


 「ここは、どこですか? 彼女は?・・・」

 そのことには男ではなく、天使がリストを見ながら冷静に答える。

 「驚かないでください、ここは天国です。あなたはつい先ほど、交通事故で死んだのです。胸のポケットの中に袋がありますから、それをこちらへ・・・」


 若者はポケットの中から緑色の小さな袋を取り出すと、今にもなきそうな顔で男の方を振り返る。

 事故の記憶が鮮明に残っていたのであろう、彼は一つ一つ思い出すようにつぶやきながら手で頭をかかえた。

 「うそだ、うそだ! 俺は死んでなんかいない」

 若者はその袋を投げつけると、そうさけびながら緩やかな坂を下るように走りだす。


 「おい、君!・・・」

 男は呼び戻そうとしたが、それは声にならなかった。天国へ戻ってこいなどと、とても言えるものではないからだ。


 天使は、ますます困った顔をする。

 男は天使に尋ねた。

 「あの若者は、さっき彼女は?っと言っていたが・・・」

 「ええ、リストには彼女の名前はありません。つまり、交通事故で死んでしまったのは、彼ひとりということになります。しかし、困ったことです。死んでいるのに袋を持たない彼は、浮遊霊として現世に戻ってしまうのです。あなた方がよく言う幽霊のたぐいは、みんなこれなのです」

 天使はその若者が投げ捨てていった袋を拾うと、男にこう言った。


 「どうです、この袋をあなたのだと言うことにして、天国へ来ては?」

 天使は続ける。

 「先ほどまで、あなたも天国へ来たがっていたではありませんか。それに私も、天国での労働力がひとり減ってしまっては困るのです。なにしろ、これだけの景色を維持するのには、並大抵の努力ではできないのですから・・・」

 男は生唾をごくりと飲み込んだ。


 「さあ、選ぶなら今です・・・」


 男は天使の手を振りほどくと、思わずつぶやいた。

 「私は、もっと生きてみたい・・・」

 天使は、なおも男に迫って来る。


 「さあ、この袋を・・・」

 男は、力いっぱいさけんだ。

 「私は、もっと生きてみたいんだーっ!」



 気がつくと、男はベッドの上に寝かされていた。

 天井も窓も、壁にかけてある時計も以前と何も変わらぬままだ。点滴の液が、細い管を通してからだの中に入ってくる感触がわかる。


 「生きている。私は生きているんだ・・・ はっはっはっ」

 男は声を出して笑った。


 この男が、最後の選択をする日は、もう少し先のことになりそうだ・・・

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