No.86 なんだか大事なことを忘れてる?


 あづま彼杵そのぎ

 それが私の名前。二十歳の無職。私の気持ち的にはまだ十八歳なんだけど。


 というのも私は二年間記憶喪失を患っていたらしい。解離性健忘という病名で記憶はつい先日病院で意識が戻るのと同時に思い出した。だが逆に二年間の間の記憶はなくなってしまった。

 でも私的には思い出したって感じは全くない。どっちかと言うと世間が二年間も進んでいたことに少し恐怖がある。


 腹を刺されて入院していたので警察にも色々事情聴取をされた。まあ刺されたのが二年間のなくなってしまった記憶の中だったので何一つ覚えていなかったんだけど。そんなことよりも泥棒をしていたのが二年間の間にバレて逮捕とかされるんじゃないかと不安だった。

 でもそんな心配はする必要もなく、一切その件に触れられる事はなかった。


 どうやら世間的に私は死んでいたことになっていたようで、両親が警察に呼ばれて病室に来たときの二人の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。

 二年前に膨れ上がった借金は父と母が必死で働いて返したそうだ。私が一人気張って犯罪まで犯して金を稼いでいた自分が少しだけ恥ずかしくなった。


 警察の人たちが一番気になっていたのは私が二年間どこでどうやって過ごしていたのかだった。それは私自身も気になる。記憶喪失の人間が二年もの間、健康で生きていたというのは自分のことながらどうにも信じがたい。


 それに私が世間的に死んでいたことになっていたのは私が完全に行方不明になっていたから。勝手な憶測だけど、もしかすると私は誰かに監禁され強姦に遭っていたんじゃないだろうか。


 その証拠に私は意識が戻ってここ数日、つわりがするのだ。


 何度吐き気を催してナースさんに背中をさすられたことか。お医者さんはお腹を刺されたことと何か関係あるかもしれないと言っていた。だけど心配だった私はこっそり妊娠検査薬を使用して確かめてみたのだ。

 その結果は、陽性。


 つまり私は妊娠していた。


 産婦人科もある大きな病院だったので、しっかり検査してもらって私の妊娠は確実となった。

 お父さんは記憶のないうちに強姦の被害に遭ったなんて許せないと激怒し、お母さんは産むか産まないかの心配をしているようだった。


 せっかく授かった命。堕ろすのは避けたいけど、私一人で育ててあげられる自身もない。

 結局妊娠が判明してから一週間経った今も決定できていない。あまり悠長にしていては中絶手術が出来る期間が過ぎてしまう。


 入院中、病室のベットの上でずっとそんなことを考えていた。退院して家に帰ってからも毎日毎日悩み続けた。

 そんなある日。


「彼杵、少し街を歩いてきたらどう?」


 お母さんが朝ご飯を前にぼーっとする私に言った。


「どうして?」

「毎日産むか産まないかずっと考えてるでしょ? 気分転換の意味も込めて散歩したらどうかなって思って」

「うん。そうしようかな......お父さんとお母さんはどっちがいいと思う?」


 産むか堕ろすか。なんとなくで聞いてみた。


「お母さんは彼杵の気持ちを尊重したいからどっちがいいとは言わないわ。どちらを選択しても悪くないんだから、無理に産もうとも考えなくていいし産まなきゃって使命感に彼杵が押しつぶされるのも違うと思うし」

「金の心配はしなくていいぞ彼杵。お父さんが出す」

「そっか......とりあえず散歩してくる」


 最終的には自分の問題、ってことなんだろうなぁ。


 出来れば十二週までには中絶するかしないか決めたいところではある。それを越えると手術が大変になってくるのだ。

 どうしたものか......。

 警察は一応父親を探そうという感じだったけど......まあ見つかるわけないよね。


 それに絶対強姦されたとも言えない。

 もしかしたら記憶がなくなっていたという二年の間に彼氏がいてその人との子供なのかもしれないし。いや私がたった二年で男の人と性行為なんてするのかな。

 先生が言うには徐々に思い出すかもしれないし一生思い出さないかもしれないとのこと。気になるし、出来れば思い出したい。


 でもホント不思議だなぁ。二年間の私の空白部分はどんなことが起こってたんだろう。

 そう言えば私が目を覚ましたときに病室にいた女の子はどこに行ったのかな。中学生くらいだったけど、今は思い出せない記憶の中で出会ったのかな。


 あれ? 今さらだけど私を刺した犯人ってどうなったんだ? 

