第25話 兆候
その日、ぼく達はいつもと変わらぬ朝を迎えた。
実にすがすがしい朝だ。
トーストとコーヒーの朝食。そう言えば、いつもは、これにスクランブルエッグがついている。
今朝の妻は、もう、洋服に着替えている。薄っすらだが、化粧もしているようだ。
「どこかに、お出かけかね?」
ぼくは妻に尋ねた。
「ええ、これから、お友達の家へ行こうと思っていますの」
妻は、二杯目のコーヒーを飲みながらそう答える。
「そう言えばあなた、水槽のナマズの様子が、朝から変なのよ」
「変?と、言うと・・・」
ぼくは、サイドボードの上に置いてある水槽に目をやる。なるほど、妻が答えるまでもなく、ぼくにもその異様さがすぐにわかった。
水槽の中のナマズは、腹を上にして泳いでいたかと思うと、突然痙攣をしたように、底に敷いた砂利を、その尾びれで撒き散らした。どう見ても、尋常ではない。
「これって、地震の前触れじゃないかしら?」
なるほど、周期的にみても、近い将来、大きな地震が起きても別に不思議ではない。
しかし、ぼくはそんなことよりも、むしろその発想に驚いた。現実派の妻からは、とても想像つかないような言葉だったからだ。
ぼくは、そんな妻がとても愛おしく思えたが、あえて地震の話しには参加しなかった。
「ねえ、あなた見てみて」
妻は今度、カーテン越しに外の景色を指差してさけんだ。
ぼくは、飲みかけのコーヒーを置くと、窓へと近づく。それにしても、妙なものだ。何故かいつもとは少し違う。
ぼくは考えてみた。
「そう言えば久美子、君は今まで『あなた』なんて言ったことがあったかな?」
「いいえ、ないわよ。今までは子供もいたでしょ。だから『お父さん』だったじゃない」
そうだ。そう言えば、いつも呼び合う時は『お父さん』、『お母さん』である。しかし、この春、娘も無事に結婚する事ができ、この家を出て行った。
つまりはそれ以来、家の中には妻とぼくの二人きりということになる。
それに、ぼく達は結婚も早かったためか、妻はまだ、三十九歳をむかえたばかりだ。朝の柔らかい光をまとう妻の姿に、ぼくは少しのときめきをおぼえた。
なるほど、今までは気付くこともなかったが、よく見る妻はまだまだ美しく、それは最近ますます加速されたようにも思える。
「ねえ、あなた、あの雲・・・」
ぼくは、窓の外を覗き込んだ。
妻の指差す方向には、東の空から南西にかけて、一本の大きな帯状の雲が見えている。それが、真っ青な空に、見事なまでにツートンの模様を作っている。
「そうよ、きっと近いうちに地震があるんだわ。あの雲って、地震雲とか言うんでしょ?」
そう言えば、ぼくも何かの雑誌でそんな雲のことを読んだことがあった。
しかし、ぼくはあえてそれにも答えず、替わりにじっと妻を見詰める。妻は少し戸惑ったような顔で目をそらすと、キッチンに戻りお皿やコップを洗い始めた。
ぼくは、後ろから妻の肩を抱くと、その白い指を握った。
「お、おや? 久美子。結婚指輪はどうしたんだい?」
握った妻の指には、昨日まであったはずの指輪がなかった。
今度は、妻がぼくの目をじっと見詰めると、こうつぶやいた。
「あなた、私たち別れましょう・・・ 私、他に好きな人ができたの」
ぼくには一瞬、妻の言葉の意味がわからなかった。でもそれは、すぐに現実のものとして理解することができた。
なるほど。そう言えば、いつもの朝とは、ほんの少しだけ違っていたようだ。
スクランブルエッグのない朝食。
あの洋服も始めて見るものだ。
近くに親しい女友達などいないはずなのに、今日は朝から出かけるという。
美容のため、ひかえていたはずのコーヒーを、今朝は二杯も飲んでいた。
それに、『あなた』なんて呼ぶのも、何となくよそよそしい。
考え方も、ぼくが知っている妻とは少し変わってしまったようだし、何と言っても、女として、最近の彼女は本当に美しくなっていた。
そして結婚指輪。
すべて、その兆候はあったのだ・・・
と、突然、ぼく達は身体に大きな揺れを感じた。
(地震だ・・・ 震度5ぐらいはあるだろうか)
ぼくはとっさに、彼女の手を取り、引き寄せようとした。
ところが彼女は、その手を振りほどくと、腰を曲げるようにして流しにうずくまる。
呆然と立ちつくしているぼくに、彼女は恥ずかしそうにテレ笑いをしながら、こうつぶやいた。
「ごめんなさい、つわりなの。もちろん、あなたの子じゃないわ」
なるほど。
ぼくは極めつけともいえる、もう一つの兆候を知ることとなった・・・
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