 警察の人からは何も聞いていないけど、捕まってるんだろうか。


 と、色々なことを散歩しながら考えた。整理がついたとは言えないけれど、お母さんの言うとおり気分転換にはなった。

 

「ありゃ? なんで私こんなとこに来てるんだろ」


 いつのまにか私は大きな豪邸の立ち並ぶ街へと来ていた。もっとショッピングセンターとかがある方にいくつもりだったんだけどな。

 勝手に歩いて来ちゃった......?

 横を見るとそこには中でも一際大きい家というか屋敷の門前。


 ......なんか懐かしい感じ。


 じっと見ているとなんだか大事なことを思い出しそうな気がしたので眺めていると、家の中からたくさんの荷物を背負った男の人が現れた。

 なんだろう。あの男の人、すっごく知ってる気がする。思い出せないけど昔会ったことがあるような、ないような。でも、見てると安心しちゃうこの気持ちはどういうことなんだろう。


「あ、あのすいません!」


 私は何を思ったかその人に話しかけたのだ。男の人はこちらを振り向くと、ギョッとしたような顔で私を一瞥した。


「なんでしょうか」

「あ、いや......なんて言うか、その」


 ヤバイ。ホントに無意識のうちに話しかけてしまったから何も話す事がない。


「あのそんなたくさんのお荷物持って、どちらへ?」


 世間話を装って話を広げる。


「あぁ。この屋敷売り払って引っ越すんですよ」

「そうなんですか......」


 そっか。こんなに大きなお家を売っちゃうってことは何か訳アリなのかな。

 すると私は不思議とこの人になら何でも離せるような気がして妊娠の話題を振った。


「実は私、妊娠してるんですよ......」

「......っ! 妊娠、ですか」


 一瞬引きつった顔をする男の人。


「ただ私ついこの間まで記憶喪失で、この子の父親が分からないんです」

「はい」

「産むべきか堕ろすべきか。ずっと悩んでて......あ、こんなこといきなり初対面の人に言われてもどうしようもないですよね! ホントごめんなさい」


 私が頭を下げると。


「産んであげてください」

「え?」


 男の人は律儀にも私の問いに答えてくれた。どうしてだろう、何故かこの人の声を聴くと嬉しくなる。


「もしかしたら記憶がなくなってる間にあなたが愛した人との子かもしれません。その子の父親は今でもあなたのことを大切に想っていますよ」

「そうですかね......」

「どうか、あなたが記憶をなくしている間にも何か起こっていたという証拠に、産んであげてください。そして大事に育ててあげてくれませんか?」


 何故かお願いするように男の人は私に言った。


「もしかしてなんですけど......私のこと知ってますか?」


 本当に小さな望みだった。この人が知っていてくれたら嬉しいなと思いつつ訊いてみる。


「......いや、知らないです。今初めて会いましたよ」

「そう、ですか......」

「それじゃあ俺はこれで」


 男の人は手刀を切ると、くるっと踵を返して歩いていった。


「あの、ありがとうございました! 私、この子産むことにします!」


 私が小さくなる背中に向かってそう叫ぶ。男の人は少し立ち止まるもこちらを振り向くことはなくそのまま歩き続けていった。


 表札には『高天原たかまがはら』という苗字。


 私は心の中でもう一度ありがとうとお礼を言って我が家への帰路を辿るのであった。


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